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ケネディ

アメリカ第35代大統領。アイゼンハウアー共和党政権にかわり、1961年から民主党政権を復活させ「ニューフロンティア」を掲げる。東西冷戦が深刻化し、キューバ危機に直面、ソ連との全面対決を回避したが、ベトナム情勢では悪化が始まった。国内では黒人差別解消を目指す公民権法案を進めたが、1963年、暗殺された。


John Fitzgerald Kennedy 1917-1963
 第二次世界大戦後、1960年代初頭にアメリカ合衆国の対統領を務めた。John Fitzgerald Kennedy 在任1961~63年。民主党。アイルランド系アメリカ人。1960年の大統領選挙で、「ニューフロンティア」開拓を掲げ共和党ニクソン候補を破って、史上最年少の43歳で当選し、共和党アイゼンハウアーに代わって大統領に就任した。またカトリック教徒としても最初の大統領であった。

ケネディの登場

 民主党は1933年からニューディールの政党として長期政権を続けていたが、ニューディール政策が定着したことによって、かえって支持層が保守化して共和党に鞍替えする傾向が出てきた。その結果、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハウアーが大統領選挙に当選し、それは2期目も継続した。共和党から政権を奪取するため、次の民主党は世代交代を演出し、新鮮な候補者を選ぶ必要があった。そこに登場したケネディは43歳、アイルランド移民の子孫で富を築き駐英大使を務めた父をもつ名門の出で、ハーヴァード卒のインテリ、若き上院議員であった。
大統領選挙で初めてのテレビ討論  ケネディは「ニューフロンティア」という未知の可能性をひらくことによって、スプートニク=ショック以来失われていたアメリカの自信を取り戻すことを公約した。対する共和党候補ニクソンは同じように若く、しかもアイゼンハウアーの副大統領としてフルシチョフとも渡り合うなど経験が豊富であることを強調し、エネルギッシュなタフガイと見られていた。
 1960年の選挙は、まれに見る接戦となったが、巧みな弁論と魅力的に見られた人柄によってケネディが11万票の僅差で勝利した。決定的な役割を担ったのが、この時初めて導入されたテレビ公開討論であった。ケネディはテレビのおかげで勝った、とも言われた。
大統領就任演説 1961年1月20日の大統領就任演説でケネディは「世界の長い歴史において、最大の危機に瀕した自由を守る役割を与えられた世代はわずかしかありませんでした。私はこの責任に尻込みしません。歓迎するものです」と述べて、東西冷戦下でソ連に後れをとった宇宙開発などでアメリカの自信の回復に努めることを呼びかけ、「国があなたのために何をすることができるかを問うのではなく、あなたが国のために何をすることができるかを問うのです。」と述べた。

ベルリン問題

 1961年、当時東ベルリンから西ベルリンを経て西ドイツに密出国するものが増え、ベルリン問題が深刻化し、大統領就任直後のケネディはウィーンでソ連首相フルシチョフと米ソ首脳会談を行うことになった。しかしソ連がドイツからのアメリカ軍の撤退を要求したことに対してケネディが拒否したことから話し合いは決裂し、1961年8月13日、東ドイツ政府はベルリンの壁の設置に踏み切った。

キューバ革命への対処

 ケネディの大統領就任以前にアメリカの喉もととも言える場所にあるキューバでカストロが権力を握り、キューバ革命が始まっていた。両国はすでにアイゼンハウアー大統領の時、1961年1月3日に国交を断絶していた。ケネディは前大統領の時から計画されていたキューバ革命政権転覆のために亡命キューバ人を侵攻させることを承認し、4月に実行されたがそれは失敗した(ピッグス湾事件)。態度を硬化させたカストロは1961年5月にキューバ社会主義宣言で社会主義路線を採ることを明確にした。それに対してケネディ政権は、「進歩のための同盟」と称してラテンアメリカ諸国への援助を表明してキューバの孤立化を図った。
キューバ危機とその回避 キューバにソ連のミサイル基地が設けられたことを探知したケネディは1962年10月22日にキューバ封鎖を実行、両陣営が一触即発という事態となるキューバ危機が起こった。米ソの対立は核戦争の一歩前まで行き着いたが、両首脳はホットラインで話し合い、フルシチョフがミサイル撤去に応じて危機は回避された。冷戦期の核兵器開発競争は水爆や長距離ミサイルを可能にしたが、それによる核戦争は米ソにとってだけでなく、世界の破滅につながることも認識されるようになり、緊張緩和が求められるようになった。緊張緩和を受けて、ケネディ政権は1963年の部分的核実験停止条約の成立を実現させた。ケネディ自身も核戦争への危機感を意識しており、1961年の国連演説では核を「ダモクレスの剣」に喩えてその使用の抑止を訴えている(核兵器開発競争の項を参照)。

ベトナム介入の開始

 東南アジアでは南ベトナムを共産勢力から守るためと称してベトナムへの介入を開始し、ベトナム戦争への端緒を作ることとなった。アジア・アフリカの紛争解決にあたる対ゲリラ特殊部隊であるグリーンベレーを創設し、発展途上国への平和部隊の派遣も行った。

ニューフロンティア政策

 国内では「ニューフロンティア」政策にもとづき貧困、差別の解消、教育問題・都市問題への取り組みを進めた。特になおも続いていた黒人差別にたいしてはその解消を目指し、「公民権運動」に取り組んだ。

公民権運動への対応

 第二次世界大戦後の世界経済の中で優位を占めたアメリカ経済は、豊かな社会の繁栄を謳歌するようになったが、その一方で黒人はもはや奴隷としては扱われなくはなっていたが、都区に南部諸州における黒人投票権の事実上の制限、「隔離はしても平等」なら差別ではない、という黒人分離政策とそれらを合法化した黒人取締法によって、憲法の下での市民としての権利(公民権)が奪われている状況だった。それに対して、1950年代から、黒人の中から抗議行動が始まり、次第に組織化され「公民権運動」として高まっていった。特にキング牧師は非暴力による黒人運動を指導し、白人からも認められる状況が生まれていた。
 ケネディは当初から黒人解放を主張したわけではないが、公民権運動の高揚と、それに対する白人人種主義者の暴力がエスカレートするなかで、黒人擁護へと明確に姿勢を変えていった。その葉池には、民主党が黒人票を支持基盤としていたことと、冷戦下にあって黒人差別が国際的に非難が高まることはアメリカにとって得策ではないという判断があったものと思われる。
 1963年8月28日、キング牧師らが指導した全国の黒人20万人によるワシントン大行進は、公民権運動のピークとなり、ケネディ政権に対して、公民権の即時成立を強く求めた。ケネディは議会に公民権法案を提出したが、議会保守派の抵抗は激しく、成立は困難な状況だった。
 そのようなケネディの姿勢は、清新な行動派の大統領のイメージで国民的人気を博したが、一方で保守層や軍内部からは警戒されるようになっていた。1963年11月、南部遊説中にダラスで暗殺され、その政策は副大統領から大統領に昇格したジョンソン政権に継承される。

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ケネディ暗殺

1963年11月、テキサス州ダラスで遊説中に狙撃された。実行犯は逮捕されたが、単独犯か組織的犯行かなど、未だに謎が多い。

 1963年11月22日、来年の大統領選挙を控え、選挙演説のためにテキサス州ダラスにを訪問したケネディ大統領は、自動車パレード中に狙撃され、死亡した。暗殺犯容疑者リー・ハーヴェイ・オズワルドがその日のうちに逮捕されたが、二日後にオズワルド自身が射殺されてしまった。最高裁首席判事ウォーレンを委員長とする調査委員会はオズワルドの単独犯行と結論を出したが、現在も陰謀説も含めさまざまな異論が出されている。
 陰謀説には、キューバ危機をめぐる反カストロ派、親カストロ派のいずれかの犯行説、人種問題をめぐる右派と左派のいずれかの陰謀説、ベトナム撤退を考えていた大統領を消した軍の犯行説、さらにFBIやCIA、副大統領ジョンソンの陰謀説までさまざまである。ケヴィン=コスナー主演の『JFK』も大胆な陰謀説を題材にしている。ケネディ一族では、弟のロバート(兄の政権で司法長官を務め、公民権法制定に活躍した)が、1968年、大統領選の民主党候補指名獲得運動中に暗殺されている。

Episode アメリカ大統領の暗殺

 ケネディの暗殺は、多くの人にリンカンの暗殺を思い起こさせた。リンカンは1860年に当選し、夫人同伴、衆人環視の劇場で殺され、副大統領A・ジョンソンが後を継いだ。ケネディは1960年に当選、やはり夫人同伴でパレード中に殺され、副大統領L・B・ジョンソンが大統領となった。それだけではない。最後にゼロのつく年に当選した大統領は、在任中に病死するか暗殺されている。さかのぼっていくと1940年当選のF=D=ローズヴェルト、1920年当選のハーディングはともに病死。1900年当選のマッキンリー、1880年当選のガーフィールドは暗殺されている。<猿谷要『物語アメリカの歴史』1991 中公新書 p.216>
 この奇妙な符合も、1980年当選のレーガンにはあてはまらなかった。2000年に当選したG.W.ブッシュ(子)は二期目を無事つとめた。なお、リンカン、ケネディ以外に在職中に暗殺された大統領には1881年のガーフィールドと1901年のマッキンリーがいる。ガーフィールドはスポイルズ=システム(猟官運動)で不満を持った男に執務室で銃撃され、マッキンリーはアナーキストに暗殺された。

Episode リンカン暗殺とケネディ暗殺の類似点

 リンカンとケネディの暗殺には、上記のように、0のつく年に就任したこと、暗殺されたとき夫人同伴だったこと、代わりに昇格した副大統領がジョンソンという苗字だったことなど不思議な附合があるが、それだけではない。リンカンはワシントンのフォード劇場で暗殺されたが、ケネディが暗殺されたときに乗っていた自動車はフォードだった、両方とも金曜日だった、二人ともフランス語を話す24歳の女性と結婚した、さらにリンカンがフォード劇場に行くのを止めようとした側近の名がケネディ、ケネディがダラスに遊説するのを止めようとした側近がリンカンとは、驚きである。<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.61>
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書籍案内

土田宏
『ケネディ-「神話」と実像』
2007 中公新書

土田宏
『アメリカの陰謀;ケネディ暗殺と「ウォーレン報告書」』
2023 最流社

オリバー・ストーン/ピーター・ワニック
熊谷玲美他訳
『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史2 ケネディと世界存亡の危機 Kindle版』
2013 早川書房
Aazon prime video

オリバー・ストーン監督
『JFK』
1992 アメリカ映画