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カチンの森事件

1940年、ソ連軍のポーランド侵攻の際、多数の将兵が殺害された事件。真相は長く伏せられていたが、1990年、ソ連軍の犯行であるこを認めた。

 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開始された。するとソ連独ソ不可侵条約の秘密条項に基づき、1939年9月17日に、ソ連軍を東側国境からポーランド侵攻を実行した。
 こうしてポーランドは東西から再び分割されるという危機に陥り、両面での抗戦を強いられた。ソ連軍はポーランド東部を占領したが、その際、1940年3月~4月に恐らくソ連内務人民委員部(NKVD。KGBの前身)が、ポーランド将兵数千を虐殺、カチンの森に埋めたとされる事件が起こった。しかし、その真相は一切ふせられ知られることはなかった。
 1943年4月13日、ドイツのベルリン放送が、約3000の遺体を発見されたこと、それはソ連(ボリシェヴィキ)の犯行であると発表すると、ソ連は直ちに反論、ナチスが自らの犯行をかくし、反ソ宣伝に利用したと主張した。亡命ポーランド政府はソ連に調査を依頼したが、ソ連は応えず、うやむやにされ、戦後はポーランドの親ソ的政府のもとで事実に触れることはタブーとされてしまった。
 カチンは旧ポーランド領で、現在はロシアのベラルーシ国境に近い森林地帯にある。

ソ連軍の犯行が明るみに

 ようやく1987年、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げたソ連のゴルバチョフ政権が、改革の一環として真相究明に宜だし、1990年4月ソ連が自国の犯行を認め、ポーランド政府に対し、謝罪した。
 現在明らかになったいるのは、犠牲となったのはソ連の捕虜となったポーランド人将校らで、3つの収容所に送られ、1940年4~5月の間、カチンの森での約4400人を含め、3ヶ所で約1万4500人が秘密警察の内務人民委員部によって銃殺された。その他に現在のウクライナ西部の刑務所に収容された約7500人も銃殺されたとされている。<朝日新聞 2010年4月11日解説記事による>

その後のソ連とポーランド

 1941年6月22日、ドイツ軍はポーランドのソ連支配地域を含むソ連領に電撃的な侵攻を開始、独ソ戦となった。ドイツ軍は1943年のスターリングラード撤退から後退を始め、ソ連軍は各地で反撃に転じドイツ軍を追いつめていった。ポーランドの解放を進めていたソ連は、大戦後のポーランドに共産党の影響力を強めたいと考えていたが、国内に残っていたポーランド軍はイギリスと協力しているロンドンのポーランド亡命政府の指示を受けていたので、ソ連軍との関係は良くなかった。ソ連はポーランド解放後の政府として共産党を主力としたルブリン政府を組織し、その力によるドイツ支配に対する抵抗運動を援助していた。また、1944年には亡命政府に呼応したワルシャワ市民が蜂起したが、ソ連軍はワルシャワ近郊まで進撃していながら、このワルシャワ蜂起を支援せず、多くの市民の犠牲が出るという悲劇も起こった。<渡辺克義『カチンの森とワルシャワ蜂起』シリーズ東欧現代史1 岩波書店>

News プーチン、カチンの森で追悼

 カチンの森事件から70年を迎えた2010年4月7日、ロシアのプーチン首相はロシア西部のカチンにポーランド首脳を初めて招いて式典を開き、犠牲者を悼んだ。2000年にロシアがポーランドと共同で建てた慰霊施設「カチン・メモリアル」での式典で、ポーランドのトゥスク首相を迎えたプーチン首相は「スターリン体制の犯罪はどんな形であれ正当化できない。(ソ連の)数十年間、カチンの銃殺についての真実を汚そうとするうそが続いてきた」と述べ、改めて虐殺の犠牲者を悼んだ。
 プーチン氏が初めてカチンで式典を開き、再び和解に乗り出した背景には、反ロシア感情の根強いポーランドなどの東欧、バルト諸国との関係修復のために、「過去のトゲ」を取り除く方向に舵を切ったことにある。
 父がカチンの森で殺された犠牲者の一人であり、映画『カティンの森』を撮ったポーランドの映画監督アンジェイ=ワイダも式典に招待された。ワイダは「事件から70年、遺族も高齢化している。事件の記憶を無くさず、正しく伝えるために映画を撮った。歴史の証人としてポーランドとロシアの和解が進むことを期待する」と述べた。<朝日新聞 2010年4月8日記事>

News 更なる悲劇が襲う

 ところが「カチンの森追悼式典」は更なる悲劇を生み出してしまった。4月10日、式典参加のために現地に向かっていたポーランド政府の大統領専用機がロシアのスモレンスク近郊で墜落、レフ=カチンスキ大統領夫妻と式典に向かう事件の犠牲者の家族多数が死亡するという大事故が起こった。
 4月7日行われた最初の式典ではポーランドからトゥスク首相が出席した。なぜ大統領がこの時一緒でなかったか。実はカチンスキ大統領はカチンの森事件をソ連の犯行として厳しく批判する姿勢を崩さず、和解を求めるロシアを拒否していた。プーチンは7日の式典にはカチンスキを招待していなかっのだった。しかしライバルであるトゥスクが式典に参加して、今後の保障問題などの窓口になっていくことはカチンスキにとっては都合が悪い。またカチンの森事件に関心の高いポーランド国民に対しても式典に参加しなかったことは選挙に不利になるという判断が働き、急遽10日にメドベージェフ・ロシア大統領の主催する追悼式典に参加することにした。それが裏目に出て飛行機事故に遭ってしまったのだった。<朝日新聞 2010年4月11日記事>
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書籍案内

渡辺克義
『カチンの森とワルシャワ蜂起』
シリーズ東欧現代史1
1991 岩波ブックレット
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アンジェイ・ワイダ監督
『カチンの森』
ポーランド映画