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キューバ革命

1959年、キューバで親米バティスタ政権を倒したカストロが主導権を握り、62年から日61年から社会主義改革を実施。62年にキューバ危機が起こる。その後、フィデル=カストロの社会主義路線は弟のラウルに継承され、中米での反米姿勢を続けている。

 1959年1月1日キューバで起こった、カストロなどによるバティスタ独裁政権の打倒と、その後の社会主義革命を言う。ラテンアメリカで最初に成功した社会主義革命であり、アメリカに大きな脅威を与えた。

独裁政権の打倒

 バティスタ政権独裁政権に対する反乱は1953年のカストロの指導した「7月26日運動」に始まった。カストロは数人の同志とともに東部のモンカダ兵営を襲撃したが、最初の蜂起は失敗、メキシコに逃れ、その地で革命を目ざす組織をつくり、1956年キューバに上陸、同志のゲバラとともに苦しいゲリラ戦を展開した後、農民の支持を受けて首都ハバナを占拠し、1959年1月1日、バティスタ政権を倒した。

社会主義革命

 カストロは民族主義的な社会改革を目指し、まず農地改革法を制定、小作人の解放をはかった。多くのサトウキビ農園はアメリカ人地主のものだったので、アメリカは激しく反発、キューバ産の砂糖の輸入を制限するなど対抗策をとった。キューバはソ連に接近し、1960年2月に貿易援助協定を締結、社会主義路線への転換を明らかにし、アメリカ企業を接収して国有化を断行、1961年に1月には両国は外交関係を断絶した。
 アメリカは1961年1月20日にケネディ大統領が就任した直後の4月17日に中央情報局(CIA)が亡命キューバ人を扇動してキューバに上陸させ、反革命軍事行動をとらせたが、失敗した(ピッグス湾事件)。アメリカに不信感を強めたカストロはソ連に接近し、1961年5月1日キューバ社会主義宣言を発表し、社会主義路線を採ることを明確にした。

キューバ危機

 アメリカのケネディ大統領はラテンアメリカ諸国に「進歩のための同盟」結成を働きかけを行ってキューバ孤立化を図り、さらに同年4月に亡命キューバ人による反革命軍のキューバ侵攻を支援したが、失敗した。1962年ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことを知ったアメリカはキューバを海上封鎖し、10月の「キューバ危機」となった。これは米ソによる第三次世界大戦の危機であったが、妥協が成立、ソ連はミサイルを撤去した。こうして社会主義キューバは存続することができたが、アメリカによる経済封鎖は継続されている。

キューバの社会改革

 カストロの指導するキューバ共産党の一党独裁の下で、当初はソ連の支援と影響を強く受けながら進められた。まずアメリカ人地主・資本家を追放してその農園、工場などの資産を国有化し、教育・医療などの無料化などの社会保障、道路・住宅・水道・電気などの建設、生活物資の配給制などが実施された。しかし、ソ連の援助と砂糖のソ連東欧圏への輸出に依存したため、経済は向上せず国民生活の困窮は続き、反革命の動きも現れたが、カストロはそれらを国外追放にするなど革命路線を維持した。また60年代はいると中ソ論争のあおりを食らって社会主義陣営が分裂、カストロもソ連一辺倒から次第に離れて、第三世界との連携を重視するようになり、またラテンアメリカ諸国やアフリカの革命運動、民族運動への支援を強めた(ボリビアでのゲバラの活動もその一環だった)。

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