アジア=アフリカ会議/バンドン会議/AA会議
第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカの諸国代表が、1955年、バンドンで開催した国際会議。米ソ二大国主導の東西冷戦下で、第三世界の結集を目指し、平和十原則を共同宣言として発表した。
アジア・アフリカ諸国
アジア・アフリカ世界は、ヨーロッパ列強およびアメリカ合衆国、あるいはアジアの中でいち早く資本主義化した日本など、帝国主義政策をとった諸国によって植民地、あるいは半植民地として支配されていた。アジア地域はインドに代表されるように第二次世界大戦直後に一斉に独立を達成した。アフリカでは第二次世界大戦直後から独立運動が本格化し、1960年の「アフリカの年」をピークに多くの国がを遂げた。ラテンアメリカ地域の諸国はほとんどが19世紀の中頃に独立を達成していたが、多くは外国資本と結託した独裁政権の支配に置かれていた。この地域でも50年代末から60年代にかけて民族運動が高揚する。これらの新興勢力は、冷戦下の世界における「第三世界」といわれ、国際政治に重要な位置を占めることとなる。特に、インドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、アフリカではエンクルマなどがその卓越した指導者として国際政治にも発言力を増した。1954年には非同盟主義を唱えるネルーの呼びかけによって南アジアの5ヵ国がコロンボ会議を開催、翌55年にアジア・アフリカの新興国を招集して、インドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議を開催することを提唱した。
アジア・アフリカ会議の開催
1955年4月、インドネシアのジャワ島、主な参加者 インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、インドネシアのスカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指した。
平和十原則 アジア・アフリカ会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。国連憲章の尊重、植民地主義反対、経済建設の推進、生活水準の向上など平和五原則を発展させて国際政治の原則として提唱された。
会議の意義 この会議の成功は、第三世界の結束を東西冷戦でにらみ合う、米ソ二大国に示したことであった。この会議に示された旧植民地の独立と、新興国の結束は、米ソ両国主導の国際政治に強い影響を与え、米ソを含む「先進国」はアジア・アフリカ会議に対抗して、同年7月にジュネーヴ4ヵ国首脳会談を開催し、平和共存を打ち出し事によって国際政治でのイニシアチブの維持を図ることとなった。
会議の中断 しかし、インドと中国が国境問題で対立をかかえ、その対立が表面化したこと、さらに多くの独立したアジア=アフリカ諸国はそれぞれ内部に政治的対立を抱え、安定していなかったことなどからこの国際会議を維持することは現実的には非常に困難であった。1965年6月18日にはアルジェリアでクーデタが起こり、ベン=ベラ政権が倒されたため、アルジェでの開催できなかった。
冷戦後の2000年代には、アジア・アフリカ諸国は資源ナショナリズムによる対立、イスラーム原理主義の台頭などの宗教対立などを誘因とした深刻な地域紛争が頻発するようになって開催中止が続いたが、2005年に同じバンドンで、アジア=アフリカ会議50周年の記念式典が開催された。
バンドン
インドネシアのジャワ島にある都市。1955年、アジア=アフリカ会議開催。
1955年4月18日にアジア=アフリカ会議が開催されたバンドン(バンドゥンとも表記)は、ジャワ島の西部にある、ジャカルタに次ぐインドネシア第二の都市で、植民地時代から政治・経済・交通の要地として栄えていた。若き日のスカルノはバンドン工科大学で学んだ。1946年3月、インドネシア独立戦争でオランダとの激しい戦闘があったところで、その勝利の象徴的な場所であったことが、アジア=アフリカ会議開催の背景となった。
1955年
第二次世界大戦終結後10年、アジア=アフリカ会議が開催され、米ソは平和共存を模索するようになり、冷戦構造が大きく転換した年。
1955年は、第二次世界大戦が終結して10年、つまり国際連合が誕生して10年目にあたる。事実、6月20日からサンフランシスコのオペラ・ハウスで国際連合創設10周年の記念祝典が加盟60ヵ国の代表が参加して開催された。世界は53年の朝鮮休戦協定、54年のインドシナ戦争の停戦でようやく局地的な戦火も止み、冷戦下にはあったが東西の平和共存が可能であるというムードが盛り上がってきた。
それを受けてこの1955年7月18日には戦後初めて米ソと英仏首脳によるジュネーヴ4ヵ国首脳会談が開催され、ドイツ問題などの課題について話し合い、具体的な合意は得られなかったが「ジュネーヴ精神」という話し合いの精神が確認された。
世界をリードしていた4国首脳に話し合いの気運をもたらしたのは、1955年4月18日に開催されたアジア=アフリカ会議に見られる、いわゆる第三世界の動きであった。アメリカとソ連は世界でのイニシアチブを維持するためにも平和共存路線を模索せざるを得ない情勢となった。
1955年は戦後日本にとっても画期的であった。朝鮮特需によって経済が復興し、政治面ではいわゆる「55年体制」と言われる自由民主党による長期安定政権が始まった年でもある。アジア=アフリカ会議にはオブザーバー参加にとどまったが、国際社会への復帰も進み、翌56年に日ソ共同宣言による国交回復、国連加盟が実現する。そして60年の安保改訂を経て、60年代の高度経済成長期へと移行していく。
それを受けてこの1955年7月18日には戦後初めて米ソと英仏首脳によるジュネーヴ4ヵ国首脳会談が開催され、ドイツ問題などの課題について話し合い、具体的な合意は得られなかったが「ジュネーヴ精神」という話し合いの精神が確認された。
世界をリードしていた4国首脳に話し合いの気運をもたらしたのは、1955年4月18日に開催されたアジア=アフリカ会議に見られる、いわゆる第三世界の動きであった。アメリカとソ連は世界でのイニシアチブを維持するためにも平和共存路線を模索せざるを得ない情勢となった。
1955年は戦後日本にとっても画期的であった。朝鮮特需によって経済が復興し、政治面ではいわゆる「55年体制」と言われる自由民主党による長期安定政権が始まった年でもある。アジア=アフリカ会議にはオブザーバー参加にとどまったが、国際社会への復帰も進み、翌56年に日ソ共同宣言による国交回復、国連加盟が実現する。そして60年の安保改訂を経て、60年代の高度経済成長期へと移行していく。