スターリン
ジョージア(グルジア)出身の古参ボリシェヴィキ。レーニンから権力を継承し、1922年、ソ連共産党書記長となる。1924~1953年、ソ連の独裁的権力を握る。一国社会主義の立場を取り、五カ年計画を推進して工業・農業の集団化を進め、トロツキーなど反対派を次々と排除、粛清し個人崇拝を強める。1938年には宥和政策をとる英仏に反発してナチス=ドイツと不可侵条約を締結、第二次大戦勃発とともにポーランド、フィンランドに侵攻。しかし、1941年6月、独ソ戦に突入、大祖国戦争といわれる多大の戦死者を出すも、スターリングラードの戦いを守り抜いてから反攻に転じた。イギリスのチャーチル・アメリカのF=ローズヴェルトとも会談を重ね連合国の一翼として戦い、45年5月、ドイツ降伏に追いこむ。大戦中も権力集中を強め、戦後はアメリカとの東西冷戦を主導し、東側諸国を統制した。アジアでは国共内戦での中国共産党、朝鮮戦争での朝鮮労働党の支援を通じ、社会主義の浸透に勤めた。1953年に死去、1956年にはフルシチョフ第一書記によるスターリン批判が行われた。
Stalin 1879-1953
- (1)権力掌握
- (2)独裁体制
- (3)第二次世界大戦と戦後
- (4)その死去
20世紀のロシアで、ロシア革命(第2次)を押し進めたロシア共産党を率い、第二次世界大戦では連合国の指導者の一角を占め、戦後の東西冷戦ではきびしくアメリカと対立したソ連邦の独裁的権力者。1879~1953。スターリンは筆名で本名はジュカシヴィリ。カフカス地方のジョージアのゴリで生まれ。社会主義運動に参加し1902年以降、流刑・脱獄を繰り返す。1912年からボリシェヴィキに加わり、機関誌『プラウダ』の編集に当たる。革命後は人民委員会議(ソヴィエト政権の内閣に当たる)で民族人民委員となり、レーニンの片腕として次第に地歩を築いていった。
スターリン(1) 権力掌握
「鋼鉄の男」 コーカサス地方のボリシェヴィキ責任者となった彼は、フィンランドで開催されたボリシェヴィキの会議に出席して初めてレーニンに会い、その行動力を認めたレーニンは彼を「鋼鉄の男」を意味するスターリンというあだ名で呼んだ。その名の通り、その後のスターリンはレーニンとボリシェヴィキの資金の獲得などの裏の危険な仕事をこなすようになり、故郷ジョージアでは銀行強盗を働いて大金を奪取することに成功した。さらに麻薬売人と手を組んで売春宿を経営したり、かなりきわどいことをしている。彼はそれらを革命のため、と正当化したが、さすがにレーニンから諫められて非合法の資金集めからは手を引いた。このような危険を顧みない行動力だけでなく、語学や文才もあり、演説でも人を惹きつけ、次第にボリシェヴィキの中枢をしめるのようになったのだった。<B.ハットン/木村浩訳『スターリン その秘められた生涯』1989 講談社学術文庫 p.13-61>
ボリシェヴィキ革命
その後も逮捕されてシベリア流刑となり、流刑地で第一次世界大戦の勃発、そしてロシア二月革命(三月革命)を迎える。ニコライ2世が退位、臨時政府が成立して恩赦によってペテルブルクに戻り、大歓迎を受けた。遅れて亡命先のスイスから封印列車でペテルブルクに戻ったレーニンは、ただちに戦争を内乱に!と呼びかけ、臨時政府を倒す武装蜂起の準備に着手、スターリンとトロツキーの二人が動き回り、遂に十月革命(十一月革命)を成功させ、スターリンは民族人民委員、トロツキーは外務人民委員を分担することとなった。トロツキーとの対立
スターリンは、1922年にロシア共産党の書記長となった。1922年12月30日には、新国家ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立、ロシア共産党もソ連共産党となった。すでにレーニンの片腕としての地位を確立していたが、1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーとはげしく対立するようになる。両者の対立は主導権争いという面が強いが、次第に革命理念でも違いを際立たせていった。スターリンは一国社会主義論を党の公式見解にすることに成功し、世界革命論をとるトロツキーを次第に追い詰めていった。ロカルノ体制から除外される
しかし、国際社会では各国にロシア革命が波及しソヴィエト政権ができることを強く警戒した。1924年にイギリスがソ連を承認、同年、フランスがソ連を承認したが、1925年に結成されたヨーロッパの集団安全保障体制であるロカルノ条約にはドイツの加盟は認められたものの、ソ連は加盟が認められず、ヨーロッパでの孤立は続いていた。中国での国共合作
その一方で当時、コミンテルンでは、中国革命の動向に関心が集まっていた。1921年にコミンテルンの指導で中国共産党が結成され、さらに孫文に働きかけて中国国民党との間で1924年1月に国共合作(第1次)が成立していた。スターリンは中国共産党はまだ弱体であるのでブルジョワ政党である中国国民党と一体化して帝国主義・軍閥との戦いを進める必要があると考えた。しかし、右派の蔣介石の北伐が始まると共産党排除に動き、1927年の上海クーデタで共産党は壊滅的打撃を受けた。トロツキーは既に政権から排除されていたが、その点を厳しく批判した。またそれ以後、中国ではコミンテルン指導に従わない毛沢東の路線が強まることとなる。
スターリン(2) 独裁体制
1929~53年のスターリンが独裁権力を持った時期のソ連の体制。1929年スターリンの権力確立から、第二次世界大戦をはさんで、1953年のその死去までの24年にわたる時期。ソ連にとってナチスドイツとの大祖国戦争という最大の試練と戦後のアメリカとの冷戦という困難が続いた時期でもあったが、スターリンの独裁が行われ、個人崇拝が横行し、反対派に対する厳しい粛清による多くの犠牲者が出て自由と民主主義が失われ、ソ連型社会主義が大きく転換した時期であった。
スターリン体制の成立
1924年、レーニンの死によってソ連共産党は一国社会主義論路線への転換を主張するスターリンと、世界革命論(永続革命論)を主張するトロツキーとの深刻な内部対立が生じ、危機が続いた。路線をめぐる両派の論争は続いたが、スターリンは党内人事で次第に優位に立ち、ジノヴィエフ、ブハーリンとともに三者の協力体制をとってトロツキー派の排除に成功した。しかし、さらにこの二人の排除も画策し、まずジノヴィエフを失脚させ、その他の古参のボリシェヴィキをも退けて、党内の主要ポストをスターリン派で固め、1929年までには
1929年11月、スターリンは『プラウダ』に「偉大な転換期の年」を発表、コルホーズの建設などを決定し、政治局から反対派のブハーリンを解任して主導権を握った。その前月の1929年10月24日にはニューヨークの株式が大暴落した暗黒の木曜日から、世界恐慌が始まっていた。スターリンは資本主義経済の恐慌をよそに、社会主義計画経済で新しい社会を作るという好機を迎えたといえる。
第1次~第2次五ヶ年計画
スターリンは、すでに社会主義国家の建設を目指して工業化をめざし1928年年10月に第1次五カ年計画を決定し、翌年からコルホーズ・ソフホーズによる農業集団化を推し進めた。つづく第2次五カ年計画も含めた10年間を通して、スターリン体制のもとでの社会主義国家建設が続いた。スターリン体制の成立 急速な工業化と農村の集団化に批判的な政治的対立者は次々と排除され、独裁体制の政治手法に批判的な人々も厳しく処罰されて投獄されたり、シベリア送りにされた。または多くが肉体的に抹殺していった。このスターリン体制の元手の粛清は1937年・38年ごろに最も激しくなり、その結果、特にスターリンに対する
世界恐慌とファシズムの台頭
資本主義世界では1929年の世界恐慌が30年代にさらに深刻となり、それへの不安からドイツ・イタリア・日本などのファシズム国家が台頭、一方の先進的な帝国主義諸国はブロック経済を形成し自国の利益を守ろうとした。ニューディール政策で国内市場の再建に向かいつつあったアメリカが提携してファシズムと対決する情勢となった。スターリンは、ドイツ、イタリアにファシズムが台頭すると、1935年にはコミンテルン第7回大会で方針を「反ファシズム統一戦線」路線に変更し、イギリス・フランスとも接近を図ろうととした。1936年7月、スペイン内戦が始まると、ドイツ・イタリアがフランコ将軍の反政府軍支援の軍を送ると、スターリンは共産党員で編制した部隊を派遣して人民戦線政府を支援した。しかし、イギリス・フランスは支援に同調せず、また人民戦線側も共産党系やアナーキストグループなどの内部対立から隊列が乱れ、結局38年までにフランコ側が勝利し人民戦線政府は倒れた。これはファシズムに対して統一して戦いを組むことの困難さを示したといえる。
独ソ不可侵条約
ナチス=ドイツの侵略は1938年3月のオーストリア併合、さらにチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合を要求、英仏などが対ドイツ宥和政策をとりミュンヘン会談でそれを容認すると、1938年3月にその併合を実行した。イギリス首相ネヴィル=チェンバレンは、ヒトラーのナチズムよりもスターリン・ソ連の共産党政権を危険視し、敵視していたための選択であったが、スターリンはイギリスなどに津おい不信感を抱いたと思われる。それが、ソ連とドイツを急接近させ、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚かすこととなった。その秘密議定書で、ドイツとともにポーランドの分割、バルト三国の併合を密約するという、帝国主義的世界分割と同様の侵略体質を明らかにした。アジアの情勢
アジア・極東方面でも緊張が高まっていた。1931年の満州事変から大陸進出を強めた日本は、1933年に満州国を建国、ソ連と直接国境を接することとなり、さらに1937年に日中戦争に突入し、モンゴルへの進出をもめざしていた。ソ連と満州の国境は不確定であったことから、1938年にソ連軍と日本軍の間で張鼓峰事件で最初の武力衝突が起こった。これはスターリン体制となってからの最初の対外武力衝突であった。ノモンハン事件 さらに翌1939年5月にはモンゴルと満州の国境でノモンハン事件(実態は戦争。ソ連側ではハルヒン・ゴル河畔の戦い、モンゴルではハルハ戦争という)で衝突した。ソ連軍は大規模な機械化部隊を投入して日本軍を圧倒したが、実はこの戦争の最中、スターリンはドイツとの提携を進め、8月に独ソ不可侵条約を締結、9月には日本との戦闘を停止した。
日ソ間のこの実質的な戦争は、日本が大きな打撃を受けて北進を諦め、南進に転じる転機となったとされているが、ソ連崩壊後の資料が開示されたことによってソ連側も大きな被害を出したことが判ってきている。その一方、スターリンはノモンハン戦争の停戦よりも先に、9月1日、第二次世界大戦の勃発に伴い、西のナチス=ドイツ軍に呼応して東からポーランドへの侵攻を開始している。そのため、スターリンにとっても戦闘を終わらせる必要があったと思われ、9月に有利な状況のまま休戦協定を結んだ。この後日本軍は北進をやめ、東南アジア・太平洋方面への南進に転じた。
粛清のピークへ このソ連を巡る国際情勢が激しく動いた1937~38年、スターリンによる粛清は最も激しくなり、この2年間だけでも約100万が銃殺か拷問で殺され、約100万が強制収容所などに追放されたという。戦後のスターリンの死後の1956年、このスターリン個人崇拝と大粛清はスターリン批判で厳しく非難されることとなる。
スターリン(3) 第二次世界大戦と戦後
第二次世界大戦の勃発
1939年9月、ヒトラーのドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入すると、ソ連のスターリンは独ソ不可侵条約でのドイツとの密約に基づき、ソ連軍をポーランドに侵攻させ、その東半分を獲得した。さらにソ連-フィンランド戦争を起こし(そのため国際連盟から除名される)、さらにバルト三国を併合するという領土拡張を行った。独ソ戦の開始
勢力拡大を東方に転じたヒトラーが1941年6月、突如、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、両国の全面的な独ソ戦が開始された。このヒトラーの動きを見破れなかったスターリンの甘さは、戦後のスターリン批判の一つにされている。これによって第二次世界大戦は大きく展開し、スターリンはイギリス、アメリカとの提携に踏み切った。また、ノモンハンでの敗戦後、南進に舵を切った日本軍がインドシナ半島に進出したため米英との関係が悪化、日本は日独伊三国同盟を締結するとともにソ連に接近して同年4月日ソ中立条約を締結した。スターリンは独ソ戦が近いとみて、アジアでの戦争を避ける意図があった。日本軍はその上で、12月、真珠湾を奇襲して太平洋戦争に突入した。民族の強制移住
スターリンは1939年9月にポーランドに侵攻し、ガリツィア(カリチナー)・ヴォルイニなど現在のウクライナやベラルーシに含まれる東部ポーランドを併合した。スターリンは併合地域のポーランド人の追放を計画し、1940年から41年にかけて4度にわたって合計120万と言われるポーランド人をカザフスタンなどの中央アジア、シベリアなどに強制移住させた。独ソ戦でドイツ軍がバルバロッサ作戦の下、破竹の進撃を続けて、41年11月にはウクライナ全土がドイツ軍に制圧されると、スターリンはその焦土化を図り、東ウクライナの工場地帯の住民と工場施設をウラル山脈の東のシベリアに強制的に移住させた。その数は約380万人とも1000万人とも言われている。
さらに、一時ドイツ軍に占領されたクリミア半島をソ連軍が奪回すると、スターリンはクリミア=タタール人に対し、対独協力の嫌疑をかけ、約19万人とも言われる人々を中央アジアに強制移住させた。これらはスターリンの非人道的な暴挙として後に批判されることになる。
米英首脳との共同歩調
ドイツを共通の敵とすることとなったスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカのフランクリン=ローズヴェルトの三首脳は一転して協調することとなり、スターリンは1941年8月のチャーチルとF=ローズヴェルトの大西洋憲章の支持を表明、1942年1月には連合国共同宣言に加わり、連合国軍の一員として第二次世界大戦を戦うこととなった。さらに1943年のカイロ会談以後、戦争の遂行と戦後世界のあり方について、会談を重ねる。スターリンは英米に対し第二戦線(連合国がドイツの西側で攻勢をかけること)を要求し、英米はスターリンに対日参戦を要求した。また戦後構想では国際連合の設立に同意し、三者の合意によって戦後の枠組みができあがった。この間、ソ連はスターリングラードの戦いなどでの激戦でドイツの攻勢を凌ぎ、形勢を逆転させて東ヨーロッパ諸国を次々と解放し、勢力を扶植していった。1943年末のテヘラン会談では第2戦線での協力の同意とともにスターリンは対日戦争への参戦を約束した。さらに1945年2月のヤルタ会談で、スターリンはドイツ軍降伏後3ヶ月以内の対日参戦を約束、見返りという形で南樺太・千島列島の領有・中国での旅順、大連や東清鉄道などの権益の継承などを米英に合意させた。ソ連軍はヤルタ協定秘密条項に基づいて、日ソ中立条約の延長を拒否したうえで1945年8月8日、満州に侵攻して占領、多くの関東軍将兵を捕虜としてシベリアなどに抑留、さらに日本軍物資を奪取した。また、樺太・千島列島も支配下においた。
冷戦とスターリン体制
1945年4月、サンフランシスコ会議に参加して国際連合憲章に基づく国際連合設立に加わり、安全保障理事会の常任理事国となった。 → 第二次世界大戦後のソ連ナチス=ドイツが降伏し第二次世界大戦が終結すると、スターリンのソ連はドイツ分割に加わり、東ドイツを管理して社会主義政権を樹立させたが、ベルリン分割も含めて、ドイツ問題は米英とソ連の対立を表面化させ、一挙にアメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義・共産主義陣営の東西対立という冷たい戦争(東西冷戦)に突入した。1946年3月にはイギリス前首相チャーチルは鉄のカーテン演説でソ連の東ヨーロッパ諸国への勢力圏形勢を非難、1947年3月にはアメリカ大統領トルーマンがトルーマン=ドクトリンを発表して共産圏に対する封じ込め政策を明確にし、さらにマーシャル=プランでヨーロッパ諸国へのテコ入れを強めた。スターリンは対抗してコミンフォルムを結成、49年にはCOMECONを結成して対抗した。
冷戦を揺るがす激動は東アジアで起こった。中国で中国共産党が国共内戦に勝利して、1949年10月に中華人民共和国を樹立すると、ただちに同年12月、毛沢東はスターリン生誕70年を祝う式典に参加し、2ヶ月以上にわたってモスクワに滞在、両国は1950年2月にようやく中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。スターリンはかつて、中国共産党に対し蔣介石・国民党との国共合作を強く指導していたことがあるので、両者の感情は必ずしも平穏ではなかったが、東西冷戦という現実の情勢が、過去の経緯を乗り越えさせたと言うことができる。
さらに朝鮮半島では分断された北朝鮮に金日成の労働党を支援して朝鮮民主主義人民共和国を樹立させた。金日成が1950年6月、南朝鮮に侵攻し、朝鮮戦争が開始されると、その後ろ盾として支援したが、直接的な出兵は回避した。
スターリンは強大な独裁権力を握って米英との対決姿勢を強め、東欧諸国に対しても統制を強めてたが、それに反発する動きもった。すでに1948年6月には独自路線を歩もうとするティトーのユーゴスラヴィア共産党をコミンフォルムから除名している。国内政治でも粛清を続けるスターリン独裁体制に対する批判も内部に鬱積していった。
スターリン(4) その死去
1953年3月、ソ連共産党で権力を振るっていた独裁者スターリンが死去した。ソ連は集団指導体制を敷いたが政治的対立が続き、権力をにぎったフルシチョフによって1956年にスターリン批判が行われる。
花に埋まったスターリンの遺骸
Episode 隠されたスターリンの病気
不死身の印象を与えていたスターリンであったが、実は大戦直後の1945年10月、発作を起こして倒れていた。実務はモロトフ外相が預かった。この時の発作はたいしたことはなかったがモロトフが後継者に選ばれるという噂が流れた。かえってスターリンとモロトフの関係が悪化し、モロトフは次第にはずされていく。(引用)45年に倒れたスターリンは、それ以降毎年、夏から平均5ヶ月も休暇をとった。クレムリンで執務するのは夜中の数時間のみ、訪問者に会うこともまれになり、郊外の別荘で取り巻きに囲まれて暮らした。極端な秘密主義がスターリンを取り巻き、最高幹部ですら情報が限られた。他の政治局員との関係は家父長そのものだった。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p.138>
スターリン体制の転換へ
1953年にスターリンが死去し、マレンコフとフルシチョフらから成る集団指導体制が成立すると、まず行き詰まっていた朝鮮戦争を収束させることに決し、7月に朝鮮休戦協定に調印した。しかし、1954年、インドシナ戦争の和平も合わせて協議されたジュネーヴ会議は決裂し、完全な和平は実現しなかった。その後、ソ連首脳部は当面は集団指導体制のもとでスターリン体制は基本的には継承され、冷戦構造は続くこととなった。1955年には西側で西ドイツが再軍備して北大西洋条約機構(NATO)に加わると、ソ連は東欧社会主義圏の諸国との間で軍事同盟であるワルシャワ条約機構を結成し、それに対抗した。一方で、アメリカ及び西側との決定的な対立を避ける気運も生まれ、1955年には戦後初の米ソ英仏四国首脳会談であるジュネーヴ4巨頭会談にブルガーニンとフルシチョフが参加した。
しかし、ソ連の最高権力は党第一書記フルシチョフが獲得していった。実権を掌握したフルシチョフは、1956年にスターリン批判に踏み切った。その背景には、冷戦構造が固定化され、米ソとも核武装、ミサイル開発などの競争を続けることが、ともに財政に大きな負担となっていることがあげられる。