ブラント
戦後のドイツ社会民主党の政治家。60年代末から首相として東方外交を展開し、ドイツ統一の基礎を築いた。
ポーランドのワルシャワを訪れ、ユダヤ人ゲットー記念碑にぬかずく西ドイツ首相のブラント
ウィリー=ブラント Willy Brandt 1913-1992 は、第二次大戦後のドイツ社会民主党(SPD)の政治家で党首。ナチス時代は亡命生活を送った。戦後、西ベルリン市長に選出され、1961年の東ドイツ政府によるベルリンの壁の設置などに直面しながら、市民レベルの東ベルリンとの交流を模索した。
1969年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)は第1党だったが過半数はとれず、第2位の社会民主党と第3位の自由民主党の連立となり、首相にブラント、副首相兼外相に自由民主党のシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めて社会民主党の首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。
また、これらの積極的な東方外交の展開は東西冷戦の変質をもたらし、緊張緩和(デタント)を実現させたと評価され、1971年度のノーベル平和賞を受賞した。ところが1974年に秘書の一人に東独のスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任した。
ブラントの緊張緩和への努力は在任中には実らなかったが、1975年に全欧安全保障協力会議(CSCE)でヘルシンキ宣言が採択され、それ1989年の東欧革命を呼び起こすこととなって、大きく結実することとなる。
1969年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)は第1党だったが過半数はとれず、第2位の社会民主党と第3位の自由民主党の連立となり、首相にブラント、副首相兼外相に自由民主党のシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めて社会民主党の首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。
東方外交を展開
1969年10月、首相に就任したブラントは、西ドイツをドイツ唯一の国家であるとして東ドイツを認めないという従来の基本姿勢を変更し、共産党国家が東隣にあるという現実を認め、そこから変革の糸口をつかもうとする「接近による変化」という発想に立つ、新たな外交に着手した。彼は積極的にソ連、ポーランド、東ドイツを訪問し、それぞれと条約を締結、国交正常化を図った。特に1970年に西ドイツ=ポーランド国交正常化条約を締結し、ポツダム協定以来確定していなかったドイツ・ポーランドの国境をオーデル・ナイセ線であることを認め、ドイツに領土拡張の野心がないことを周辺諸国に表明して欧州の安定に寄与した。ソ連との間では1970年8月にソ連=西ドイツ武力不行使条約、東ドイツとの間では1972年12月21日に東西ドイツ基本条約を締結した。「接近による変化」の成果
東ドイツとの基本条約締結は、それまて相手を国家として存在しない、従って交渉もしない、という態度を改め、話し合いを始めることによって現状に風穴を開け、解決に道を探ろうという、ブラント首相の「接近による変化」の大きな成果であり、当時は誰も実現不可能であろうと考えていた、東西ドイツ統一を導く出すこととなる。また、これらの積極的な東方外交の展開は東西冷戦の変質をもたらし、緊張緩和(デタント)を実現させたと評価され、1971年度のノーベル平和賞を受賞した。ところが1974年に秘書の一人に東独のスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任した。
ブラントの緊張緩和への努力は在任中には実らなかったが、1975年に全欧安全保障協力会議(CSCE)でヘルシンキ宣言が採択され、それ1989年の東欧革命を呼び起こすこととなって、大きく結実することとなる。
Episode ドイツ首相、ワルシャワ・ゲットーでぬかずく
ブラントの東方政策は東側とのビジネスとも揶揄するむきもあったが、そのような雑音を押しのけて、彼の「ドイツの過去の犯罪をはっきり認める」倫理的高潔さは世界に感動を与えた。(引用)特に70年12月ワルシャワを訪問した折り、かつてのユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に……花輪を献げたブラントは、雨上がりで濡れているにもかかわらず、コンクリートの地面に突如としてひざまづいて黙祷を献げた。予定外の行動である。かつて自分もその政権のゆえにドイツを追われた人間が、ポーランドで最も残虐をきわめたナチスの行為のゆえに深く頭を垂れた。この態度はなぜ東側と対話をしなければならないかについて、静かだが雄弁な説得力を持っていた。<三島憲一『戦後ドイツ -その知的歴史-』1991 岩波新書 p.192>