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第2次5ヶ年計画(中国)

1958~62年、毛沢東指導下の中国で進められた、工業化・農村集団化を柱とした「大躍進」計画。急速な工業化、集団化はひずみを大きくし、自然災害も重なって大飢饉を誘発した。

第2次五ヶ年計画

鉄鋼の増産を目指すパレード

 1958年5月から62年にかけての中華人民共和国の社会主義建設の第二段階。毛沢東の主導権の下、第1次五ヵ年計画を継承して工業化と農村の集団化を進め、特に「大躍進」・「総路線」・「人民公社」を「三面紅旗(三本の赤旗)」として掲げられた。工業化では中国独自の方法による鉄鋼などの生産の増強(土法高炉の導入)、農村の集団化では人民公社化がかかげられた。

背景と問題

 その背景には、中ソ対立の開始に伴うソ連技術者の引揚げにより、重工業化を自力で進めなければならないことがあった。そのため質の悪い鉄鋼が大量に生産され、かえって工業生産力を阻害してしまった。また人民公社化は完全な集団化による社会主義社会の実現を目指したものであったが、その急速な集団化は農民生活を破壊し、生産意欲をそぐこととなり、あわせて未曾有の自然災害に見舞われたため、この年の穀物生産量は激減し、工業生産も停滞した。この点は第1次五ヵ年計画を継承・発展させると言いながら、実際には中国式計画経済であり、第1次と異なる性格が強かった。

土法高炉の失敗

土法高炉1
土法高炉2

土法高炉

 「大躍進」運動で進められた鉄鋼の増産は、人民が自らの手で溶鉱炉を作り鉄を増産させようというものがあった。それは「土法高炉」といわれた簡便な小規模溶鉱炉による製鉄であった。その実際はどのようなものだったのだろうか。
(引用)1958年7月段階で全国3万ヶ所の町や村、工場、軍の駐屯地、学校などに煉瓦を積んで造られた簡便な溶鉱炉は、共産党のキャンペーンによって9月末までに全国60万ヶ所に広がった。こうした溶鉱炉のほとんどは、これまで製鉄業とはまったく縁のなかった人々が、見よう見まねで煉瓦を積み上げて造ったり、瓦や陶器を焼いていた釜を改造しただけといったものであり、容積1立方メートル程度の炉が大半を占めた。原料炭が確保できない場合は木炭を使い、鉄鉱石が不足すると、不要になった鍋や釜をいつぶすことも行われた。<久保亨『社会主義への挑戦』シリーズ中国近現代史④ 2011 岩波新書 p.109>
 また、この簡便な溶鉱炉(土法高炉)による鉄の増産はどのような結果だったのだろうか。
(引用)結末は惨めなものであった。簡便な製鉄法による鉄は低品質で役に立たなかった。1959年8月に周恩来が報告したところによれば、1958年に製造されたとされる銑鉄1369万トンのうち、416万トンは簡便な製鉄法によるものであり、硫黄分などが多く混じり機械工場などに必要な強度に欠けていた。その分、実質的な生産量は少なかったというだけではなく、膨大な量の資源と労働力が浪費されたという打撃も大きい。一方では簡便な製鉄法で原料が浪費され、他方では鞍山や武漢などの近代的な大製鉄所が原料不足で操業を続けられなくなるという事態も生じていた。<久保亨『同上書』 p.1114>

毛沢東の退任と巻き返し

 土法高炉の失敗だけでなく、人民公社も急速に進められた結果、農民の生産意欲を低下させ、一気に収穫量が低下した。その失敗が明らかになったため、責任をとって1958年末には毛沢東は国家主席退任の意向を固め、翌1959年4月の第2期全人代第1回会議で劉少奇に交代した。
 しかし、1960年の前後は干魃などの天候不順という自然災害が重なり、生産減少が続いたため、全国的な食糧不足が生じ、多くの人が餓死するという大飢饉となった。生産増強を迫られた劉少奇らは、調整政策という自営地の復活や生産請負制を導入することによって農民の労働意欲を引き出し、徐々に収穫を戻していった。この動きに対し、毛沢東は土地公有制や計画経済と言った社会主義の原則からはずれ、資本主義復活の路線を歩むものとの警戒心を強くしていった。それが劉少奇批判を頂点とした奪権闘争ともなって行き、1966年のプロレタリア文化大革命の発動へと向かっていく要因となった。
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書籍案内

久保亨
『社会主義への挑戦』
シリーズ中国近現代史④
2011 岩波新書