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ジンナー

インドのイスラーム教徒による独立運動の指導者。全インド=ムスリム連盟を指導して1940年にパキスタン決議でパキスタンの分離独立を主張。1947年、インドと分離独立した後のパキスタンで初代総督となる。

Jinnah and Gandhi

ジンナーとガンディー
Wikimedia Commons

 ムハンマド=アリー=ジンナー Muhammad Alī Jinnah 1876-1948 は、カラチの中産階級のムスリム商人の出身で、ロンドンで学び、弁護士資格を持ち、インドに帰ってからナオロジーの政治秘書となってインド民族運動の政治活動に加わるようになった。彼はイスラーム教徒ではあったが、はじめは国民会議派に属し、イギリス議会政治をめざして活動するうち、ムスリムの立場に立つことを心がけるようになり、1913年から全インド=ムスリム連盟に加わり、16年からはその議長となった。

全インド=ムスリム連盟を指導

ラクナウ協定 第一次世界大戦が始まるとインドのムスリムの中にイギリスがオスマン帝国を敵国としたことで、反イギリス感情が強まり、国民会議派と全インド=ムスリム連盟の間に連携の動きが生まれた。1916年12月ラクナウ協定が結ばれ、ムスリムの分離選挙を認めることで合意した。この協定締結はジンナーが国民会議派の長老ティラクとの間で進められたものであったが、実質的に少数派であるムスリムに有利な分離選挙をみとめさせるなど、ジンナーの勝利ともされている。
カリフ擁護運動 インドのムスリムの中には、オスマン帝国のカリフの地位が脅かされたことで、その擁護運動であるヒラーファト運動が起こった。いち早くガンディーは、それを支援することでムスリムと国民会議派の協調を強めることができると考え、ともに非協力運動を行うことを求め、ジンナーなどのムスリム側もそれに応じた。こうしてインドの反イギリス民族闘争が統一して行われるという新たな動きが起こったが、また戦争が終わってカリフ制の廃止が決まったため、運動は次第にふるわなくなった。この運動が後退してからは、ジンナーは次第にガンディーの非協力運動と距離を置くようになり、20年代には協力関係は消えた。 → コミュナリズム

パキスタン決議

 1935年頃から、インドのイスラーム教徒の独立国家実現のためにその結集を呼びかけ、1940年3月23日全インド=イスラム連盟ラホール大会で議長となって歴史的な演説(パキスタン決議)を行い、後のパキスタン建国の基礎を作った。それは、インドの北西部(パンジャーブ地方)や東部(ベンガル地方)のようなムスリム多住地域は「独立諸国家」を建設すべきである、という「二民族論」を提唱、ガンディーやネルーらの国民会議派が「一つのインド」(その中でのヒンドゥーとムスリムの連邦制)に固執する姿勢を厳しく批判するものであった。

パキスタン初代総督となる

 また、第二次世界大戦では国民会議派がイギリスに対するインドを立ち去れ運動を展開して反英闘争を展開したのに反対して、戦争をファシズムとの戦いと規定してイギリスを支援した。ジンナーはネルーとの協議をたびたび行ったが、歩み寄ることはできず、イギリスが最終的に分離独立を打ち出すとそれを受け入れた。こうしてインドの分離独立が確定して、1947年8月14日にしてパキスタンがイギリスの自治領として独立した。ジンナーはその初代総督(自治領としての独立だったので総督と称した)となったが翌年病死した。パキスタン建国の父とされる。
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