シュレジエン(シロンスク)
オーデル川上流のポーランド、ドイツ、チェコの国境付近で石炭などの資源が豊かであるため帰属をめぐって紛争が続いた。ポーランド領であった時にモンゴル軍が侵入して荒廃。その後、ボヘミア王国、ハプルブルク家オーストリア帝国領となった。18世紀半ば、プロイセンのフリードリヒ2世が侵攻(シュレジェン戦争)して領有、その後のドイツ帝国支配下でドイツ化が進んだ。ドイツ系住民とスラヴ系住民との民族紛争が続き、第一次世界大戦後の国際連盟の調停により上シュレジェンはポーランド領となった。第二次世界大戦でナチス=ドイツが占領、戦後に全域がポーランド領となった。
シロンスク GoogleMap
かつての上シュレジェン
10世紀以降、ポーランド人がこの地に入ったが、まもなくドイツ人の東方植民も始まる。1241年、モンゴルのヨーロッパ遠征軍が来襲、迎え撃つポーランド・ドイツ連合軍が戦ったワールシュタットの戦い(リーグニッツ)もこの地にあり、シュレジェン公ハインリヒ(ヘンリク)2世が指揮した。ハインリヒ2世は戦死したが、モンゴル軍は引き揚げ、この戦いでシュレジェンは人口が減少、荒廃した土地の復興のためにポーランド王はドイツ人などの東方移住を盛んに奨励した。
14世紀以来、神聖ローマ帝国内のボヘミア王国(現在のチェコ)領となり、1526年にオーストリアのハプスブルク家がボヘミア王家を継承したためにその所領となった。この地は鉄・石炭などの地下資源が豊かで、18世紀には鉱業とともに織物業も興り、オーストリア領内でも最も工業が発達している地域となって人口も100万に達していた。
プロイセンによる奪取
プロイセンのフリードリヒ2世は、自己の貧弱な国土に、この地を加えることを熱望していたが、1740年にハプスブルク家の家督を女性のマリア=テレジアが相続することを認める代償としてこの地の併合を要求し、オーストリア継承戦争がおこった。この戦争はシュレジェン戦争(第1次)ともいう。1742年にフリードリヒ2世はこの地の割譲を認めさせたが、その後反撃され、さらにフランスの支援を受けて1744~45年再びオーストリアと戦い(第2次シュレジェン戦争)、占領を続け、1748年のアーヘンの和約でオーストリアに割譲を認めさせた。その後、オーストリアのマリア=テレジアはシュレジェン奪還を目ざし、フランスと結ぶという外交革命を成功させて、再びプロイセンと七年戦争(第3次シュレジェン戦争)を戦ったが、奪還はできず、1763年のフベルトゥスブルク条約でプロイセンによるシュレジェンの領有を認めざるをえなくなった。シュレジェン領有を確実にしたことによって、プロイセンはヨーロッパの強国のひとつとされるようになった。
ドイツ帝国領となる
その後、シュレジェンはプロイセン王国領としてドイツ化が進んだ。プロイセン支配下においても領内で最も進んだ石炭の産地、繊維工業地帯であった。1844年にはシュレジェン地方のオイレンゲビルゲで、麻織工が機械の導入で仕事が減ったことに怒って暴動を起こしている。後にドイツの劇作家ハウプトマンがこの事件を題材として『織工』を発表した。19世紀後半にプロイセンはビスマルクのもとでドイツ統一の主導権を握り、1871年にドイツ帝国を成立させた。シュレジェンもドイツ帝国に組み込まれ、それによってドイツ人の移住が続き、スラヴ系ポーランド人との対立も生じるようになった。農民や工場労働者はポーランド人、産業資本家や官吏はドイツ人という違いがはっきりし、言語の違いの他にポーランド人はカトリック、ドイツ人はプロテスタントという宗教上の違いも感情的な対立の要因となり、ドイツ当局はポーランド語の使用禁止などを強要したため反発も強まっていった。
第一次世界大戦
第一次世界大戦によってドイツ帝国が崩壊、さらにロシア帝国、オーストリアのハプスブルク帝国と言ったシュレジェン周辺の大国が姿を消したことで、大きな転換が訪れ、第一次世界大戦が終結した1918年11月11日、ポーランド共和国の独立(第二共和制)が達成された。シュレジェンの帰属はドイツと新生ポーランド、チェコスロヴァキア三国間の懸案となったので、1919年2月からのパリ講和会議で議題となり、ヴェルサイユ条約で調停された。低地シュレジェンはドイツ領として留まり、上シュレジェンでは住民投票で帰属を決定することとなった。上シュレジェンの住民投票 そのころポーランドのピウスツキ大統領はソヴィエト=ポーランド戦争を戦い、東部国境に集中していたため、西部国境の上シュレジェンには十分に力を注ぐことができない状況で、1921年3月22日に住民投票が行われた。
(引用)住民投票の結果は、ポーランド側にとって惨めなものだった。ドイツ側の優れた宣伝力と組織力が大いに効を奏した。上シロンスクでは国際監視委員会のイギリスとイタリアの代表は、約4割のポーランド票を無視し、工業地帯の不可分を説くドイツの要求を入れて、同地方の大部分をドイツに与える計画案を作成さえした。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.140>この結果に憤激したポーランド人の工場労働者はゼネストに立ち上がった。それまでもドイツによる差別的な支配に抗議したポーランド人の蜂起が続いており、この蜂起は第3次シロンスク蜂起と言われている。蜂起は1ヶ月以上にわたって続き、国際連盟のイギリスなどの強国も折れ、住民投票の結果に従わず、10月に上シロンスクを分割し、南東部の鉱工業地帯(住民投票地域の約29%)をポーランドに帰属させることを決めた。
ポーランドとチェコの間で係争地となっていたチェシン=シロンスク地方は、当初住民投票が行われることになっていたが、20年7月、ポーランドはその裁定を国際連盟に委ねることに同意、その結果チェコ領とされた。
ポーランド領の東方拡張 ポーランドの西部国境は実際のポーランド人住民の居住地のすべてを編入することはできなかったが、それはピウスツキがソヴィエト=ポーランド戦争に集中していたためであった。同1920年8月16日、ピウスツキはヴィスワの戦いでソヴィエト赤軍を破り、翌年3月のリガ条約でベラルーシやウクライナ西部をソヴィエトから獲得し、ボーランド分割で失った東方領土を回復した。その実績でピウスツキはその後もポーランドでの独裁的権力をふるうこととなる。
第二次世界大戦
1939年、ナチス=ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まるとシュレジェンのポーランド系住民は虐殺や追放などの迫害を受けた。さらにナチスは占領したアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)にユダヤ人強制収容所を建設した。第二次世界大戦がドイツの敗北に終わる直前の1945年2月に開催された連合国首脳会談のヤルタ会談でスターリンが主張したポーランドとドイツの国境をオーデル=ナイセ線とすることが決まり(その前のテヘラン会談でチャーチルも大筋同意していた)、シュレジェン全域はポーランドに編入されることになった。ドイツ敗北後のポツダム協定で第二次世界大戦後のシュレジェンのポーランド領編入が確定し、それによって、すでに定住していた多数のドイツ系住民は強制的にドイツ領に移住させられ、ポーランド系住民がその跡地に入り、現在にいたっている。