朝鮮休戦協定
1953年7月、南北朝鮮、アメリカ・中国が朝鮮戦争の休戦で合意し、板門店で調印した。あくまで「休戦」であり、朝鮮戦争は終結していない。
1953年7月27日、板門店で調印された朝鮮戦争の休戦協定。南北朝鮮代表、アメリカ・中国代表の4者によって調印された。1950年に始まった戦争は4年めで休戦ととなったが、国際法上は現在も戦争状態が継続している。
1953年3月5日のソ連のスターリンの死去に際して、フルシチョフ共産党第一書記らソ連指導部はスターリンの葬儀に出席していた中華人民共和国首相周恩来と協議して、休戦の方針を固め、アメリカ大統領アイゼンハウアーも同意し、休戦協定に調印することとなった。同年7月27日に協定は板門店で調印されたが、休戦に過ぎなかったので、、完全な和平に向けての交渉を行うこととなり、1954年、ジュネーヴ会議において、インドシナ戦争の和平会談と平行して行われたが、北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦後処理での国連の関与を求めたため決裂し、解決されずに今日に至っている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82> 現在もなお韓国と北朝鮮は戦時態勢下にあり、またアメリカ・日本と北朝鮮の間も正式な国交がない状態である。このことが現在の北朝鮮をめぐる諸問題、とりわけ核開発をめぐる六者協議の背景に横たわっている。
パンムンジョム。朝鮮戦争の休戦協定の交渉が行われたところ。北緯38度線上にあり、現在も南北朝鮮分断の象徴的な場所となっている。現在も南北朝鮮は「休戦」のままにとどまっており、けして完全に戦争が終わったわけではない。いまだに北緯38度線に沿った休戦ラインをはさんで、韓国軍・アメリカ軍と北朝鮮軍がにらみ合っている。
板門店では現在も両者が定期的に交渉する場となっている。軍事境界線上に共同警備区域(JSA,Joint Security Area)がほぼ800m四方の範囲で設けられ、その中に会議場を設置、国連軍(アメリカ軍と韓国軍から構成される)と北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が共同で警備に当たっていた。1976年に共同警備区域のポプラの木の伐採を廻って両軍が衝突、アメリカ兵が殺害されるという事件が起きてから、共同警備区域内も厳密に南北に分離され、双方が武器を携行して対峙する形となり、共同警備は事実上行われなくなった。
2018年、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩の南北会談によって、共同警備区域は本来の非武装に戻すことで合意された。その上で、2019年6月30日、史上初めてアメリカ大統領トランプと北朝鮮の金正日の会談が共同警備区域の内の韓国側施設「自由の家」行われた(途中から文大統領も参加)。
1953年3月5日のソ連のスターリンの死去に際して、フルシチョフ共産党第一書記らソ連指導部はスターリンの葬儀に出席していた中華人民共和国首相周恩来と協議して、休戦の方針を固め、アメリカ大統領アイゼンハウアーも同意し、休戦協定に調印することとなった。同年7月27日に協定は板門店で調印されたが、休戦に過ぎなかったので、、完全な和平に向けての交渉を行うこととなり、1954年、ジュネーヴ会議において、インドシナ戦争の和平会談と平行して行われたが、北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦後処理での国連の関与を求めたため決裂し、解決されずに今日に至っている。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82> 現在もなお韓国と北朝鮮は戦時態勢下にあり、またアメリカ・日本と北朝鮮の間も正式な国交がない状態である。このことが現在の北朝鮮をめぐる諸問題、とりわけ核開発をめぐる六者協議の背景に横たわっている。
板門店
板門店 GoogleMap
板門店では現在も両者が定期的に交渉する場となっている。軍事境界線上に共同警備区域(JSA,Joint Security Area)がほぼ800m四方の範囲で設けられ、その中に会議場を設置、国連軍(アメリカ軍と韓国軍から構成される)と北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が共同で警備に当たっていた。1976年に共同警備区域のポプラの木の伐採を廻って両軍が衝突、アメリカ兵が殺害されるという事件が起きてから、共同警備区域内も厳密に南北に分離され、双方が武器を携行して対峙する形となり、共同警備は事実上行われなくなった。
2018年、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩の南北会談によって、共同警備区域は本来の非武装に戻すことで合意された。その上で、2019年6月30日、史上初めてアメリカ大統領トランプと北朝鮮の金正日の会談が共同警備区域の内の韓国側施設「自由の家」行われた(途中から文大統領も参加)。