ハーグ協定
1949年、オランダとインドネシア間で結ばれた協定。オランダがインドネシアの独立を承認、オランダ領東インドは消滅したが、インドネシア共和国の領土は限定し、それ以外のオランダの傀儡国家とともにインドネシア連邦共和国とした。共和国は他の地域の合流を働きかけ、1950年までに連邦共和国を解散させ、統一のインドネシア共和国を実現した。
1949年8月~11月、オランダのハーグで開かれたオランダ王国とインドネシア共和国などとのハーグ円卓会議の結果として、1949年11月2日に締結された協定。「円卓会議協定」ともいう。
1945年8月17日に独立を宣言したインドネシア共和国と、その独立を認めず植民地支配を継続しようとしたオランダの間に1947年からインドネシア独立戦争が続いた。オランダ軍の攻勢でインドネシア軍は劣勢となったが、国際連合にオランダの不当な軍事行動の停止を訴え、国際世論の支持を受けた。また、アメリカ合衆国がオランダに和平を勧めたことによって、オランダとインドネシアの間でハーグ講和会議が開催されることになった。
1945年8月17日に独立を宣言したインドネシア共和国と、その独立を認めず植民地支配を継続しようとしたオランダの間に1947年からインドネシア独立戦争が続いた。オランダ軍の攻勢でインドネシア軍は劣勢となったが、国際連合にオランダの不当な軍事行動の停止を訴え、国際世論の支持を受けた。また、アメリカ合衆国がオランダに和平を勧めたことによって、オランダとインドネシアの間でハーグ講和会議が開催されることになった。
アメリカの意向
この頃アメリカは東南アジア情勢の悪化を警戒せざるを得なかった。1946年からはベトナムでフランスからの独立戦争であるインドシナ戦争が始り、さらにフィリピンでもフクバラハップの反米闘争が起こっていた。アメリカは東南アジア全域の民族運動が激化することを恐れ、オランダに妥協を働きかけたため、ハーグ講和会議が開始され、この協定が成立した。オランダ領東インドの消滅
これによってオランダはインドネシアの独立を認め、インドネシア独立戦争は終結、17世紀から続いたオランダ領東インドは終わりを迎えた。、インドネシア共和国が承認された。しかし、妥協点としてインドネシア共和国の領土を限定し、それ以外のオランダの傀儡政権であった16カ国から構成されるインドネシア連邦共和国と言う形式の国家に主権が委譲されることとなった。また、オランダとインドネシア連邦共和国はオランダ=インドネシア連合を形成するとされ、オランダの影響力の維持が図られていた。インドネシア連邦からインドネシア共和国へ
ハーグ協定はオランダの植民地支配を終わらせたものの、スカルノの統治するインドネシア共和国をジャワ島とスマトラ島のそれぞれ半分ずづに限定し、それ以外を15の地方政権にわけ、併せてインドネシア連邦共和国とするものであったが、この妥協にはスカルノと民族主義者にとって満足のいくものではなかった。インドネシア共和国は、多様な民族であっても「多様性の中の統一」を掲げ、全インドネシアの独立を目指していたので、オランダ軍が協定に基づいて撤兵すると、他の地方政権に対して、共和国への合流を強く働きかけた。そのため戦闘も起こったが、1950年1月に地方政権の一つパスンダン国が解散して共和国に合流したのを皮切りに、同年8月までにインドネシア連邦共和国が解散し、ここにインドネシア共和国が統一された共和国として実質的に完成した。