リトアニア/リトアニア=ポーランド王国
リトアニアはバルト海に面したインド=ヨーロッパ語族に属する民族の国。バルト三国の最も南に位置し、その南にはロシアの飛び地、ポーランド、東南はベラルーシというスラブ系諸国と国境を接している。現在は小国であるが、13世紀には現在のベラルーシ、ウクライナなどを含む大国であった。また14世紀末にはポーランドと同君連合リトアニア=ポーランド王国となり、それに同化し、18世紀のポーランド分割でその地はほとんどロシア領となった。ロシア革命によって1918年に独立したが、第二次世界大戦中にソ連に併合され、1991年に独立した。
- (1)リトアニア大公国
- (2)リトアニア=ポーランド王国
- (3)ロシア革命とリトアニア
- (4)リトアニアの独立
(1) リトアニア大公国
13世紀にこの地に進出したドイツ騎士団と闘いながら力を付け、周辺のスラヴ人居住地に勢力を伸ばし、14世紀初めにリトアニア大公国を称し、現在のベルラーシとウクライナ北部を支配する大国となる。その間、スラヴ人の文化を取り入れ、スラヴ化が進んだ。
スラヴ人地域への進出
13世紀の初め、ポーランドのキリスト教諸侯はリトアニア人のキリスト教改宗を進めるためとして、当時十字軍活動が終わって活動の場を失っていたドイツ騎士団のその地に入植させた。これがドイツ騎士団の東方植民の始まりであった。リトアニア人は、ドイツ騎士団と闘いながら次第に武力を高めて行き、かえって東南方のスラヴ人居住地に進出、次々と領土を広げていった。14世紀には首都ヴィルニュスを建設、周辺諸国と婚姻政策を進めてリトアニア大公国といわれるようになった。リトアニア大公国の大国化
14世紀のリトアニア大公国は、現在のリトアニアからは想像できないほどの大国であった。現在のミンスクを中心としたベラルーシ(白ロシア)、当時はルーシと言われた現在ロシア領のスモレンスク、ウクライナのキエフを含む広大な領土を支配下に収めていた。1362年にはキプチャク=ハン国を破り、ウクライナ地方の“タタールのくびき”を解放した。このようなリトアニアの急速な大国化は、征服地のスラヴ系民族(ルーシ)を登用し、その文化を取り入れレ、スラヴ化したことによると考える。ドイツ騎士団との抗争
ドイツ騎士団のリトアニアへの進出は、ヨーロッパで唯一、キリスト教を受容していないリトアニアに対する宗教戦争という看板を掲げていたが、実態はドイツ人の東方植民という、十字軍運動と同じキリスト教世界の膨張運動の一環であった。この脅威に対してリトアニアが選んだのがもう一つの西隣の国ポーランド王国との合同であった。(2) リトアニア=ポーランド王国
1386年、ポーランド王国はリトアニア大公国と同君連合の国家となり、ヤゲヴォ朝が成立、それによってドイツ騎士団の東進を阻止した。その後はポーランド化が進み、1569年に合同し、ポーランド王国となってリトアニアは一旦消滅する。
同君連合の成立事情
1370年、ポーランド王国ピアスト朝はカジミェシュ3世(大王)を最後に断絶した。大王のあと、ハンガリー王のルードヴィクがポーランド王位を継ぎ、その死後は娘のヤドヴィーカを王とした。ポーランドのシュラフタ(貴族)はヤドヴィーカ女王と同権の国王として、カトリックへの改宗を条件に東隣のリトアニア大公ヤゲウォ(リトワニア語ではヨガイラ)を選んだ。こうして1386年、ヤゲウォはポーランド国王とリトアニア大公を兼ねることとなり、この同君連合の国家をリトアニア=ポーランド王国という。またこれ以降の王朝をヤゲウォ朝という。リトアニアのキリスト教化 ポーランド王国との同君連合となる前提として、リトアニア大公は洗礼を受け、キリスト教(ローマ教会)を受容した。リトアニアがキリスト教化したことによってドイツ騎士団の「十字軍」としての意味合いはなくなった。つまり、両国の連合の背景にはドイツ騎士団の東方植民に対抗するための意味もあり、
ドイツ騎士団との戦争
1410年、ヤゲウォの指揮するリトアニア=ポーランド軍はタンネンベルクの戦い(グルンヴァルドの戦い)で、ドイツ騎士団軍を破る勝利をあげている。なお、タンネンベルクは、現在のポーランドのワルシャワ北方にあり、1914年の第一次世界大戦でドイツ軍がロシア軍に大勝した場所でもある。ポーランド人にとっては、中世後期の最大の戦闘であった1410年の勝利は、20世紀の反ドイツ抵抗運動の時に盛んに喧伝された。さらに1454~66年の十三年戦争でドイツ騎士団(後のプロイセン公国)と戦い、バルト海への出口グダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)を回復して、穀物や材木の輸出が急速に延び、経済は飛躍的に発達した。その後、16世紀前半にもドイツ騎士団と戦って破り、ついに騎士団は僧衣を脱ぎ、ポーランド王を封主としてルター派の新教を信奉する世俗のプロイセン公国(ホーエンツォレルン家アルプレヒトを初代の大公とする)は1525年にクラクフの広場でポーランド国王ジグムント=スターリの足下に跪いて臣従の誓いを立てた。しかしこの結果、ポーランドの中にドイツの飛び地を抱えることになり、後に大きな悲劇を生んでいくことになる。
ポーランドに併合される
こうしてヤゲウォ朝のもとで東欧での大国となった両国は1569年に「ルブリンの連合」で正式に合同し、同一の国王、同一の身分制議会(セイム)をもつことになった。また領土も現在のウクライナも含む広大な国土を有することとなった。しかし、両国の合体は、実質的にはポーランドがリトアニアを併合したものであったので以後は単にポーランド王国と称することが多い。リトアニアの消滅
リトアニアは実質的にポーランドに併合され、ポーランド化が進んだが、17世紀には東に隣接するロシアのロマノフ朝が次第に有力となった。1648年には、ポーランド王国に支配されていたウクライナのコサックが、頭目(アタマン)のボグダン=フメリニツキーに率いられて反乱を起こした。彼らはポーランド国王がカトリック教会の立場であったのに対し、ギリシア正教会であったので、同じロシアに援軍を要請、1654年、ロシアが介入すると、バルト海の覇権をめぐってロシアと対立していた新教国スウェーデンも出兵し、戦争は長期化、ようやく1660年に講和となった。ポーランドはこの外国軍の侵入による戦禍を「大洪水」と呼んでいるが、まさにポーランドの衰退の始まりであった。両国軍の戦場となって荒廃した。1667年にはウクライナ東部はロシア領に編入された。ポーランドの消滅
さらに、18世紀後半に、隣接するプロイセン、オーストリア、ロシアによるポーランド分割が進み、最終的にはリトアニアの大部分はロシアとプロイセン領に編入されることとなった。(3) ロシア革命とリトアニア
バルト三国の一つ。ポーランド分割以来ロシア領とされていたが、ロシア革命によって民族自決が認められ、1918年に独立した。しかし、第二次世界大戦中の1940年に、ソ連に併合された。
1386年、リトアニア大公ヤギェヴォはキリスト教の洗礼を受け、ポーランド王国との連合王国リトアニア=ポーランド王国を形成し、プロイセンやロシアと覇を競う大国となった。しかし、18世紀には周辺の大国に押され、ポーランド分割によって国家が消滅し、ロシア帝国の支配が続いた。
ロシア革命とリトアニアの独立
リトアニアに独立の機会が訪れるたのは、1917年のロシア革命(第2次)によってロシア帝国が滅亡したためであった。権力を握ったレーニンは、平和についての布告を発表し、民族自決の原則を表明、バルト三国の独立が実現し、その一つとしてリトアニアも独立した。しかし、国土はかつていのリトアニア=ポーランド王国に比べて、大幅に縮小された。ソ連による併合
この独立は長く続かなかった。ソ連のスターリンは、ドイツのヒトラーとの間でドイツとの間で、1939年に独ソ不可侵条約を締結したが、それに付帯する秘密議定書で、ドイツとのポーランドの分割とともにバルト三国の併合を密約し、1940年8月にソ連に併合してしまった。リトアニアはエストニア、ラトヴィアとともにソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を構成する一つの共和国となり、社会主義建設が進められた。Episode 日本のシンドラー、杉原千畝
リトアニアの首都ヴィリニュスは東ヨーロッパで最もユダヤ人の多い町として知られていた。すでに14世紀からユダヤ人の手工業者や商人を受け入れており、さらに1569年のポーランドとの連合以来急増し、1573年には最初のシナゴーグが建設され、ユダヤ人は人口の3分の1をしめた。ところが第2次世界大戦はその状況を一変させた。ナチス・ドイツ軍占領下のユダヤ人への迫害は、大きな都市でひどく、ヴィリニュスでも多くのユダヤ人がゲットーへ収容された。難を逃れようとしたユダヤ人はソ連やアメリカへの亡命を求めたが、敵国とされたためいずれも大使館は閉鎖されていた。唯一ドイツと外交関係のあった日本を経由してアメリカに亡命しようとした。こうして多数のユダヤ人がカウナスにあった日本領事館にビザ発行を求めて詰めかけた。日本領事杉原千畝は本国外務省は認めなかったが、独断で彼らに日本通過ビザを発行した。こうして多くのユダヤ人の命が救われ、杉原は戦後、イスラエル政府などから表彰され、「日本のシンドラー」として知られるようになった。(4) リトアニアの独立
1990年、ソ連邦からの独立を宣言、ソ連邦の崩壊の最初の動きを作った。91年に独立を仮定した。バルト三国の一つ。2004年にNATO、EUに加盟している。
リトアニアの独立
1989年には東欧革命が一気に進展し、バルト三国のソ連からの独立運動も始まった。特にバルト三国では、1939年の独ソ不可侵条約の祭に両国の秘密議定書が取り決められ、それによってソ連が三国を併合したことが明らかになり、一気に反ソ感情が強まった。独ソ不可侵条約から50年目にあたる1989年8月23日に、抗議運動として三国の市民が手をつなぎ合う「人間の鎖」が作られた。この抗議活動の中から、リトアニアにはサユーディスという独立派組織が形成され、彼らを中心に1990年3月11日、三国のトップを切って独立を宣言した。それに対してソ連は親ソ派の介入要請を受けるかたちで軍隊を派遣、91年1月ヴィリニュスの放送局を占拠した。しかし、2月に独立の是非を問う国民投票がおこなわれて多数が独立を支持、ソ連軍も撤退し、独立を実現した。
2004年3月にNATOに加盟し、5月にはEUに加盟した。
リトアニア国旗(右)は、1898年に帝政ロシアの旗をモデルに作られたという。黄色は小麦と太陽、緑は自然と取り戻した希望、赤は愛国者の血潮と勇気を示すとされている。<辻原康夫『図説国旗の世界史』2003 河出書房新社 p.52>
News かぎ十字は歴史的遺産?
2010年6月2日の国際ニュースにちょっと気になる記事があった。リトアニアのクライベダ市の裁判所が、ナチスドイツのシンボルだった「かぎ十字」について「バルト民族文化の価値あるシンボルだ」との判断を示したという。リトアニアの法律は「かぎ十字」の掲示を禁じているが、「歴史的遺産」のお墨付きを得た形だ。裁判は、独立回復記念日の2月16日に若者グループが「かぎ十字」を掲げて集会に参加、4人が警察に拘束された事件をめぐるもの。公判で被告側は、発掘された指輪やブローチなどの多数の考古品に太陽のシンボルである「かぎ十字」が描かれていると主張。5月18日に出された判決は、使用を禁止してはならないとした。<朝日新聞 2010年6月2日の記事>