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エストニア

バルト三国の一つで最も北に位置する。ウラル語系民族が、1920年に独立。第二次世界大戦時にソ連に併合されたが、1991年、ソ連邦からの分離独立を宣言した。

 1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡した際に独立したバルト三国のひとつ。三国の中でもっとも北に位置し、東にロシア連邦、南にラトヴィアと接する。民族的にはエストニア人はウラル語族のフィン・ウゴル語に属し、フィンランド語に近いエストニア語が公用語である。文化的・政治的にもフィンランドとの関係が深い。首都のタリンはバルト海に面した港で、ハンザ同盟都市として栄えた。エストニア人はその後、スウェーデンやロシアの支配下にあった時期が長く、民族意識を持つようになったのは19世紀末から20世紀初めであり、1917年の独立が国家を形成の最初であった。

独立からソ連編入まで

 1917年、ロシア革命を成功させたレーニンは、平和についての布告を発表して民族自決の原則を掲げた。それによってバルト三国の独立が実現し、ラトヴィア・リトアニアは1918年、エストニアは1920年に独立を達成した。
 1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立、20年代後半から権力を握ったスターリンは次第に領土的野心を強め、第二次世界大戦が始まるとソ連はナチス=ドイツとの間での独ソ不可侵条約に付帯する秘密議定書に基づき、1940年8月にソ連に併合され、ソ連邦を構成する社会主義共和国となった。

ソ連からの独立

 ソ連のゴルバチョフ政権のペレストロイカが進む中で、1989年には東欧革命によって東欧諸国の民主化が実現するなかで、独ソ不可侵条約から50年目にあたる1989年8月23日に、抗議運動として三国の市民が手をつなぎ合う「人間の鎖」が作られるなど、バルト三国の独立の動きも活発となった。1991年8月、ソ連で保守派クーデタが起こると、それに呼応したソ連軍当局がエストニアの首都タリン港を封鎖、テレビ塔を占拠した。それに対してエストニア最高議会は議場をバリケードで囲んで防衛し、1991年8月20日の深夜独立を宣言した。クーデタに失敗したソ連保守派はタリンから撤退、エストニアの独立が確定した。

NATO、EUへの加盟

エストニア国旗  2004年3月にNATOに加盟し、5月にはEUに加盟し経済建設を進めている。2011年、旧ソ連圏内では初めて欧州共通通貨ユーロを導入した。しかし、エストニアとの国境問題を抱えるロシアは、エストニアの西ヨーロッパ寄りの姿勢に警戒を強め、またロシアの強圧的な態度に対してエストニアは反発を強めている。
 エストニアの国旗(右)の3色は、青が空、海、湖沼、白が雪、黒が大地を意味する。同時に黒はエストニア人への干渉と弾圧を意味しているという。<辻原康夫『図説国旗の世界史』2003 河出書房新社 p.25>
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