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チャンドラ=ボース

インド国民会議派左派の指導者で、ガンディーを妥協的と批判し、第二次世界大戦に際し日本軍に協力してイギリスからの独立を目指したが失敗した。

 日本軍が太平洋戦争に突入し、ビルマ侵攻からインドに迫ってきたとき、インド人の中で、直接日本軍に協力してイギリスと戦おうとした人たちがいた。その指導者がチャンドラ=ボースである。彼は国民会議派左派であったが、イギリス植民地主義と戦うには日本軍の力を借りる必要があると考え、インド国民軍を組織し、1943年10月にはインド仮政府を組織してその首班となり、44年2月からのインパール作戦では日本軍とともにイギリス軍と戦った。しかし、日本軍とともに敗れ、タイに撤退した。ボースはその後、ソ連亡命を図ったが、途中の45年8月18日、台北で飛行機事故により死亡した。
 ボースに関して、その思想と行動がインド独立運動及び、日本の戦争にとってどのような意味があったか、を問うた書物が長崎暢子『インド独立 逆光のチャンドラ=ボース』(1989 朝日新聞社刊)である。同書はボースの生涯を詳述したものではなく、ガンディーの第二次大戦中の「インドを立ち去れ運動」運動が分析の中心となっているが、そのガンディーの運動には表面的には対立していたボースの存在とその行動が強く影響していたことを論証し、そのガンディーの運動の中から「逆光」に照射されたボースの存在が浮かび上がるという論旨となっている。その中から以下にポイントを要約、引用した。

チャンドラ=ボースと国民会議派

 1897年オリッサの裕福な弁護士の家に生まれ、1919年ケンブリッジに留学、優等卒業試験を通り、インドの高等文官試験に合格したエリートであったが、ガンディーの非協力運動に感銘を受け、高級官僚の道を棒に振って民族運動に身を投じた。1922年のイギリス皇太子のカルカッタ訪問に際してハルタル(同盟休業)を指導して逮捕された。その後も何度も逮捕されベンガルの急進派として知られるようになり、インド国民会議派の主要な活動家となった。1920年代後半からガンディーの方針は妥協的で改良主義だと批判するようになり、次第に対立するようになった。ボースはイギリスに対して即時独立要求をつきつけ、容れられなければ不服従運動を開始せよと主張し、会議派の中の急進派となっていった。1939年には会議派議長に選ばれていたが、ガンディー・ネルーらがボース不信任に廻り、やむなく辞任し、両者の対立は決定的となった。ボースはベンガル地方を地盤にしてフォワード=ブロックを創設して会議派とは別個に直接行動を指導したため、会議派中央から除名処分を受けた。<p.18-19>

第二次大戦とボース

 1939年9月、第二次世界大戦が始まるとチャンドラ=ボースの率いるフォワード=ブロックは「イギリスが勝利することを望まない」と驚くべき宣言をし「イギリスの危機こそ我々の好機である」として非協力運動の継続を主張し、12月には会議派を非難して大衆運動開始を宣言した。しかし支持は広がらなかった。1940年5月、フランスが陥落しイギリスは危機に陥ったが、会議派主流がガンディーの提唱する個人的不服従運動に留まっていることに対しボースはより反英的となり、7月インド防衛法によって逮捕された。<p.27-30,42>

インド脱出

 「1940年の11月29日、入獄中のスバース=チャンドラボースは“死に至るまでの断食”を行い、重体になった。ボースは“生死を問わず”自由の身になる決意であった。驚いた当局は再逮捕するつもり彼を一時釈放し、自宅に帰した。40日間、ボースは自宅の寝室を出なかったが、この間に秘密の会合を開いた。そして1941年1月26日深夜、自宅前に立つ監視の眼を潜って、突然行方不明になったのだった。彼はジアウッディーンと名乗るムスリムに変装し、カルカッタからアフガニスタン国境へと向かった。興味深いのはこのとき、彼を助けたのがインド共産党員であったことである。無事国境を越えた彼は耳が不自由、口もきけない人間として、カーブルに従者タルワール一人とともに到着した。」
 ボースは(当時はイギリスと対立していた)ソ連に行くつもりで、ソ連大使に亡命を願い出たが無視され、やむなくイタリア大使の斡旋でソ連経由でドイツに向かった。ボースはなぜ国外での活動を撰びインドを離れたのか。彼自身の語るところによれば、・イギリスは敗戦し、英連邦は崩壊するだろう。・にもかかわらずイギリスはインドを手放さない。・反英の側で戦えばインドは独立を得るだろう。と考えたためであった。「インドを脱出してイギリスの敵と手を結び、その援助でインド解放のための軍隊を結成する」ことを目指したという。<p.61-63>

日本軍の侵攻とインド

 ボースは1941年11月から自ら原稿を書き、百キロワットの短波放送で世界のインド人に一日45分間、反英独立を鼓吹した。当時バンコクで結成されたインド独立連盟のメンバーもその放送を聞いていた。1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍がシンガポールを陥落させ、ビルマに迫って1942年3月8日にラングーンを占領した。その間、捕虜となったイギリス軍の中のインド兵は、日本軍が協力して編成したインド国民軍に加わり、イギリス軍と戦う側に立った。<p.79,83>この情勢により、インド内部ではチャンドラ=ボースが日本軍とともに攻めてきてインドを解放するのではないかという強い期待がわき起こった。ガンディーでさえ、ボースの放送の影響を受け、日本軍の勝利、イギリス軍の敗北を予測し、「インドを立ち去れ」(クィット=インディア)運動を開始したとも推測される。<p.140-142>国外のボースの運動は従来はインドの独立運動に大きな影響を与えなかったとされていたが、ガンディーの「インドを出て行け」の運動に強いインパクトを与え、ガンディーは当初はイギリスの敗北を信じ、侵攻してくる日本に対して有利な交渉の余地を想定してイギリスの撤退を掲げ、非協力運動を展開した。しかし、日本政府および日本軍側にそれに応じる構想も能力もなく、ボースの戦略は実現しなかった。<p.149-152>

ボースの事故死

 1944年3月に開始されたインパール作戦は日本軍のインド侵攻作戦ではあるが、ビルマでの優位を維持するための防衛的作戦にすぎず、インド独立を援護するものではなかった。ボースはそれでもその戦いに賭けてインド国民軍を率いて参加し敗れた。「ボースは日本の敗戦が見えてもくじけることはなかった。彼はインド独立の戦いは終わっていないとし、戦争の終結間近になると、今後世界の矛盾は米英対ソ連をめぐっての展開となるだろうと考えた。従って再び<敵の敵は友>という彼の政治哲学に従い、イギリスの敵ソ連に行き、ソ連との協力で反英独立闘争を繰り広げようとした。そしてソ連に向かう途中、1945年8月18日に台北の飛行場で謎の飛行機事故死を遂げたのである。」<p.254>

ボースは「生きている」

 「インドに行った日本人は、ボースが今でも生きていると信じられているのに驚く。ネルーの生涯のライヴァルであり、急進派としてガンディーに対抗して国外脱出し、独立直前に夭逝したボースは、いまや独立後のインドが実現できなかった全てのもののシンボルである。インド独立に賭けた人々の夢と願望、幻滅の全てを背負って彼はこれまで「生きて」きた。・・・現在の人々にインドの現状への不満が存在するかぎり、ボースは生きているとの神話はなくならず、彼は生き続けるであろう。」<p.256><以上 長崎暢子『インド独立 逆光のチャンドラ・ボース』1989 朝日新聞社>

チャンドラ=ボースと日本

 日本軍はマレー半島を南下、シンガポールを陥落する間に、降服したイギリス軍に属していたインド兵を「インド国民軍」に編成して、インド侵攻の場合の兵力としようとした。このときインド兵の多くが日本軍に協力し、イギリスからの独立戦争に向かおうとした。1915年に日本に亡命していたインド独立運動の急進派ラース=ビハリー=ボース(中村屋のボース)は日本でインド独立同盟を結成していたが、至急バンコクに向かい、現地のインド独立同盟と合体し、インド国民軍をその配下においてインド帰還をめざした。しかし、日本軍・R=B=ボースとインド国民軍幹部の思惑の違いから対立が生じ分裂の危機に至った。そこで日本軍の参謀本部は当時ドイツで反英宣伝を展開していたチャンドラ=ボースを日本に迎え、インド国民軍を統括させる計画をたてた。極秘裏にC=ボースを潜水艦でインド洋まで運び、1943年4月26日、マダガスカル沖で日本潜水艦に乗り移らせ、東京に運んだ。C=ボースは東条英機と会いインド独立を訴え、それを受けて東条はインドを大東亜共栄圏に組み入れることを声明した。C=ボースはバンコクに戻りR=B=ボースからインド国民軍の指揮権を譲渡され、「デリーに帰ろう!」と檄を飛ばした。1943年11月にはもういちど東京に行き、東条の主催した「大東亜会議」に自由インド仮政府代表として参加した。シンガポールを拠点にインド反攻を準備したボースは、44年3月のインパール作戦に参加、日本軍の無残な敗北によってインド帰還の夢をたたれた。

Episoce もう一人のボース 中村屋のボース

 ここで出てきたラース=ビハリー=ボースは、日本で「中村屋のボース」としてよく知られた人物であるが、チャンドラ=ボースとは別人なのでこんがらからないように。ラース=ビハリー=ボースについては、中島岳志氏の『中村屋のボース』に詳しい。彼は1915年、インドの独立運動の中の過激グループを率い、イギリス高官暗殺を企て、失敗して日本に亡命した。そして新宿のパン屋の中村屋にかくまわれ、その娘と結婚し、日本に居着いてしまった。その後も日本の政治家や民族主義者などと交際し、「大アジア主義」を鼓吹しインド独立を側面から支援した。その彼が日本軍のインド侵攻計画に合わせてバンコクに向かったが、結局日本の手先としてしか受け取られず、インド国民軍とうまくいかず、インド復帰は実現しなかった。<中島岳志『中村屋のボース』2005 白水社 p.306-319>