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ルドルフ=ヘス(ナチ党副総統)

ルドルフ=ヘスはヒトラーの腹心としてナチ党の副総統を務め、ナチス=ドイツの中枢にいたが、1941年、独ソ戦開戦直前に、単独でイギリスに飛行し、和平を図ろうとした。イギリス当局に捕らえられ、戦後は戦犯として40年以上にわたり拘束されたが、その真相は不明である。

 ルドルフ=ヘス(Rudolf Hess 1894~1987)はナチス=ドイツの主要人物の一人で、ナチ党の副総統としてヒトラーを補佐した。 → もう一人のルドルフ=ヘス(アウシュヴィッツ収容所長)
 ドイツ人貿易商の子としてアレクサンドリアに生まれ、12歳でドイツに戻り、学校で商業を学んだ。20歳の時第一次世界大戦が勃発、志願して西部戦線に送られ、けがをした後空軍に転じ、航空兵となった。戦後、ミュンヘン大学に入学して、地政学を講じるカール=ハウスホーファー教授の影響を受け、ドイツの再起を強く意識するようになった。1920年、ナチ党の集会でヒトラーの演説を聴き、その虜となってすぐさま入党した。それ以後ヘスはヒトラーに忠誠を誓い、献身的に追従し、1923年のミュンヘン一揆に参加、ヒトラーと共に捕らえられてランツベルク刑務所に収容された。そこでヘスはヒトラーの口述する『我が闘争』の筆記にあたった。その一部はヘス自身の記述とも言われている。出所後はヘスはヒトラーの秘書兼副官として重用されるようになった。
 ナチ運動が力を得るに従って、ヘスは党の会議で次第に高い地位へ昇っていった。ナチ党の大集会のたびに、ヘスは全能の神について語るような口調でヒトラーを紹介した。うやうやしい献身をこめ、目に涙さえうかべて、群衆の熱狂的な“ハイル・ヒトラー”の音頭をとった。「総統閣下(マインヒューラー)」と、ヘスはしゃがれた声で叫んだものだった。「あなたに対するわれわれの信頼は無限であります!」<スナイダー/永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』1970 角川文庫 p.92>
 1932年には党中央政治委員長となり、翌年4月にはナチ党の副総統に上りつめた。その後もナチ党党首、ドイツ秘密閣僚会議委員、無任所大臣、ドイツ国防会議委員などの肩書きがつき、ヒトラーの代理人として振る舞い、総統のオーストリア、チェコ、ポーランドへの侵略計画のつねに傍らにいた。

謎のイギリス単独飛行

 1939年、第二次世界大戦が勃発すると、事情が一変した。ヒトラーは軍部首脳との会談に忙しく、うるさくまつわりつく神経質なヘスは次第に背景に押しやられていった。ナチス=ドイツがソヴィエト攻撃に転じる1ヶ月半前の1941年5月10日、ヘスは単独で戦闘機メッサーシュミットを操縦し、スコットランドに飛んで、落下傘で脱出して機体は墜落させた。乾燥用熊手を持った一人の農夫に捕らえられたヘスは、イギリスとの和平の交渉に来たのだと訴えたがとりあってもらえず、刑務所に入れられた。
 激怒したヒトラーは、ヘスは発狂したと発表した。またイギリスもヘスをヒトラーの正式な使者と見做すことなく、そのまま獄中にとどめた。後にヘス自身が語ったところによれば、、ヒトラーの本心はソヴィエトとの決戦にあってイギリスとは戦いたくないというものだと考えたヘスがまったく独断でやったことだという。ヘス自身も同じゲルマン系民族であるドイツ人とイギリス人は戦うべきではないと思っていたと言っている。ヘスの思い切った行動は、ヒトラーの信頼を取り戻そうという焦りだったのかも知れないが、ヒトラーは少なくとも表立ってはそれに応えず、ヘスを狂人扱いにするしかなかった。イギリスは、ヘスはヒトラーから逃れて亡命したのだと宣伝した。そして1ヶ月半後にヒトラーがソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、スターリンはヒトラーがソ連攻撃に集中するためにイギリスと和平しようとした謀略だと非難した。

Episode 戦後40年、獄中で生きたナチ幹部

 ヘスは戦後、ドイツに移送されニュルンベルク国際軍事裁判で被告として告発された。そして死刑にはならなかったが終身刑としてベルリン郊外のシュパンダウ刑務所に収容され、1987年まで40年以上にわたって獄中にあった。途中、余りに長引い拘束は非人道的であるとして釈放の要請もあったが、連合国各国の同意が必要であるなかでソ連が一貫して反対したため実現しなかった。
 ヘス自身は、「獄中で密かに毒を盛られたために記憶喪失になった」と称して、証言を拒み続けたため、単独飛行の真相は謎のままである。その後、獄中のヘスが膨大な手記を残されていることが判明したが、そこでも単独の和平交渉を試みたということしか述べられておらず、ヒトラーの意図が働いたという証拠は見つかっていない。<ユージン・バード/笹尾他訳『囚人ルドルフ・ヘス』1976 出帆社>

ルドルフ=ヘス(アウシュヴィッツ収容所長)

ナチ党員で、1940年からアウシュヴィッツ収容所長としてユダヤ人虐殺の現場を指揮した人物。

 日本語では同じくルドルフ=ヘスと表記するほぼ同時代のナチス党員のドイツ人は二人いる。一人のヘス(Hess)はナチ党の副総統。もう一人のヘス(Rudolf Höss 1900~1947)は、1940年からアウシュヴィッツ強制収容所の所長を務めた人物で、1947年、ポーランド最高人民裁判所により死刑の判決を受け、アウシュヴィッツで絞首刑に処せられた。二人は直接の関係はない。
 こちらのルドルフ=ヘスはバイエルン地方の厳格なカトリックの家庭に生まれ、「戦争にあこがれて」16歳で志願し第一次世界大戦に参加し、トルコ、イラン、パレスティナ戦線で戦った。大戦後、居場所を失ったヘスは社会主義者や労働運動活動家を襲撃することを任務とする反革命義勇軍の一つ、早くから鉤十字をシンボルとしていたロスバハ義勇軍に参加した。そのテロ活動によって逮捕され、6年間の獄中生活を送る。入獄前の1922年にナチ党に入党していたが、出所後は党活動は行わず、農業団体に入り、結婚して普通の生活を送っていた。

アウシュヴィッツ強制収容所長

 1934年、ヒムラー(親衛隊長官)から誘われて親衛隊(SS)の隊員となる。ヒトラーが政権を獲得したのに伴い、反ナチス活動を行った政治犯を収容する収容所が造られ、ヘスはいくつかの収容所や監獄で経験を積み、いかに「非国民」を黙らせるか、という技術を身につけていった。そして1940年、開設されたアウシュヴィッツ強制収容所の所長となり、ヒムラーの進めるユダヤ人の大量殺害の方法研究に参加する。彼らの結論は、チクロンBという毒ガスを使用する方法が、「最も苦しませず、従って執行者の手を煩わせず、一時に大量に殺害できる」方法であるという結論を得て、実行に移した。
 ルドルフ=ヘスは、ごく普通のドイツ人で、キリスト教信者であり家庭的人間であった。しかし、ユダヤ人に対する蔑視、ヒトラーに対する崇拝という自己の信念にも忠実であり、仕事に対して熱心に取り組まなければならないという観念にも囚われていた。彼が収容所長として、ユダヤ人大量殺害という行為を義務感のもとに遂行していった経緯は、戦後出版された彼の手記に詳しい。<ルドルフ・ヘス/片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』1999 講談社学術文庫>
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書籍案内

ユージン・バード
笹尾他訳
『囚人ルドルフ・ヘス』
1976年 出帆社

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ルドルフ・ヘス
片岡啓治訳
『アウシュヴィッツ収容所』
1999 講談社学術文庫