キューバ
西インド諸島最大の島。コロンブスが到達以来、スペイン領となる。その植民地支配の砂糖とタバコのプランテーション経営のもとでインディオは減少、黒人奴隷が導入される。19世紀末に独立運動が活発化するとアメリカが介入、1902年に独立を達成したが事実上のアメリカによる支配が続いた。1959年、親米バチスタ政権がカストロの指導する革命で倒され、社会主義国となる。米ソ冷戦下の1962年にはキューバ危機が起こった。アメリカによる経済封鎖は2015年まで続き、同年のアメリカ大統領オバマの方針転換により国交を回復した。翌16年11月、カストロが死去した。
キューバ(1) スペインによる支配
キューバ GoogleMap
インディオの絶滅
16世紀の初め、キリスト教宣教師のラス=カサスは『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で次のように述べている。(引用)ある時、ある大きな村から、インディオたちは多くの食料や贈物を携えて、われわれを10レグワも先に出迎えてくれた。村へ着くと、インディオたちはたくさんの魚や食料、それに、彼らが差し出せるものはすべてわれわれに与えてくれた。ところが、突然、悪魔がキリスト教徒たちに乗り移り、彼らは私の目の前で、何ひとつしかるべき動機も原因もないまま、われわれの前に座っていた男女、子供合わせて総勢約3000人以上を短剣で突き刺した。その場で、私はかつて人が見たことも想像したこともないような残虐な行為を目撃したのである。・・・・この島に住んでいたインディオたちは、エスパニョーラ島のインディオたちと同じように、全員奴隷にされ、数々の災禍を蒙った。仲間たちがなす術なく死んだり、殺されたりするのを目にして、ほかのインディオたちは山へ逃げたり、絶望の余り自ら首をくくって命を絶ったりしはじめた。・・・島には、300人のインディオを分配された官吏がいたが、僅か3ヶ月のうちに、そのうち270人が鉱山労働で死んでしまい、生き残ったのは全体の10分の1に当たる30人にすぎなかった。・・・その後、キリスト教徒たちは山中に身をひそめたインディオたちを狩り出しにいくことになった。彼らは甚だしい害をインディオたちに加え、結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。われわれが最後にその島を見てから余り月日はたっていないが、荒れはててひっそりと静まりかえった島を見ると、非常に胸が痛み、深い同情の念がこみ上げてくるのである。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.40-44>ここで告発されているのは、スペインがラテンアメリカ植民地で当初に採用したエンコミエンダ制の実態であった。
砂糖とタバコ・黒人奴隷
スペインにとって植民地キューバは金の産地として重視されたが、金鉱が枯渇し、スペイン人の入植活動もメキシコやペルーなど大陸に移ったため、次第に衰退した。大陸での七年戦争とアメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争が連動して起こり、イギリスとフランスが争ったとき、スペインはフランスとともにイギリスと戦い、キューバはイギリス軍に占領されたが、フランス・スペインが敗れ、1763年の講和条約パリ条約で、スペインはフロリダをイギリスに割譲するかわりに、キューバは返還された。砂糖プランテーション キューバが植民地として重要性を持つようになったのは、18世紀末、隣のハイチで黒人反乱が起こりサトウキビ農園が破壊されたため、キューバの砂糖生産の需要が伸び、しかもアメリカ合衆国が独立(1783年、パリ条約で国際的に承認される)してその輸出国となったことによる。こうしてキューバはハイチに代わってサトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の産地として重要となり、現地生まれのスペイン人入植者(クリオーリョ)による大規模な砂糖プランテーションが経営されるようになった。
黒人奴隷の増加 砂糖プランテーションでは労働力として黒人奴隷が多数輸入されるようになった。19世紀に入ると、世界的な奴隷制度反対の声が起こり、イギリスでは1807年に奴隷貿易禁止法が成立し、1833年には奴隷制度の廃止が実現した。イギリスは他国の奴隷貿易も取り締まろうとしたが、スペイン領キューバへのアフリカからの奴隷供給は絶えなかった。ハイチなどでの砂糖生産がストップした分、キューバの砂糖への需要は高まり、19世紀中頃は世界の生産量の4分の1をしめるまでになっていた。またキューバはタバコの原産地の一つであったが、19世紀からその世界的需要の増加に伴い、葉巻の生産地として急成長した。これらの砂糖プランテーション、タバコプランテーションは依然として黒人奴隷労働によって支えられていた。
POINT キューバは、1804年に独立したハイチに代わって砂糖生産を増大させ、イギリス領西インド諸島で奴隷貿易が禁止された後の19世紀中頃に黒人奴隷労働による砂糖プランテーションの全盛期を迎えた。このズレをしっかり理解しておこう。
キューバ(2) キューバ独立
19世紀後半、白人プランターの中にスペインからの独立運動が始まる。カリブ海域進出を図るアメリカが介入、キューバの独立を支援して米西戦争によってスペインを排除し1902年に独立が実現した。しかしアメリカはキューバに対しプラット条項をおしつけて、実質的支配を行い、アメリカ資本が砂糖・果樹栽培などに投下されることとなった。
この時期キューバは、1845年にラテンアメリカで最初の鉄道が敷設され、大規模な砂糖プランテーションがひろい島の各地につくられた。世界的な砂糖供給地として急成長してブラジルを追い抜き、1854年には世界の砂糖生産の4分の1をしめるまでになった。このような状況を背景に、スペイン人プランター(大農園主)の中に本国からの独立の動きが出始めた。1860年代から激しい独立運動が開始され、二次にわたって高揚したが、その頃急速に帝国主義段階に達して海外市場獲得に乗り出していたアメリカ合衆国が地の利を生かしてさかんに介入するようになった。
第一次独立戦争
砂糖プランテーション経営者のクリオーリョたちは本国スペインからの独立をめざし、まず1868年10月に武装蜂起した。その中心になったのは、島の東部のプランテーション経営者であったセスペデスで、その時出された独立宣言では漸進的かつ補償付きで奴隷制を廃止するとの項目が入っていた。この時点ではキューバの総人口は約140万、そのうち白人が76万3千人、黒人奴隷が36万3千人、解放奴隷が23万9千人、それに中国人の年季契約移民が3万4千人という構成であった。クリオーリョの間で奴隷制の継続か廃止かをめぐって意見が分かれ、島西部のプランターが反対したため分裂し、1878年に叛乱は鎮圧され、独立を達成することはできなかった。しかし、この戦争に多くの奴隷や解放奴隷が参加したことから、スペインも1886年10月にキューバの奴隷制を完全に廃止することに合意した。砂糖モノカルチャー化の進行
1886年のキューバでの黒人奴隷制廃止は、北アメリカ・カリブ海域では最も遅かったが、その後は周辺諸島や中国、インドからの出稼ぎ労働者が増加し、キューバ人の人種的混淆がさらに進んだ。また、サトウキビ畑は島全体に広がり、穀物その他の農産物が栽培されなくなったため食料は輸入に依存するようになった。またサトウキビ畑の労働は、収穫期の4~5ヶ月に限定され、それ以外の半年以上は無収入となるため、農業労働者の貧困ははなはだしかった。そのような農業労働者の犠牲の上に生み出されたキューバの安価な砂糖は、世界市場の四分の一をしめるまでになったが、「砂糖モノカルチャー」はアメリカ資本と、それに結びついた一部の富裕層に利益を独占され、多くの労働者が貧困にあえぐ構造が出来上がった。第二次独立戦争
ハバナ 中央公園のホセ=マルティ像
ホセ=マルティの評価 カリブ海域の歴史を明らかにしたトリニダードトバゴの歴史家エリック=ウィリアムズは、ホセ=マルティに高い評価を与え、暗黒であった19世紀のカリブ海の歴史の中で一筋の光明だったとしている。
(引用)キューバがマルティの如き、哲学をもった政治家を生み出したという事実は、彼を助けたニグロの将軍アントニオ・マセオの出現と相俟って、カリブ海地方の将来を雄弁に物語っていた。マルティは西半球の歴史では、ワシントン、ジェファソン、ボリーバルと並ぶ四大偉人のひとりであり、ラス=カサスとともに、スペイン文明がカリブ海地方と世界に与えた最高の贈り物のひとつでもあった。
マルティにとっては、キューバの至上の課題は独立であった。キューバがニグロの奴隷制を基盤にしている限り、独立はない。マルティにとって奴隷解放とは、政治的要請というより道徳的要請であった。(中略)マルティは「人種間の憎悪など存在するはずがない。そもそも人種などというものはないのだから」と考えていたのである。彼の哲学によれば、「姿、形や皮膚の色こそ違え、それぞれの肉体から発する魂は平等かつ永遠で」あった。人が特定の人種に属しているというだけで、特権を与えられるべきでない。人間のあらゆる権利はただ一言で表現することができる。すなわち、彼は『人間だ』、と言えば充分なのである。……<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで(Ⅱ)』1970 岩波現代新書 2014 p.206-207>
アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)
キューバで独立戦争が始まった事に強い関心を抱いたアメリカのマッキンリー大統領は介入の機会を探っていた。そこに1898年2月にハバナ港でアメリカ軍艦メイン号が爆破されるというメイン号事件が起こった。アメリカ合衆国国内でスペインに対する非難がわき上がり、それをきっかけに1898年4月、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が起こった。アメリカ軍は4ヶ月でスペイン軍を駆逐し、講和条約であるパリ条約によりによってスペインはキューバの独立を認めた。独立と引き換えにプラット条項認めさせられる
しかしアメリカはキューバを文明化するという口実で1899年から軍事占領し、衛生・教育・交通などの整備を行って資本投資の基盤を造り、経済的な関係を強めた。マッキンリー大統領はカリブ海政策を進め、1901年3月、キューバに強要して憲法の中にプラット条項(プラット修正)を加えさせることを議会で可決し、1901年6月、キューバ制憲議会にそれを認めさせ、事実上アメリカの保護国とした上で、1902年5月にキューバの独立を認めた。プラット条項ではアメリカ政府のキューバに対する介入する権利と、アメリカ海軍の基地に必要な土地を売却または貸与することを規定していた。それにもとづいて1903年に締結された互恵通商条約で、キューバ島にグアンタナモ基地が設けられ、現在も存続している。プラット修正では、前文で米西戦争の結果としてスペインのキューバからの完全撤退を確認し、一項ではアメリカ以外の列強と独立を損なうような条約の締結を禁止し、三項でキューバは独立維持のためにアメリカの介入を認めるとともに、外国の介入を禁止し、七項でキューバはアメリカへの基地提供を約束した。
プラット修正は1903年5月に恒久条約となり、それに先立つ同年2月23日には海軍・軍事基地貸与条約が締結され、グアンタナモとバイーア・オンダの二か所に基地が建設されることとなったが、1912年にはグァンタナモ一か所に集約された。
POINT ホセ=マルティらのキューバ独立が挫折した後、アメリカはキューバ独立支援を口実にスペインに対して、1898年、米西戦争をしかけ、それに圧勝することでスペインをカリブ海域から追い出した。1901年にキューバにプラット条項を認めさせて、キューバは事実上アメリカの保護国として独立が認められた。これはマッキンリー大統領で着手され、セオドア=ローズヴェルト大統領の棍棒外交といわれるカリブ海政策に引き継がれた、アメリカ帝国主義の典型である。
独裁政権下の対米従属と腐敗
キューバは米西戦争の結果、1902年にキューバ共和国として独立したが、アメリカ資本の支配する砂糖のモノカルチャーに依存する度合いが強まった。1924年以来、マチャド将軍が大統領の独裁政治のもとで汚職、暴力的支配、ネポティズム(縁故政治)が続き、さらに政治と経済のアメリカ従属が強まっていった。砂糖やフルーツをアメリカ資本に独占されていたキューバでは1930年代の世界恐慌で大打撃を受けた。プラット条項の破棄1933年に民族主義を掲げてた学生や市民のストライキが起こってマチャド政権が倒れ、替わったグラウ政権がプラット条項を含む憲法を破棄すると、アメリカは圧力をかけ、軍部のバティスタを動かして親米政権を樹立させた。善隣外交を掲げるフランクリン=ローズヴェルトは翌1934年にプラット条項の破棄を承認する条約を締結し、バティスタ政権を守った。しかし、グァンタナモ基地に関する条項は維持され、基地は残ることとなった。
キューバ(3) キューバ革命
親米バティスタ政権が1959年、カストロらによって倒され、社会主義政権成立、キューバ革命が始まる。アメリカはキューバ産の砂糖輸入禁止に踏みきりって関係が悪化、1962年に米ソの核戦争勃発の危機となった。危機は回避されたが、アメリカの経済制裁が続く中、カストロ政権は存続した。
バティスタ独裁政権
バティスタ政権は1940年代も続き、長期政権は独裁化し、アメリカ資本と結びついて利益を独占し、国民生活が犠牲となっていった。そのような、アメリカ資本に従属したバティスタ独裁政治に対する不満は次第に強まり、1954年からカストロの率いる反バティスタ政権のゲリラ活動が始まった。カストロのキューバ革命
1959年1月1日にバティスタが国外に逃亡、カストロに指導されたキューバ革命が始まった。カストロは、民族主義と社会正義の実現をかかげて武装蜂起を指導したのであって、必ずしも社会主義を掲げていたわけではなかったが、弟のラウル=カストロや、アルゼンチン出身のゲバラら社会主義者の影響が強まり、次第に路線を転換させていった。アメリカとの国交断絶 アメリカも当初は、キューバの独裁政権が倒されたことを歓迎したが、カストロ政権がアメリカ資本の砂糖精製工場やサトウキビ農園を接収して国有化したことを受け、その社会主義化を警戒し、米州機構から除名した。ついに両国は1961年1月3日に国交断絶、対立は決定的となった。
社会主義革命宣言 さらに1961年1月20日にケネディ大統領が就任したアメリカは、4月には中央情報局(CIA)が亡命キューバ人を扇動してキューバに上陸させ、反革命軍事行動をとらせたが、失敗した(ピッグズ湾事件)。カストロは1961年5月1日、アメリカの介入に反発して、反アメリカの姿勢を明確にして社会主義革命であることをかかげ社会主義宣言を行った。アメリカははラテンアメリカの米州機構加盟国に進歩のための同盟と称する経済援助を強め、キューバ孤立化を図った。
キューバ危機
キューバ革命の成功によって、ラテンアメリカ最初の社会主義国家を出現したことは、アメリカにとってそののどにナイフを突きつけられたような恐怖感を抱かせた。アメリカのケネディ政権は革命転覆をねらったが失敗し、砂糖の輸入と石油の輸出を停止してキューバ経済に対する締め付けを強化した。それに対してカストロは、ソ連への傾斜を強め、またソ連のフルシチョフはアメリカののど元を抑えるための絶好の機会ととらえた。両者の利害が一致して、ソ連は秘密裏にキューバでのミサイル基地建設を開始した。アメリカは偵察機によってソ連のミサイルがキューバに配備されたことを知り、海上封鎖を実行してソ連にその撤去を迫った。それが1962年10月22日のキューバ危機である。この危機は一応回避されたが、その後もアメリカによる経済封鎖は続き、キューバの砂糖の対米輸出が止まったため、その経済は大きな打撃を受けたが、カストロの強力な指導力のもとに現在まで社会主義体制を維持している。
Episode ヘミングウェーとキューバ
20世紀アメリカの人気作家、アーネスト=ヘミングウェーはスペイン内戦を新聞記者として取材し、幾つかの作品を書いた。その後、1939年にキューバに渡り20年ほど首都ハバナで暮らした。『老人と海』を書いた彼の別荘は郊外の高台にあり、今はヘミングウェー博物館として公開されている。(引用)文豪には、「別の顔」があった。第二次世界大戦中、米国のためスパイ活動をしていたのである。駐キューバ米国大使館と協力して「クルック・ファクトリー(ならず者工場)」という名のスパイ団を組織し、ナチスドイツのスパイを探した。かと思えば、愛艇「ピラール号」に、バズーカ砲を積み込んだ。漁とみせかけ、ナチスの潜水艦などが近づくと攻撃するためだった。アメリカのヘミングウェー研究者は「ソ連のイデオロギーに賛成したのではなく、反ファシズムのための協力」だったと見ており、スパイとしての成果はゼロだったという。
さらに近年になって、ソ連の情報機関NKVD(KGBの前身)にも協力していたことが、元KGB幹部の暴露でわかった。文豪のコードネーム(暗号名)は「アルゴ」だった。<朝日新聞 2015.4.18 風欄 アメリカ総局長山脇岳志氏の署名記事>
ヘミングウェーは、カストロらがキューバ革命を達成した翌年の1960年、ハバナを去った。なぜ離れたかは、米中央情報局(CIA)の元幹部は社会主義政権によって資産を国有化されることを恐れたから、と言っているが、ハバナのヘミングウェー博物館館長のアダ・ローサさんは「彼はキューバ革命に好感を持っていた。出版前の草稿も残したままだった。再び戻ってくるつもりだったのは間違いない」と反論している。躁鬱にも苦しんだ文豪は翌年、自ら命を絶つ。愛する二つの国(アメリカとキューバ)が敵同士になることで、彼の人生をさらに難しくしたのは確かだろう。<朝日新聞 同上記事による>
キューバ(4) 現代のキューバ
1959年にキューバ革命を成功させ、権力を掌握したカストロは1962年のキューバ危機を乗り切り、アメリカの経済封鎖という中で社会主義国家建設を進めた。独自の社会主義路線が順調に進む中、1989年の冷戦終結はキューバにも転換の気運をもたらし、2015年、アメリカとの国交を回復した。
カストロの長期政権
キューバの国旗
1976年から国家評議会議長(国家元首)となったカストロは、第三世界のリーダーとして非同盟諸国首脳会議を主催するなど、反米姿勢を弛めなかった。対するアメリカはレーガン政権が1982年にキューバを「テロ支援国家」と指定して対決姿勢を強めた。
1989年の冷戦終結後、キューバ=アメリカ関係に変化の兆しが現れ、クリントン政権下で経済制裁の一部解除などがなされたが、ブッシュ政権はキューバを「テロ支援国家」として関係改善に否定的な姿勢に戻った。
その間、長期政権を維持していたフィデル=カストロは高齢化が進み、2008年に国家評議会議長を退き、弟のラウル=カストロが就任した。ラウル=カストロは社会主義を堅持しながら、部分的な市場経済の導入に踏み切るなど、体制転換の兆しが現れた。
NewS アメリカ・キューバの国交回復
アメリカ大統領オバマ民主党政権は、キューバとの関係改善を外交方針のひとつに掲げた。その背景にはアメリカの若い世代に、キューバに対する敵対心が既に無いこと、経済的関係の回復を期待する声が強まっていることがあった。カナダを介して水面下の交渉を進め、2015年4月にパナマで開催された米州首脳会議でオバマとラウル=カストロの会談が実現、両国の関係改善は一気に進んだ。この「キューバの雪どけ」には、仲介にカナダと共にローマ教皇フランシスコが働いたと言われている。アメリカ合衆国オバマ政権は2015年4月に「テロ支援国家」指定を解除し、2015年7月20日には両国が大使館を設置し、1961年から54年ぶりに両国は国交を回復した。そして翌16年3月にオバマはキューバを訪問した。フィデル=カストロはアメリカとの国交回復を見きわめた形で、同年11月25日に90歳で死去した。
両国間の不安定要素 しかし、同年末にアメリカ大統領に当選したドナルド=トランプは、キューバとの国交回復には強い疑念を抱いているとして、その見直しを表明している。アメリカ側には、キューバの社会主義体制を人権抑圧と見て非難する勢力が強く、亡命キューバ人も高齢化が進んだとはいえ、依然として反カストロ政権のロビー活動を続けている。また、キューバが強く求めているグアンタナモ基地撤去もまだ実現していない。両国間には不安定要素がいくつか存在しており、今後も目をはなすことはできない。
NewS カストロ時代の終幕
2021年4月19日、キューバで5年に一度の開かれる共産党大会で、兄フィデル=カストロの後を継いだラウル=カストロ(89歳)が党トップの第一書記を退いた。これによって1959年のキューバ革命から始まった「カストロのキューバ」は終幕を迎えた。すでに兄フィデルは2016年11月に死去し、世代交代を見据えて2019年に憲法が改正されて大統領が新設され、カストロ一族とは血縁のないディアスカネル氏が就任しているが、ラウル=カストロは国家評議会議長は退いたものの、第一書記の地位にはとどまっていた。その地位も去ることとなり、ディアスカネル大統領が「カストロ兄弟なきキューバ」を束ねることになるが、その前途は多難が予想される。新型コロナウィルスのため、頼りの観光収入が激減、物資不足も深刻で、求心力を失った政府への不満が爆発しかねないという。<朝日新聞 2021/4/14 国際面ほか>