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インドネシア

東南アジアの諸島部の多くの島々からなる大国。インドの影響を受けたヒンドゥ教・仏教が栄えた時代から15世紀からのイスラーム化を経て、17世紀からオランダの植民地支配か続いた。日本の軍事支配の後、第二次世界大戦後に独立し、スカルノの指導のもとで第三世界の有力な一角となった。1965年の九・三〇事件で実権を握ったスハルトは、開発独裁を進め、経済を成長させた。1997年のアジア通貨危機で独裁体制は倒れ、民主化が進んだが、東ティモール、アチェなどの分離運動を抱え、政情は安定しなかった。広汎な領域に島々が分散する多民族国家であるため、「多様性の中の統一」を常に国是として掲げている。

 ジャワ島ボルネオ島(カリマンタン、その一部はマレーシアとブルネイに属す)、スマトラ島など多数の島(といってもスマトラ島、ボルネオ島は日本列島よりも広い)からなる諸島部(島嶼部)を占める現在のインドネシアは東南アジアの大国である。特に香料諸島といわれたモルッカ諸島では早くから香辛料の産地として栄えた。ただし、現在のインドネシアは第二次世界大戦後に新たに生まれた国家であり、それ以前には様々な国家が興亡した。その歴史の中心はジャワ島で、多くの王朝がジャワ島内の西部、東部、中央部ごとに興亡した。インドネシア史上の各王朝がどこを拠点としていたか、またヒンドゥー教・仏教・イスラーム教のいずれを掲げていたかを明確に理解することが必要である。 → 東南アジアの大陸部
インドネシア全図
インドネシア YahooMap

インドネシアという名称について

 現在では「インドネシア」という地名としても定着しているが、この名称は比較的新しい造語である事に注意する。1850年にシンガポールのイギリス人弁護士でジャーナリストだったローガンが、東南アジア諸島部全域を示す地理的用語として、「インド」にギリシア語で島の意味のネーソスの複数形ネシアをくっつけて造語した。一般に広がったのは、1920年代にマレー人の民族運動が強まった時期に、彼らは「オランダ領東インド」という呼称を嫌い、「インドネシア」を民族のアイデンティティを示すものとして使用するようになってからである。マレー語やマレー人に替わってインドネシア語やインドネシア人という言い方も普通になった。1923年の初めにオランダに留学していたハッタ(後の初代副大統領)らは「インドネシア協会」を設立、意識して「東インド」ではなく「インドネシア」という呼称を使うようになった。そして第二次世界大戦後にオランダから独立したとき、はじめてインドネシア共和国という国号が選ばれた。

インドネシア(1) 島嶼部での王朝の興亡

 現在のインドネシアの統治する地域の歴史的な歩みをまとめると、つぎのようになろう。

仏教国とヒンドゥー教国

 主としてオーストロネシア語族(かつてはマレー=ポリネシア語族と言っていた)の人々が居住した島嶼部は、インド洋交易圏との結びつきが強く、いくつかの港市国家が生まれた。マレー半島からスマトラ島にかけてシュリーヴィジャヤ王国が7世紀ごろから仏教国として栄え、中国では室利仏逝(または三仏斉)と言われた。
 ジャワ島では8~9世紀にシャイレーンドラ朝のもとで仏教文化が栄え、ボロブドゥール寺院などが造営された。そのころジャワ島中部にはヒンドゥー教国の古マタラム王国があった。その後、ジャワ島東部には、11世紀にクディリ朝、13世紀にはシンガサリ朝があり、独特の芸能であるワヤン=クリなどが生まれた。13世紀のジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト王国は元の侵攻を撃退したことを契機に成立した。
 マジャパヒト王国は現在のインドシナ共和国の領域に近い範囲に勢力をひろげ、ヒンドゥー文化を基調とした文化を繁栄させた。この頃定着したインドネシアのヒンドゥー文化は、それ以前の仏教文化や、次のイスラーム文化と融合しながら、インドネシア文化の独特の発展の基層となっている。

イスラーム教の王国

 15世紀に東南アジアのイスラーム化が進み、最も早かったスマトラ北部にはサムドラ=パサイ王国と言われるイスラーム教国が生まれた。それ以後はやゝ時代が下がり、16世紀にジャワ島東部にマタラム王国(古マタラムとは別の国)が現れ、さらにジャワ島西部にはバンテン王国があって抗争した。また、スマトラ北部にはアチェ王国が生まれ、インドやマレー方面との交易の中継地として繁栄した。

インドネシア(2) オランダによる植民地支配

オランダの進出

 島嶼部では早くから香辛料貿易が行われ、ムスリム商人や中国商人も活動していたが、16世紀になるとスペイン船・ポルトガル船のヨーロッパ商人がその利益を目ざして進出するようになった。ほどなくオランダ船、イギリス船も現れ、熾烈な競争が展開された。17世にはオランダ東インド会社を設けたオランダが、ジャワ島のバタヴィアに拠点を置き、1623年のアンボイナ事件でイギリス勢力を排除して、島嶼部一帯(現在のインドネシアの範囲)で優勢となり、植民地化に乗り出した。

オランダ領東インド

 現在のインドネシアに相当する島嶼部をほぼ支配するようになったオランダは、この地域をオランダ領東インドとして植民地支配を行った。1830年、オランダ領であったベルギーが独立してからは、オランダは東インドの植民地支配を積極化させ、政府栽培制度を導入し、サトウキビ、コーヒーなどの農業生産の利益を吸い取るしくみを作り上げた。それに対して現地での反植民地運動も起こっており、ジャワ戦争パドリ戦争1873年に始まったアチェ戦争などが続いている。

インドネシアとしての独立運動

 当初の植民地支配に対する抵抗運動は、次第に独立を指向する民族運動に成長していった。インドネシア民族主義運動がようやく明確な動きとなったのは、20世紀に入り1908年5月20日に結成されたブディ=ウトモ1912年9月10日にはイスラーム同盟(結成は1911年)などの組織的動きが始まってからであった。
インドネシア語 イスラーム同盟(サレカット=イスラム)はジャワ島の更紗商人が華僑の侵出に対抗して組織した同業者団体が出発点であったが、次第に地域を越えた民族独立を目指す運動体となっていった。その要因は彼らが運動の用語として、島々間の商取引と同時にイスラームの布教のために使われていたムラユ語を用いたことだった。オランダも東インド支配のために広域で通用するムラユ語を凖公用語としていた。ムラユ語は他の民族主義団体も使うようになり、それが「インドネシア」という概念とともに「インドネシア語」として定着していった。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット92 2019 山川出版社 p.11-12>
「多様性の中の統一」 第一次世界大戦後の
1920年にはアジアで最初の共産党であるインドネシア共産党が結成されたが26年に武装蜂起して失敗すると、オランダに対する民族抵抗運動は、この地域を単一の国家として独立させようという民族主義的な独立運動が主流となっていった。
 インドシナの民族独立運動は、多くの島々からなる諸地域ごとに異なる宗教や文化をもっていることから困難をきわめたが、「多様性の中の統一」を掲げることによって民族の独立とともに統一を目指す運動としての性格を明確にしていった。1927年7月にスカルノを指導者として結成されたインドネシア国民党が、広範な民族の統合と独立をめざす指導的な組織として作られた。この運動はオランダ当局の厳しい弾圧を受け、スカルノもたびたび逮捕されるという苦難が続いた。

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インドネシア(3) 日本軍の侵攻と軍政

太平洋戦争の過程で、1942年1月に日本軍がオランダ領東インドへの侵攻を開始、3月にオランダ軍を降伏させ、占領した。日本はジャワとスマトラを分離して統治し、軍政下に置いた。

 長期化した日中戦争の打開を図る日本軍は南進策をとり、フランス領インドシナを制圧し、さらに南下してオランダ領東インドであるインドネシアの島々を支配下に納めようとした。それはアメリカが対日石油輸出を禁止し、石油資源の不足が問題となったからであった。そのような資源を確保しようという意図から、太平洋戦争の開始に伴い、日本軍はオランダ領東インド攻略作戦をたて、インドネシアへも侵攻した。
 まず、1942年1月10日のタラカン島とスラウェシ島への上陸作戦から始まり、2月にはスマトラのパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。次いで3月1日にジャワ島の三カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏した。日本はインドネシアを三分割し、陸軍第25軍がスマトラ、同第16軍がジャワ島、海軍がスラウェシその他の島々を統治した。

日本軍のジャワ・スマトラ分離統治

 日本軍部は、スマトラ島マレー半島部のマレー人の種族的一体性を重視していた。そのため、軍政上は、スマトラはジャワから分断され、マレー半島と一体のもとして扱われた。これは、シュリーヴィジャヤマラッカ王国の伝統が、侵略者の都合でかりそめに復活したにすぎなかった。この分断政策は、占領後期には放棄され、戦後は、ジャワ・スマトラなど島々にはオランダ支配が、マレー半島にはイギリスの支配がふっかつしたため、二つの植民地は別々の途を歩むことになる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.309>

日本の軍政

 1942年3月から1945年8月まで、インドネシアに対する日本軍による軍政が行われた。日本は太平洋戦争の大義名分として、アジアの解放を実現し「大東亜共栄圏」を建設することを掲げていたが、実際には石油などの軍需物資を確保するためにインドネシアを支配することが狙いであった。
 インドネシアにもスカルノなどの民族主義運動の中には、オランダからの独立のために日本軍に協力する姿勢を示したものも多かった。日本軍は祖国防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど軍事組織や隣組制度などを導入して統治に当たったが、軍政後半の44年3月には「ジャワ奉公会」を組織して、人的資源を「ロームシャ(労務者)」として動員し、生産活動に振り向けた。スカルノは、この時日本軍に協力し、自ら労務者徴募の先頭に立った。しかし一方で、このような日本の軍政に対し、いくつかの反日抵抗運動も起こっている。防衛義勇軍の反乱、米の供出を拒んだ農民の反乱、西カリマンタンの土侯らによるポンティアナック事件(軍事裁判で2130人が処刑されている)などである。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.312,360 なっどによる>

今も残るロームシャの悪夢

 日本軍政下でインドネシア民衆の義務となったのが戦争遂行に徴用した「労務者」である。労務者という言葉は、そのまま「ロームシャ」としてインドネシアに定着し、今もその言葉とともに記憶として残されているという。
(引用)各州は常に500人以上の労務動員が可能な態勢を整えていなければならなかった。この政策で駆りだされたジャワ人は20万とも30万ともいわれ、しかもその90%は帰還できなかったという。その多くがニューギニア方面の苦戦に投入され、放置されたのである。今日でも、ロームシャは、ケンペイとともに、インドネシア人の悪夢となっている。1973年にジャワで『ロームシャ』という映画が製作され、ごく一部で公開されたが、不思議なことにすぐ消えてしまった。日本商社が買い占めたのだというのが現地の噂である。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.315>

東条内閣、独立承認せず

 1943年1月28日、東条英機首相は帝国議会で、参戦を条件にビルマフィリピンの独立を認ることを表明した。しかしインドネシアについては言及しなかったので、スカルノらは強い不満を抱いた。東条首相は同年6月30日から南方視察に向かい(日本の首相の初めての東南アジア訪問であった)、ジャカルタでスカルノらに面会し、インドネシアでの中央参議院を開設しスカルノを議長にするなどの懐柔策を示した。それはあくまで軍政下の補助機関と位置づけられるもので、独立とは程遠いものだったので、スカルノらは深く失望した。11月に東条首相は東京で大東亜会議を開催、大東亜共栄圏の各国首脳を召集したが、インドネシアは独立国ではなかったので召集されなかった。
 会議終了後、東条首相はスカルノとハッタらを東京に招いて歓待し、天皇との会見などを設定した。スカルノは感激しつつ、東条首相に対し戦争協力への見返りとして独立承認を強く求めたが、結果は空しかった。東条内閣がインドネシアの独立を認めなかったのは、同年5月31日の御前会議で決定された大東亜政略指導大綱にみられるように、ジャワ、スマトラなど旧オランダ領東インドは「帝国ノ永久確保」すべき地域、すなわち事実上の植民地として位置づけたことによる。御前会議の席上で東条首相は、これらの地域は「民度低クシテ独立ノ能力乏シク且ツ大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ必要トスル」と断言している。つまり、インドネシアは石油・ゴムなどの資源の直接利用のため日本に必要であり、また独立する能力が無い地域である、とみていたのだった。<後藤幹一・山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』2001 山川出版社 p.103-108>

時期未定の独立承認

 1944年7月、サイパンの陥落、インパール作戦の失敗などによって東条首相が退陣して小磯国昭内閣に代わると、「東インド」に「将来その独立を認めんとする」と表明した。これは現地で反日運動が強まっていることから、独立を認めて協力させることが必要だという判断があったためである。これによって時期は未定であったが、東インドが一体としての独立を日本が認めたことに、スカルノをはじめ、インドネシアの民衆は歓喜し、小磯声明歓迎のデモも行われた。そのため具体的な独立準備のために、1945年3月1日、インドネシア独立準備調査会が発足した。独立準備調査会は審議が難航したが、6月1日、スカルノが提案した「建国五原則」(パンチャシラ)を建国の理念とすることで一致した。

インドネシア(4) インドネシア共和国の独立

1945年8月、日本の軍政が終わりインドネシア共和国が独立宣言をし、スカルノが大統領となった。しかしオランダは戻り植民地支配を再開しようとしたため。激しい独立戦争を戦い、1949年のハーグ協定でインドネシア連邦として独立が認められた。翌1950年に全土がインドネシア共和国に統合された。

 1945年8月から1950年8月までの5年間にわたるインドネシア共和国独立の歩みは複雑であり、オランダとその他の国際社会と各党派の思惑のからみがあって、必ずしもスカルノが一貫して指導したわけでもない。独立と統一を求めることでは一致していたものの、その手段については、オランダと一定の妥協をしながら議会制民主国家を建設しようという勢力と、オランダとの武力対決を辞さず完全な独立を勝ち取ろうという勢力が対立した、と見ることができる。前者の路線では日本軍と手を結んだスカルノは排除されたが、後者の路線ではスカルノの民族指導者としてのカリスマ性が期待された。スカルノ自身は、両者の間を揺れながら調停役としても振る舞い、最後はオランダとの対決を鮮明にし(オランダのやり方がまずかった面も大きいが)、国際情勢も有利に動いて1950年、統一された国民国家としてのインドネシア共和国が成立する。その過程が1945~50年であり、「革命の時代」とも言われるその時期は、次のようにまとめることができる。

日本軍の降伏と共和国独立宣言

 1942年3月にインドネシアに侵攻し、植民地支配を続けていたオランダは撤退、日本軍は軍政を敷いて統治した。日本の東条内閣は資源確保のためにインドネシアは独立させずに軍政を維持する予定であったが、戦局が悪化する中、民心をつなぎ止めておく必要から、1944年9月、小磯内閣はインドネシアの独立を認め、日本の指導下で独立準備調査会が設置された。45年8月に広島・長崎に原爆が投下されると、日本はインドネシアの独立を急ぎ、8月7日、スカルノを委員長、ハッタらを副委員長とする独立準備委員会の設置を決めた。しかし独立計画が実施される前に1945年8月15日に日本軍が降伏し、インドネシアは空白状態となった。

インドネシア共和国

 日本軍の降伏を受けて1945年8月17日スカルノとハッタが「インドネシア共和国独立宣言」に署名した。それは
「宣言 我々インドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。政権の委譲その他は迅速かつ正確に行われるべし。2605年8月17日 ジャカルタにおいて インドネシア民族の名において スカルノ、ハッタ」
というだけのインドネシア語の簡単なものだった。この2605年とは日本の神武紀元での年代をそのまま用いたものだった。これはアジアにおいて第二次世界大戦終結後、最初に出された独立宣言となった。翌18日に発布された共和国憲法の第1条では「インドネシアは共和制をとる単一の国家」と定められ、スカルノ大統領、ハッタ副大統領が選出された。翌19日には地方行政区画として8州がおかれ、内閣制度の大要が決められた。9月5日にはスカルノ大統領が首相を兼務する内閣が発足した。

Episode 独立宣言のドラマ

 日本軍政下にあった8月7日に設置された独立準備委員会のスカルノやハッタは、15日になってもまだ存在する日本軍が妨害するだろうと考えて、すぐに独立を宣言することを躊躇した。14日のうちに日本の降伏を察知したシャフリルと急進派青年グループは、ただちにインドネシア人の手で独立を宣言せよと迫ったが、拒否されたため15日深夜(16日早朝)、彼らはスカルノとその妻子、ハッタをジャカルタ郊外のレンガスデンクロックの義勇軍兵団に拉致した。この異変を知った独立準備委員の一人スバルジョは急進派を説得、独立運動に同情的であった日本の海軍武官府前田精の協力を得てスカルノらを解放し、スカルノも日本軍の妨害がないことを知り、ジャカルタの前田邸でスカルノ、ハッタ、独立準備委員メンバーを招集し、白熱した徹夜の議論のすえに独立を決議し、8月17日午前10時(当時は日本時間を使用。実際には8時)に数人のインドネシア独立準備員と青年グループ、前田武官や数人の日本軍人の見守る中、独立宣言が読み上げられた。そして翌18日、スカルノを初代大統領、ハッタを副大統領に選出、ついで憲法(1945年憲法)が制定された。独立宣言文の作成は日本人海軍武官の家で行われたが、独立宣言はジャカルタのスカルノ邸で、スカルノにより日本軍とは関係なく発布された。<後藤幹一・山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』2001 山川出版社 p.118-122/鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社 p.60-64/『インドネシアの事典』同朋舎 p.291 などによる>

「多様性の中の統一」

 1945年8月、インドネシア共和国は独立を宣言すると、国是として「多様性の中の統一」(ビンネカ・トゥンガル・イカ)を掲げた。この言葉は13世紀末~16世紀初めにジャワ島で興ったヒンドゥー教国マジャパヒト国で用いられた古代ジャワ語である。マジャパヒト国は最盛期にはほぼ現代インドネシアとマレーシアを含む多様な民族、言語のある地域を支配下に入れ、インドネシア史上で最大の領土を誇った。その意味は新生インドネシア共和国もマジャパヒト国と同じように民族、宗教、地理などの点で多揚な国であることを認め、それを前提として国民に一体化を求めたものである。その言葉はインド神話に登場する神の鳥で、インドネシアの国章でもあるガルーダが翼を拡げた足元に刻まれている。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.7>

オランダの支配の復活

 1945年9月8日、日本が降伏文書に調印したことを受け、15日、連合国軍の主体イギリス海軍がジャカルタ港に入港、29日に上陸、続いてオランダは要人を東インド政庁にジャカルタなどに復帰させた。オランダは戦争中、ロンドンの亡命政府が日本軍の侵攻を非難し、ウィルヘルミナ女王の名で日本軍への抵抗を呼びかけ、戦後の独立を約束していたが、その実質は独立後もオランダと連邦国家としてに残ることを前提としており、実質的には植民地の復活を策すものだった。オランダがインドシナに復帰した根拠は、アメリカの手前もあり、植民地支配をそのまま復活させるとはいえず、連合国の一員として、日本軍国主義に協力した傀儡であるスカルノなどの現政権を倒すこととともに、「苛酷な日本軍政」からの解放者としてインドネシアに安寧と秩序を復活させるためであることを掲げていた。しかしその狙いはインドネシアを分断し、親オランダ政権を作って実質的な(間接的)植民地支配を行おうというものであった。<後藤幹一・山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』2001 山川出版社 p.124-127>

「スカルノを対手とせず」

 オランダは対日協力者である「スカルノを対手(あいて)とせず」と表明していたので、インドネシア共和国との話し合いに応じず、交渉が決裂すると、共和国内部にもスカルノの対日協力を厳しく批判していたシャフリルがスカルノに代わってオランダと交渉し、平和裏に独立を承認させることをめざした。シャフリルやハッタはオランダ留学経験もあり、急進的な民族主義に反対し、オランダと妥協し共和国の独立を円滑に進めることによって西欧型の議会制民主主義国家にしようと考えた。それはスカルノの民族主義とは鋭く対立するようになり、1945年11月にシャフリルは一種のクーデタによって首相となり、中央国民委員会に責任を持つ責任内閣制を採用し、スカルノ大統領の首相兼任は停止されたので、スカルノの主導権は失われることとなった。
 そのころ、東部ジャワのスラバヤでイギリス軍を主力とする連合国軍と共和国軍の間で全面的な武力衝突が始まった。共和国軍はすでに旧日本軍の武器を接収しており、その武器によって連合軍に抵抗を続けた。また各地で反オランダの動きが強まり、オランダ統治時代に植民地当局に協力していたスルタンなどの封建的権威や優遇されていた華人商人が、インドネシア民衆によって襲撃される事件が相次いだ。これらはインドネシアでは革命の準備運動と評価されるが、オランダはスカルノらに主導された無政府状態だ、として非難した。
 シャフリル首相は積極的にオランダとの協調路線を推進したが、民衆の反オランダ感情の高まりは、政府と民衆の意識の乖離を深めていった。かつてはシャフリルを支持した民族主義の青年グループの中にも離反するものが増えていった。インドネシア共産党の流れを汲むタン=マラカらの急進的民族主義者は、シャフリルの外交交渉路線に反対し、武力によるオランダ追放を主張していたので、共和国内部の分裂は深刻になっていった。
 連合軍の主力となってインドネシアに駐留したイギリス軍は、実はインド兵が大部分だった。インド兵はインドネシア人と戦うことに抵抗し、イギリス自身もインド独立の動きに神経を尖らせており、国連でもソ連や東側諸国がイギリスを非難する声が強まったため、インドネシアからの撤退せざるを得なくなり、オランダは独力での軍事行動を強いられることとなった。

インドネシア独立戦争

 オランダは、インドネシア共和国が内部の対立によって脆弱であることにつけこみ、各地に傀儡政権を樹立し、分断を図ったうえで連邦国家とし、影響力を残すという戦略を強めた。1946年11月にはシャフリル内閣とオランダの協議がまとまり、共和国はジャワ・スマトラに限定し、ボルネオ国、東インドネシア国を別な国家とともにオランダと連合する連邦国家とすることで協定が成立した(リンガルジャティ協定)。これはインドネシア共和国は承認されるもののオランダと連合する、つまりオランダ女王を元首として戴く国家であり、真の独立には程遠かった。しかもその後もオランダは共和国の主権を無視した要求を重ねたので、反発が強まり、シャフリルが辞任に追いこまれると、オランダは1947年7月21日、インドネシア共和国側の協定違反を口実に、「警察行動」と称して共和国領に軍事侵攻(第1次)を開始した。それによってオランダ軍は、ジャワ島・スマトラ島の約半分を占領した。
 しかしオランダの侵略行為は国際世論から非難を浴びることとなり、国際連合安全保障理事会の決議によって調停委員会(オーストラリア、ベルギー、アメリカ)のもとで交渉が行われ、1948年1月にレンヴィル協定が成立したが、共和国は独立が承認される代わりにオランダとの連邦国家であることに変化はなく、さらにオランダ軍占領地を譲ることとなり、強い不満が残った。レンヴィル協定に反対する民族主義者は45年末から公然活動を再開した共産党の指導者ムソに率いられ、48年9月に東ジャワのマディウン市で武装蜂起した。しかし国民の支持はひろがらず、スカルノは蜂起は共和国の独立を危うくするものとして批判して弾圧し、ムソらは殺害された。マディウン事件後の混乱に乗じて、オランダ軍は同年12月、中部ジャワの首都ジョクジャカルタ(46年1月にジャカルタから移っていた)に対して空挺部隊による奇襲攻撃をしかけた。この第二次軍事侵攻(警察行動)によってスカルノ大統領とハッタ副大統領は捕らえられてスマトラのバンカ島に幽閉された。共和国軍はジャワ島の農山村部でゲリラ戦を粘り強く続け、戦闘は長期化した。

ハーグ協定

 インドネシア共和国は国際連合にオランダ軍の不当な侵略として訴え、アメリカは戦争が長引くと共産勢力の台頭することを恐れ、仲介に動いた。当時は1946年からのインドシナ戦争が続いており、フィリピンではフクバラハップの抗米闘争が起こっていたので、アメリカとしてはこれ以上の東南アジア情勢の悪化は避けなければならないと考え、オランダに撤退を要請した。またアメリカは、スカルノを当初は対日協力者であり危険な民族主義者とみて警戒していたが、1948年の共産党のマディウン蜂起を鎮圧したことで利用できると判断した。その結果、1949年1月、国連安保理はオランダを非難する決議を採択し、オランダも話し合いに応じることとなってハーグで円卓会議が開催されることとなった。スカルノとハッタも釈放され7月6日にジョクジャカルタに凱旋した。
 1949年11月2日、ハーグ協定が成立(調印は12月27日)したが、それはインドネシア共和国(スカルノ大統領が統治する国)をジャワ島の半分とスマトラ島の半分だけの統治を認め、それ以外には15の国に分けて、全体で16カ国からなるインドネシア連邦共和国とするものだった。これによって17世紀から続いたオランダ領東インドは確かに終わりを迎え、12月28日にジャカルタは首都に復帰、スカルノは民衆の歓呼に迎えられて大統領官邸に入った。

連邦共和国から単一の共和国へ

 ハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国とは、ジャワとスマトラに限定されたインドネシア共和国と以外の15国は4600万人の人口を擁するが、実体はオランダが後押しして樹立した地方政権であり、真の統一と独立とはほど遠かった。オランダはインドネシアを16に分割することでスカルノの動きを封じるのが狙いであったが、ハーグ協定で決められていたオランダ軍の撤退が実現すると、インドネシア共和国は15のオランダ傀儡国に対して合流の働きかけを開始、戦闘となることも続いた。その結果、1950年8月17日までに地方政権のインドネシア共和国への編入が終了し、ここに完全な独立と統一を実現した単一の国民国家としてインドネシア共和国が成立した。<以上、後藤幹一・山崎功『前掲書』/鈴木恒之『前掲書』/岩崎育夫『前掲書』などによる>

独立戦争と日本人

 抑圧されていたインドネシア民衆の感情の爆発は、3年半にわたった日本の軍政にも向けられた。反日感情は武器引き渡しを拒んだ旧日本軍や連合軍に編入された旧日本兵などの日本人に向けられ、中部ジャワのスマラン市のブルー刑務所では拘束された百数十人の民間人が虐殺され、西ジャワのブカシでは日本軍将兵が惨殺されるなどの事件を生んでいる。
 こうした悲劇の一方で、日本兵の中には日本名を捨てインドネシア人として独立戦争に関わった人々がいた。敗戦後、所属部隊を離脱しインドネシア共和国武装勢力に身を投じ、独立戦争に加わったものが1000人以上にのぼる。彼らの中には戦犯追及を逃れるためという動機の者もいたが、多くはインドネシア解放の大義に共感した行動であった。旧日本兵は武器の使い方を教え、ゲリラ戦法や夜間斬り込み戦法でオランダ軍を震撼させた。彼らは日本軍現地当局からは現地逃亡脱走兵としてあつかわれたが、インドネシア政府は1960年代にはいり、彼らにインドネシア国籍を与え、独立英雄として正式に顕彰し、日本側も「現地逃亡脱走兵」の呼称を1991年に撤回した。<後藤幹一・山崎功『同上書』p.137-139>

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インドネシア(5) スカルノの時代

1950年、インドネシアが連邦制から単一の共和政国家となる。独立の指導者スカルノは第三世界の指導者としてAA会議などを主導したが、国内では「指導される民主主義」を掲げて次第に議会制民主主義を否定し、59年から民族主義、イスラーム侵攻、共産主義を柱とするナサコム体制を樹立、独裁色を強めた。その共産党容認姿勢に反発した軍が1965年に起こしたクーデタ(九・三〇事件)によってスカルノは失脚、軍を基盤としたすはるのが実権を握った。

 1949年のハーグ協定で成立したインドネシア連邦共和国は、インドネシア共和国とオランダの傀儡政権である周辺諸国の連合体であったが、周辺諸国が翌年の1950年までに次々とインドネシア共和国に編入を遂げ、単一の「インドネシア共和国」となった。同年、憲法が改正され(50年憲法)、連邦制は解消されると同時に、大統領権限を制限して政党政治と議会制度を基本とする民主主義体制が規定された。この憲法により改めてスカルノが大統領、ハッタが副大統領に選出された。スカルノは大統領権限が制限され、議会制民主主義となったことには不満であったが、ここではそれを受け入れた形となった。インドネシア共和国の1950年から1968年までスカルノが大統領であった時代は、50年代の議会制民主民主主義の時期と、1959年からの「ナサコム体制」といわれる権威主義の時期とで大きくその性格が異なっていることに注意し、それぞれの時期の経緯を見ておこう。

議会制民主主義体制期 1950年~1959年

AA会議の主催 独立を獲得し、民主国家を実現したインドネシアは、スカルノの指導で国内改革を進めると共に、国際社会で積極的な発言を行うようになり、1955年4月の第1回アジア=アフリカ会議(AA会議)をバンドンで開催して成功させ、スカルノは第三世界のリーダーとして国際的な脚光を浴びることとなった。スカルノは会議の冒頭で演説し、この会議は「人類史上初の両大陸(アジアとアフリカ)にまたがる有色人種の会議」であるとその歴史的意義を表明し、東西冷戦の時代の第三世界の指導者として、インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセルとならぶ名声を得た。
政党の乱立 国内では議会制民主主義の定着がはかられ、1955年9月、最初の総選挙が行われたが票は28の政党に分散し、国民党、マシュミ(イスラーム政党)、ナフダドゥル・ウラマー(NU、イスラーム保守派政党)、共産党の上位4党も16~22%に留まり、国内分裂の状況が明らかになった。復活した共産党は反植民地・反封建を掲げて躍進し、スカルノとの関係も強くなった。
「指導される民主主義」 独立を達成したもののインドネシア共和国は「貧困からの解放」という経済課題を達成することができず、一方でジャワ島以外のスマトラやスラウェシなど外島で不満を持つ勢力の分離主義の動きも出てきて、安定しなかった。45年憲法では議会制民主主義のもとで大統領権限は制限されていたのでスカルノは不満を強め、民主的な姿勢を後退させ、独裁を志向するようになった。スカルノは1956年10月、インドネシアでは多数決で物事を決めていく西洋的議会制民主主義は適合しないから、家父長的な指導者が調和の取れた指導を行う、という姿勢を明らかにした。それは選挙や議会、政党などで運用される民主主義を否定し、「指導される民主主義」こそ現実的である、という表明であった。
 「指導される民主主義」とは政党や議会を基盤としない(あるいは基盤にできない)スカルノの権力を支える理念として打ち出されたといえる。それに対する批判がすぐに起こり、12月には副大統領ハッタが辞任した。ハッタはスマトラ出身でその背景には外島のジャワ島に対する反発があった。同年末から翌年3月にかけて外島各地で寺地か管委などを要求する反乱が勃発、スカルノは陸軍参謀総長ナスティオンの助言で戒厳令を布いて抑え込みんだ。政治介入を強めたスカルノは57年4月、無党派ジュアンダを首相とする内閣を自ら組閣し、かねて唱えていた西イリアン解放の方針を打ち出した。これはオランダ領として残っていた西イリアンを解放することで国民的な支持を高めることを狙ったものであった。58年2月には外島の反乱勢力はインドネシア共和国革命政府樹立を宣言、アメリカの支援も受けたが、スカルノは武力行使に踏みきり同年中には事実上反乱を鎮圧した。これらの反乱鎮圧、西イリアン解放闘争を通じて、スカルノと軍との関係が強まった。

ナサコム体制期 1959年~1965年 

 政情不安を打開するため、スカルノは1959年7月5日に議会を解散し、50年憲法を廃して大統領権限がより強い45年憲法を復活させた。これは「指導される民主主義」の理念に沿ったもので、大統領を支える組織として民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制であるナサコム(NASAKOM)を作り上げた。実質は、軍部と共産党のバランスをとりながら独裁的な政治を行うものであった。
 ナサコム体制の下で大統領権限を強化する命令が次々と出され、国民党と共産党以外の政党は解散させられ、議会はすべて大統領の任命した議員で構成される翼賛議会となった。また軍代表が職能代表として議会に出席するようになり、軍の政治関与が公式に認められた。政治に批判的な言論は取り締まられ、スカルノのみが「人民の代弁者」であるとされた。これは、アジアにおいては帝国主義と闘い自由と解放をめざすとされたスカルノが、足元では権威主義的な独裁者として自由を奪う体制を作っていたということであり、その二面性に注意しなければならない。国内での権威を維持するためにも、帝国主義と戦う指導者という国内外の権威を高めるためにも、スカルノの課題は西イリアン問題と対マレーシア問題の外交案件であった。

西イリアン問題

 1950年、単一国家としての独立を勝ち取ったインドネシアであったが、旧「オランダ領東インド」の中でニューギニア島の西半分の西イリアンについてはオランダは1828年に植民地にして以来の領有に固執し、ハーグ協定の合意にもかかわらず、返還交渉に応じようとしなかった。インドネシアは国連総会にたびたび提訴し、決議に至らなかったが、国際問題であることを認知させていた。1956年にスカルノはオランダ・インドネシア連合を解消し、国連提訴が不調に終わると、銀行、海運、農園などオランダ企業を接収し、国有化を進めた。
 1961年、オランダが西イリアンの統治を国連に委ねる信託統治とする案を国連に提示すると、スカルノは強く反発し西イリアン武力解放を呼号し、12月自ら最高司令官となって国民に総動員に備えることを呼びかけた。翌62年1月には西イリアン沖で小規模な衝突が起こり、全面対決の恐れが出ると、ソ連・中国の介入を恐れたアメリカが調停に入ったが、スカルノはアメリカの調停を拒否、独自の交渉に努め、1962年8月に西イリアン協定が成立、まず国連に施政権を移してから63年5月にインドネシアに移管し、69年までに住民の意思確認をする、というものであった。西イリアンの帰属を実現したことでスカルノの人気は最高潮に達し、また戦闘の危機が高まったことから国軍が増強され、その発言力がさらに強まった。西イリアンの施政権が移管された63年5月、暫定国民協議会(議会)はスカルノに「終身大統領」の称号を贈った。

マレーシア問題で国連からの脱退

 スカルノは共産党の主張を取り入れて、反帝国主義の姿勢を鮮明にし、西イリアンのオランダからの解放とインドネシアへの編入を実現させた後、1963年9月、イギリスの主導によるマラヤ連邦とシンガポール、北ボルネオ(サラワクとサバの2州)の併合によるマレーシア連邦結成にも強く反対した。スカルノは「マレーシア対決」を呼号してマレーシア連邦と国交を断絶し、マレーシアが国際連合の非常任理事国に選出されると1965年1月、国連を脱退し、中華人民共和国などと別個な国際組織の結成を目ざした。

日本との賠償問題の解決

 50年代末~60年代初頭のスカルノはナサコム体制という独裁体制を作り上げていたが、その強権政治は国内の反乱の鎮圧、西イリアン問題や対マレーシア問題など国際的な孤立を辞さないという強気の姿勢の裏返しであった。この時期の問題の一つに、日本からのインドネシアに対する太平洋戦争の賠償問題があった。スカルノは積極的に日本との交渉を進め、1958年1月、両国の平和条約、賠償協定が調印され、4月に発効した。この交渉とその後の過程で、賠償利権をめぐって日本の岸信介首相を初めとする政治家、企業が絡んで裏取引が行われたが、日本側はスカルノの真意を探ろうとして、数人の日本女性をその身辺に送り込んだ。その一人、デヴィ=ラトゥナ=サリと名乗った根本七保子は特にスカルノ寵愛され、1962年に第三夫人となった。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社 p.89>

スカルノ体制の崩壊

 しかし、このような反帝国主義を標榜し、共産党勢力の台頭を容認するスカルノ政権に対し、軍部や大資本、アメリカなどが警戒心を強めていった。スカルノ自身の体調も悪化したこともあって政情不安が強まり、1965年9月の九・三〇事件が起こった。この真相はマダ不明な点が多いが、結果的に共産党のクーデタ失敗とされ、国軍の指揮権をにぎったスハルト将軍による照っていた共産党弾圧とともにスカルノ追い落としが始まり、1968年、スカルノは大統領を辞任した。

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インドネシア(6) スハルトの開発独裁

1960年代後半からスハルト大統領は政権を独占し、「新秩序」といわれる開発独裁の政治を行う。外交ではベトナム戦争に対応して東南アジア諸国連合を結成。長期政権下で不正・腐敗が進行し、1997年のアジア通貨危機をきっかけに民主化運動が起こり、翌年退陣した。

九・三〇事件

 インドネシア共和国では、1959年からスカルノ大統領が「指導される民主主義」という理念を掲げ、政党政治と議会制を実質的に否定する独裁体制を敷いた。それを支えたナサコム体制のなかで共産党勢力が台頭すると、軍部・大資本・アメリカなどの危機感が強まり、ついに1965年9月30日九・三〇事件を期にスカルノの権威は失墜し、軍を背景としたスハルト将軍が1966年3月11日にクーデタでスカルノ大統領の権限を奪い(名目的な大統領はそのまま)、翌日に共産党を非合法とし、さらに翌1968年3月12日に第2代大統領に就任、インドネシア共和国は大きく方向を転換した。
共産党への大弾圧 スハルトは九・三〇事件のクーデタ未遂はインドネシア共産党(PKI)によって起こされたとして、スカルノに迫ってそれを非合法化し、さらに建国と民族の統一を脅かす危険な存在であると断定して、徹底的な弾圧を行った。この1965年から60年代の後半におこなわれた共産党員への大虐殺は、その犠牲者は少なく見積もっても50万に上るか、さらに多くの死者があったとされており、1970年代のカンボジアのポル=ポト政権による虐殺とともに忘れてはならない出来事となった。しかし、ベトナム戦争で共産主義勢力と闘うアメリカを初め、日本をふくめてこの虐殺については世界は沈黙した。<倉沢愛子『インドネシア大虐殺』2020 中公新書>

スハルト体制の内政

 スハルト政権下で、それまでの「多様性のなかの統一」というインドネシア建国の理念は、より国家統合を強めた「建国五原則」(パンチャシラ)が強調されるようになった。
 スハルトは「新秩序」と「開発」を掲げ、共産党勢力を非合法として一掃し、政権を支える政治基盤として官僚などを動員した翼賛政党ゴルカル(「職能グループ」の意味)を組織した。国内の反政府運動や分離運動を抑えるためには、強力な指導のもとに経済開発を進め、豊かな社会を実現することで不満を解消することが有効であるという考えから、開発優先の政策がとられ、その資本として積極的にアメリカや日本など外国資本が導入された。この開発独裁と言われる強権的な政治のもとで、反対派の言論は封じられた。この開発政策は表面的には成果を上げ、インドネシアの生産力は急速に向上した。特に1973年の石油ショックではアラブ諸国の石油に替わりインドネシアの石油輸出が急増し、大きな利益を得て、スハルトの開発独裁は強化された。しかし急速な工業化、開発は農村社会を破壊し、貧富の差を拡大させ、また大統領周辺に利権が集中したために「汚職・腐敗・縁故主義」が進行し、民主的な権利を奪われた民衆の中に次第に不満が鬱積していった。

スハルト体制の外交

 スカルノの第三世界・共産圏寄りの外交姿勢から一転し、スハルトは9・30事件の背後で共産党を動かしインドネシアを転覆させようとしたとして中華人民共和国を強く非難、国交を断絶した(1990年に国交回復)。インドネシア各地ではそれに合わせて華僑に対する襲撃、排除の動きが広がった。その反動としてスハルトは親米路線に転換し、まずベトナム戦争の深刻化に対応して1967年8月8日東南アジア諸国連合の結成に参加、ベトナムの共産化阻止のためのにアメリカへの軍事協力を強めた。また、スカルノがマレーシアを否認したのに対し、その承認に転じ、1966年9月に国際連合に復帰した。
東ティモール併合 1975年12月にはポルトガルの政変に乗じて独立宣言をした東ティモールを武力併合した。これは国連総会でも侵略行為として非難されたにもかかわらずアメリカ、オーストラリア、日本が承認した。東ティモールでは激しい抵抗がゲリラ戦として展開されることとなった。
アチェ紛争 また、インドネシア独立直後から始まっていた、スマトラ島北部アチェ地方の分離独立を求める運動はアチェ紛争といわれ、スハルト政権がアチェ地方の石油や天然ガスを日本などへの輸出のために独占したことから、この時期に武装闘争が激しくなり、国軍の軍事弾圧に対しても非難が起こって国際問題化した。

インドネシア(7) インドネシア共和国の現代

1998年、スハルト大統領が退陣し、開発独裁の時代が終わり、民主化が始まる。ASEANの中心国家として、その広大な国土、資源、人口が東南アジアの中心的役割を強めている。しかし、スハルト体制の残滓、政党政治の不安定、イスラーム勢力の台頭と過激派によるテロ事件などで、21世紀も多難な状況が続いたが2014年のジョコ=ウィドド大統領からは安定している。

国土と人口

 インドネシアは東南アジアの赤道に沿って広がる多くの島々からなる国家。面積は約190万平方km、人口2億6千万人を有する。面積では日本の約5倍。人口で約2倍。首都はジャカルタ。主な島は、ボルネオ島スマトラ島、スラウェシ島、ジャワ島で全部で1万7千以上の島々からなる。
インドネシア共和国国旗 赤と白は男性と女性、天と地、太陽と月を表し、マジャパヒト王国時代から用いられている標識であるという。

民族と宗教

 民族はマレー人(マライ=ポリネシア語族)であるが、地域的、文化的な違いから、ジャワ人、スンダ人、ミナンカバウ人、アチェ人、など多くの「エスニックグループ」に分かれている。言語においても同様であるが、現在は「多様性のなかの統一」が叫ばれ、「インドネシア人」意識と共通語として「インドネシア語」(マレー語に近い)の普及が進んでいる。宗教は88%がイスラーム教徒。しかし、地域によってはキリスト教(カトリックとプロテスタント)、ヒンドゥー教、仏教が多いところもある。 → 建国五原則(パンチャシラ)

現代のインドネシア

 1998年に前年のアジア通貨危機をきっかけにスハルト独裁政権が倒れてから民主化が進み、2004年には初めて国民による大統領直接選挙が実現した(それまでは国民協議会が選出する間接選挙)。スハルト以後の大統領は次の通り。
  • ハビビ 98~99年 航空技術者出身でスハルトの副大統領から昇格。政党の自由化を行い、自ら与党ゴルカルの党首となった。1999年8月30日東ティモールの独立を決める住民投票を認めた。しかし反対派が武装放棄して騒乱状態となり、国軍もそれを鎮圧せず、国連が多国籍軍を派遣するという事態となり、インドネシアの国際的信用も大きく動揺した。1999年に国会総選挙でゴルカル党が敗れたため退陣した。
  • ワヒド(通称グス・ドゥル) 99~01年 イスラーム教組織ナフダトゥール=ウラマー(NU)議長。事故で視力を失ったイスラーム指導者だが、穏健派であり、民主化にも積極的で、国民覚醒党を結成して総選挙で勝利し、国民協議会の大統領指名選挙で選出されて大統領就任。東ティモール紛争の衝撃を克服をめざし、政治の民主化、国軍の改革を表明、また激しくなったアチェ紛争にも取り組んだが、政治基盤が安定せず、国民協議会により罷免された。
  • メガワティ 01~04年 スカルノ前大統領の娘。闘争民主党党首。スハルト政権後の政治の混乱が続く中、国民的英雄と見なされたスカルノの人気を背景に政界に進出。ワヒド政権が不信任され、副大統領から昇格し初の女性大統領として就任した。2002年5月20日には東ティモールの独立が実現した。同年10月12日にはバリ島でイスラーム過激派による自爆テロが起き、200人以上の死者(うち88人がオーストラリア人)が出た。アチェ紛争では2002年12月、ジュネーヴでの和平合意に達したが、翌年独立派(GAM)が和平を放棄したため、非常事態宣言を発して事態を収拾しようとした。外交問題で多難な状況が続く中、一族への利益供与の疑惑が生じ、2004年大統領選挙で敗れた。
  • ユドヨノ(スシロー・バンバン・ユドヨノ) 04~14 2004年7月、初の直接大統領選挙で当選。軍人出身であるが有能な行政、外交手腕を認められ人気が出た。2004年12月26日スマトラ沖大地震(マグニチュード9.3)と大津波で、大きな被害を被った。05年にはアチェ紛争の和平が実現したが、インドネシア共和国内には西イリアン(ニューギニア島西部)の分離独立運動などを抱えた。また2006年5月にはジャワ島中部地震、ついで7月にはジャワ島西部地震と自然災害が続いた。
  • ジョコ=ウィドド(通称ジョコウィ) 14~現在 貧しい大工の家に生まれ、木材会社を興し、地方都市の市長となって実績を上げ、14年大統領選挙に党争民主党から出馬、スハルトの娘婿で軍人の対立候補を破って当選、インドネシアで初めて軍人でもエリートでもない大統領の登場に世界が驚いた。当初はその手腕が疑問視されたが、都市の再開発、貧困対策、汚職・麻薬撲滅などで国民の支持を高めている。大統領選挙の公約で首都の移転を掲げ、ジャカルタから東カリマンタンへの遷都が2024年に予定されている。庶民派として人気が高いが、多民族国家としてのインドネシアの舵取りに注目が集まっている。<2022/1/11>

NewS 首都移転を決定 ヌサンタラ

 インドネシア国会は2022年1月18日、首都をジャワ島のジャカルタから、カリマンタン島に移転させることを可決した。新首都は「ヌサンタラ」と命名された。ヌサンタラとは「群島」という意味で、インドネシアが多数の島々からなることを象徴するものであろう。カリマンタン(ボルネオ島)の予定地は未開で、これから移転先となる25万ヘクタール余りの森林などの土地を開拓して2024年から移転するという。
 新首都建設はジョコ=ウィドド大統領の選挙公約であったが、コロナ禍で足踏みし、要約決定した。しかしその財源の確保など、まだ多くの課題が残されている。 → NHK NEWS WEB 2022/1/19
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書籍案内

石澤良昭/生田滋
『世界の歴史13
東南アジアの厳冬と発展』
1998 中公文庫

桃木至朗
『歴史世界としての東南アジア』
世界史ブックレット12
1996 山川出版社
マラッカ物語 表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社

水本達也
『インドネシア
多民族国家という宿命』
2006 中公新書

岩崎育夫
『入門東南アジア近現代史』
2017 講談社現代新書

鈴木恒之『スカルノ
インドネシアの民族形成と国家建設』
世界史リブレット92
2019 山川出版社』

白石隆
『スカルノとスハルト』
現代アジアの肖像11
1997 岩波書店