拒否権
国際連合の安全保障理事会の議事決定に際し、常任理事国(五大国)に認められている権利。常任理事国5ヶ国のなかで1国でも反対すれば議決とならない。アメリカ、ソ連(その後継国家ロシア)がたびたび拒否権を行使したため安保理決議の成立が拒まれた。
国際連合の最重要機関である安全保障理事会の常任理事国(P5)の5カ国に認められている権利。国際連合憲章に規定されており、安全保障理事会に付託された国際紛争の解決については、5大国である常任理事国全員一致を原則として、1ヵ国でも反対すれば可決されないこととした。
安全保障理事会の決定に正当性を持たせ、実効力を強める措置として考案されたものであったが、ダンバートン=オークス会議での国際連合憲章を検討する過程で米ソ間に意見の違いが明確となった。アメリカ・イギリスは拒否権には否定的(拒否権を認めたとしても重要事項だけに限定しようとした)であったが、ソ連は拒否権の必要性を主張した(すべての事項で拒否権を認めよと主張した)。
しかし、問題は五大国が紛争の当事者となった場合はどうするか、ということだった。アメリカ・イギリスは当事者となった場合は拒否権の行使でなく棄権すべきだ(つまり、自国が当事国となった場合は行使できない制限付き拒否権)と主張したが、ソ連は自国が当事者となった場合は安保理の議論でふくめても拒否権を行使できる(つまり、その場合は安保理は機能しなくなる全面的拒否権)と主張した。ヤルタ会談ではローズヴェルトは前者案にこだわったが、チャーチルがソ連を国連に引き留めておくことの方が大事と考え、ソ連案を呑んだ。 結局ソ連の主張する全面的拒否権を認めることになったが、最終的な国連憲章の採択が予定されたサンフランシスコ会議でも当然、中小国から会議の声が相次いだが、最終的には自国が当事国となった場合は安保理の審議は拒むことはできないが、拒否権を行使できる(安保理の審議そのものは拒否できない)とすることでまとまった。<小林義久『国連安保理とウクライナ問題』2022 ちくま新書 93-95>
拒否権の行使はソ連だけではなかった。1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)ではアメリカが安保理に停戦決議を出したが、イギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカはただちに国連総会の緊急会合を開催して停戦決議を出し、イギリス・フランス・イスラエルも停戦に応じた。この時初めて国連緊急軍(UNEF)が派遣された。
しかし米ソが当事者となったキューバ危機やベトナム戦争では、安保理での協議は行われたが、正式な議題にはならなかったし、決議の行われていない。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻では、ソ連軍の即時撤退を求める決議が出されたが、ソ連の拒否権で否決された。
安全保障理事会の決定に正当性を持たせ、実効力を強める措置として考案されたものであったが、ダンバートン=オークス会議での国際連合憲章を検討する過程で米ソ間に意見の違いが明確となった。アメリカ・イギリスは拒否権には否定的(拒否権を認めたとしても重要事項だけに限定しようとした)であったが、ソ連は拒否権の必要性を主張した(すべての事項で拒否権を認めよと主張した)。
ヤルタ会談での合意
解決は1945年2月のヤルタ会談に持ち越され、イギリスは当初アメリカに同調していたが、チャーチルがソ連を引き込むには妥協すべきであるという意見に変化し、妥協点を見いだし最終合意した。妥協点は、自国が直接関わる紛争の場合は棄権する(棄権は評決に加わらず反対票とはならない)こと、会議の手続きの問題では拒否権を行使できないことの二点を認めたことである。この拒否権は、国際連合を成立させるための米ソの妥協の産物であったが、冷戦時代には米ソが互いに拒否権を行使したために安全保障理事会の機能がたびたびマヒしてしまうこととなり、大きな争点となった。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書などによる>拒否権をめぐる議論
アメリカ大統領F=ローズヴェルトは、戦後の国際的集団安全保障を中核となるのはアメリカ、イギリス、ソ連、中国(中華民国)の4カ国であると想定し、それを「四人の警察官」に喩えた。その線で連合国首脳の間で話が進み、ダンバートン=オークス会議でほぼ合意に達した。その中味は常任理事国5カ国は世界的な危機が生じた場合には結束して軍事行動に当たる必要があるので、もし安保理で強制権を持った決定が成された場合には、それを拒むことができるという「拒否権」が与えられることになった。それによって五大国が積極的に一致して行動する動機となると考えられた。しかし、問題は五大国が紛争の当事者となった場合はどうするか、ということだった。アメリカ・イギリスは当事者となった場合は拒否権の行使でなく棄権すべきだ(つまり、自国が当事国となった場合は行使できない制限付き拒否権)と主張したが、ソ連は自国が当事者となった場合は安保理の議論でふくめても拒否権を行使できる(つまり、その場合は安保理は機能しなくなる全面的拒否権)と主張した。ヤルタ会談ではローズヴェルトは前者案にこだわったが、チャーチルがソ連を国連に引き留めておくことの方が大事と考え、ソ連案を呑んだ。 結局ソ連の主張する全面的拒否権を認めることになったが、最終的な国連憲章の採択が予定されたサンフランシスコ会議でも当然、中小国から会議の声が相次いだが、最終的には自国が当事国となった場合は安保理の審議は拒むことはできないが、拒否権を行使できる(安保理の審議そのものは拒否できない)とすることでまとまった。<小林義久『国連安保理とウクライナ問題』2022 ちくま新書 93-95>
拒否権が認められた背景
安全保障理事会の常任理事国5カ国に拒否権を与える原案については、サンフランシスコ会議でも中小国から異論が出され、拒否権を制限する修正案が出されたが、大国間の協調なしには国連の存続自体が危うくなると言う現実的判断が大勢を占め、原案どおりで可決された。アメリカ・ソ連という二大国をつなぎ止めておく妥協の産物であったともいえる。拒否権行使の実態
安全保障理事会における拒否権行使の実態は、国連創設から1969年まではその行使回数はのべ115回、うちソ連は108回で圧倒的多数を占める。アメリカはゼロだった。アメリカが初めて行使したのは1970年代、南ローデシア(現ジンバブエ)問題に関してである。次いで1972年、イスラエルによる67年の停戦協定違反を非難する決議に対してであった。このころから拒否権の行使が急増し、それも中東問題でアメリカがイスラエルを擁護するためのもの(2004年までにアメリカが行使した約80回のうち、中東問題で約40回以上となる)。これはアラブ系の多数が占める総会でのアメリカの孤立を深める結果となった。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.157>拒否権行使の急増
国連と安保理が発足した直後の1947~50年ごろまでは、インド=パキスタン戦争(第一次)やパレスチナ戦争で非武装の停戦監視団を派遣して、停戦を実現するなど、機能を発揮していた。しかし、1950年の朝鮮戦争では、中華人民共和国の国連議席が認められないことに抗議したソ連が安保理を欠席している間に、アメリカが安保理決議を強行、国連軍を編成して北朝鮮軍と戦うということになり、ソ連はその後、安保理を欠席することなく、出席した上で拒否権を行使するという戦術に転換した。拒否権の行使はソ連だけではなかった。1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)ではアメリカが安保理に停戦決議を出したが、イギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカはただちに国連総会の緊急会合を開催して停戦決議を出し、イギリス・フランス・イスラエルも停戦に応じた。この時初めて国連緊急軍(UNEF)が派遣された。
PKO活動の増加
冷戦とともに、安保理が充分機能しないなかで、平和維持活動(PKO)が派遣されるようになった。1960年のコンゴ動乱では国連コンゴ活動(ONUC)が派遣されたが、現地の混乱に巻き込まれ250人が死亡し、調停に乗り出したハマーショルド国連事務総長も飛行機事故で亡くなるということも起こった。その後、1962~63年の西ニューギニア(西イリアン)でのオランダとインドネシア軍の停戦監視のための国連西ニューギニア保安隊(UNSF)や、1963年のキプロス紛争での国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)などと、パレスチナでの1973第4次中東戦争での第2次国連緊急軍(UNEF②)、ゴラン高原における国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)、1978年のイスラエルのレバノン侵攻後の国連レバノン暫定軍(UNIFIL)などが行われた。しかし米ソが当事者となったキューバ危機やベトナム戦争では、安保理での協議は行われたが、正式な議題にはならなかったし、決議の行われていない。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻では、ソ連軍の即時撤退を求める決議が出されたが、ソ連の拒否権で否決された。