印刷 | 通常画面に戻る |

日本の国連加盟

1956年、平和共存の機運の中で日ソ共同宣言が成立したことを受けて日本の国際連合加盟が実現した。

 1956年12月18日、日本は国際連合の80カ国めの加盟国となった。国際連合憲章にはいわゆる敵国条項(大戦中に連合国と敵対していた国)の規定は残っていたが、加盟条件である「平和愛好国」であることが認められた。1933年の国際連盟脱退から、23年目に国際社会に復帰したことになる。

日本の国連加盟の経緯

 日本の国連加盟は冷戦のただ中にあって、簡単ではなかった。以下、その経緯をまとめると次のようになる。1951年 サンフランシスコ平和条約の前文で「日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守」すると宣言し、「連合国は、前項に掲げた日本国の意志を歓迎する」としていた。この条約は翌52年4月に発効、国会はこれを受けてただちに国連加盟申請を承認し、日本政府は6月16日付で申請を行った。安全保障理事会で9月に審議が行われたが、ソ連の拒否権によって否決された。その背景には、49年に成立した中華人民共和国の加盟問題(米英および中華民国が反対していた)、50年に勃発した朝鮮戦争があった。またサンフランシスコ平和条約はソ連などを含まない、片面講和であったことも理由であった。
 その後、中華人民共和国加盟問題は国連での東西の最も激しい対立点となり、米ソとも自陣営に有利な国の加盟を進めようとして互いに拒否権を発動しあう状況となり、51年から54年の間は新規加盟を果たす国はなかった。
 1953年のスターリン死去、朝鮮休戦協定成立、54年のインドシナ戦争休戦、55年の戦後初めての米ソ首脳会談であるジュネーヴ会談などの平和共存路線が進展して、55年に未加盟国16カ国の一括加入が承認されたが日本は含まれなかった。
 日本はアジア諸国の賛同を得るため、55年の第1回アジア=アフリカ会議(バンドン会議)に政府代表高碕達之助を参加させ(この会議が日本が戦後初めて参加した国際会議となった)AAグループの一員という姿勢を示すと共に、56年10月、鳩山一郎首相が訪ソして「日ソ共同宣言」を発表して日ソ間の戦争状態を終わらせることによって56年12月の国連加盟が実現されることとなった。

国連加盟と日本国憲法第9条

 日本が国際連合に加盟する際、避けられない問題があった。国際連合憲章は加盟国に対し集団安全保障の立場から軍隊を提供する義務を求めているのではないか、とすれば、日本国憲法第9条が戦争放棄、武力放棄を掲げていることと矛盾するのではないか、という点であった。そこで日本政府は加盟に当たっての申請書に「日本のディスポーザルにある一切の手段を持って(by all means at its disposal)、その義務を履行する」と記載し、憲法第9条を直接引用することなく、軍事的協力の義務は(実質的に)留保することを明確にした。<佐々木芳隆『海を渡る自衛隊』1992 岩波新書 p.41、189>
 この加盟時の留保は、1990年代に、日本の国際平和貢献で自衛隊を派遣すべきであるという大合唱によって忘れられている、ということができる。

国際連合と日本

 1956年の国連加盟後、自民党政権が続いた日本は、「自由主義世界の一員であること」「アジアの一員であること」「国連中心主義」を外交姿勢の柱として常に掲げていたが、1960年の日米安保条約改訂を境に、日米軍事同盟路線が強まり、アメリカとの関係を最優先に釣るようになった。その反面、アジアの一員としての外交姿勢は弱まっていった。
 また80年代以降にアメリカ合衆国が国連離れを鮮明にしていくと、日本もそれに追随し、国連総会での否決率はアメリカと常に歩調を合わせる形となっている。一方、安全保障理事会の非常任理事国(任期2年)選挙には積極的に立候補し、何度も当選(低得票率での当選が多い。また落選したこともある。さらに途上国への援助と非常任理事国選挙を取引しているなどの批判もある)している。さらに、最近は国連改革の一環と称して常任理事国入りを提案しているが、国連での支持を受けることに失敗している。安全保障問題でのアメリカへの追随姿勢や核廃絶問題、民族問題、人権問題などでの否定的な態度(死刑廃止条約では日本とアメリカだけが反対したなど)が日本への支持が拡大しない背景と考えられる。<河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 などによる>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

佐々木芳隆
『海を渡る自衛隊』
1992 岩波新書

河辺一郎
『国連と日本』
1994 岩波新書