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劉少奇

国共内戦、日中戦争の時期からの中国共産党指導者の一人。中華人民共和国建国では人民政府副主席となり、1959年に毛沢東の後を受けて国家主席となった。毛沢東主導の大躍進運動失敗後の中国経済の立て直しを図ったが、文化大革命で毛沢東によって走資派・実権派として批判され、紅衛兵の激しい追及を受け、1968年、その地位を追われ軟禁状態のまま、翌年に事実上、獄死した。1980年に名誉が回復された。

 1898年、周恩来と同年の生まれで中国共産党創設期からの指導者の一人。湖南省寧郷の人。モスクワ東方大学で学びながら、社会主義青年団に加入、1921年に創設された中国共産党に入党した。翌年帰国し、労働運動を指導し、各地でストライキを組織した。

労働組合運動の指導

 1922年に江西省萍(ひょう)郷の安源路鉱で起こったストライキを指導した。安源路鉱とは、清末に設けられた漢冶萍公司(日本が二十一カ条の要求でに中合弁とするこをと要求した)の一つの安源炭鉱と湖南省株州(チューチョウ)を結ぶ鉄道で、ドイツと日本の資本で経営されていたが、中国人労働者に対する低賃金・長時間が劣悪だったことから、ストライキとなり、中国共産党は李立三・劉少奇らを派遣して指導にあたり、労働条件改善・賃上げに成功した。これは同年、初めにあった香港の海員ストライキと並んで中国労働運動の最初の勝利と言われ、また中国共産党が労働組合運動とむすびついて中国社会の変革に加わる契機となった。
 1924年に第1次国共合作が成立、劉少奇は上海の労働組合運動を指導した。1925年に上海での日本、イギリス、フランスなどの租界守備隊による中国人労働者殺害から端を発した五・三〇運動は、労働組合が反帝国主義運動の中心となった。
 1926年、武漢政府が成立すると、劉少奇も武漢を中心に労働組合運動の指導に当たった。しかしこの頃になると政治・経済の混乱から民衆運動は過激になり、共産党のコントロールが及ばなくなり、右派は労働運動や民衆運動の行き過ぎを非難するようになった。蔣介石の北伐が始まると、劉少奇は上海でゼネストを成功させたが1927年4月12日、蔣介石の上海クーデタによって共産党は排除され、5月には武漢政府でも国民党と共産党は分裂し、国共合作は崩壊した。

毛沢東を支える

 劉少奇はソ連に渡り、モスクワでソ連共産党の下で活動した後、帰国後の1932年に中国共産党政治局員となった。1932年からの長征の過程で、中国共産党の基本方針と主導権をめぐって対立が生じると、1935年1月の遵義会議毛沢東を支持してから、その有力な同志となった。
 その後、劉少奇は毛沢東の党指導を支えて活躍、「毛沢東思想」を提唱した。日中戦争での日本軍との戦いは1945年8月に終わり、中国は再び国共内戦(第2次)となった。内戦を毛沢東、周恩来、朱徳などとともに勝利に導いた劉少奇は、1949年10月の中華人民共和国の建国時には中華人民共和国政府副主席のポストについた。1950年6月に土地改革法が公布され、中国全土での地主制度の一掃と農民への土地分配が開始されると中央の土地改革委員会の責任者として、建国直後の中国にとって、朝鮮戦争への参戦とともに最も困難な事業であった国内事業に立ちむかい、短期間のうちに成し遂げて農村生産力を高めるとともに、人民共和国の基盤の安定につくした。

共産党ナンバー2に

 中国共産党は毛沢東の絶対的な権威による指導が続いていたが、1953年~56年ごろは国内では劉少奇などが第1次五カ年計画によってソ連型の重工業育成と農村共同化が進められ、外交面では周恩来によるAA諸国や非同盟諸国との連携が推進され、着実な発展を遂げているかに見えたが、それを激しく揺さぶる動きが、1953年のスターリンの死去に続く、1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判であった。同年9月の中共第8回全国大会では、劉少奇は政治報告を行い、ソ連型の社会主義建設を進めることを提起し、毛沢東の後継者と目され共産党ナンバー2の地位についた。しかし、毛沢東はフルシチョフによるソ連の転換には疑問を強く抱き、次第に両者の間にずれが生じていった。
 中国共産党・毛沢東が国家指導上、スターリン批判を受けて激しく動揺したことは、57年の「百花斉放・百家争鳴」の提唱と、それが一転して「反右派闘争」に傾くという混乱に現れている。

大躍進運動失敗後、国家主席就任

毛沢東・劉少奇

毛沢東と劉少奇
1959 第1回国民体育大会

 1959年に、毛沢東は「大躍進」運動を提起し、ソ連に依存しない中国独自の社会主義化を目指すとして、独自工法による鉄鋼の生産への取り組みと、人民公社を設立して農村の集団化を進めようとした。しかし、実情のあわない工業化と急速な集団化は生産を停滞させ、その誤りが明確になったため、1959年4月、毛沢東が国家主席を辞任し、代わって劉少奇が就任した。
 1959年から61年にかけて天候不順もあり、中国は大飢饉に見舞われ、多数の犠牲者が出た。劉少奇は鄧小平らの共産党の実務官僚とともに、大躍進運動失敗後の経済の再建に取り組んだ。1962年の1月には中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)を召集し、大躍進政策の誤りを認め、工業の近代化の必要と、人民公社への一定の自己経営の導入などを柱とする経済政策、いわゆる調整政策に着手した。これは生産力の回復を目指すものであったが、早急な社会主義化を進めてきた毛沢東路線の修正を図るものであったので、毛沢東はそれが資本主義の部分的復活をめざし、ブルジョワジーとの階級闘争を否定して社会主義建設を放棄することにつながると意識され、強い危機感を抱いた。 → 中華人民共和国

文化大革命

 1966年、毛沢東は失地回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。1965年に文芸活動での反革命的な動きの摘発から開始されたプロレタリア文化大革命は、1966年8月1日に明確な共産党の方針として採択されて頂点に達した。毛沢東は文化大革命に、階級闘争と社会主義への道を堅持し、資本主義への道をめざす修正主義・ブルジョワ路線と対決するなどの意義づけを行っていたが、その狙いの重要な部分は、国家主席劉少奇から権力を奪還する、奪権闘争という側面が強かった。そしてその奪権はよくあるクーデタのような単純な武力によるものではなく、紅衛兵に代表される広範な大衆運動を盛り上げ、社会全体を巻き込むことによって、次第にその標的を劉少奇に搾っていくという特異な経過を取った。劉少奇はその結果、資本主義への復活を策す走資派、官僚組織を牛耳る実権派の代表格であるとして毛沢東による批判に晒され、その最も大きな犠牲となって命を落とした。そして劉少奇及びその協力者鄧小平が打倒された後も、軍を背景に毛沢東から権力を奪取しようとした林彪や、イデオロギー闘争という面を強調する四人組など、特異なキャラクターも登場して混迷し、1976年の毛沢東の死去により実質的に終末迎えた。抽象記は、その後の鄧小平が復権した時代の1980年に名誉を回復、さらに1981年に中国共産党は文化大革命を歴史的に間違っていたとして総括し、過去のものとなった。

毛沢東による奪権の回路

 毛沢東と雖も、現役の国家主席という国家の元首、最高の地位にある劉少奇を引きずり下ろすのは容易なことではなく、正面からは困難であった。ましてや党の草創期からの功績者であり、長く毛沢東の協力者であった人物であり、そのもとには鄧小平をはじめとする党の実務官僚がいる。毛沢東はどのような回路を使ってそのような劉少奇に対し、奪権の火を着火したのだろうか。それが、文化革命という、一見廻り道に見えるような回路だった。
 1965年、まず『海瑞免官』という演劇をヤリ玉に挙げ、演劇や文学での階級闘争を否定する風潮を反革命として非難し、その枠を歴史学や法学、経済学などの「学術」に拡げていった。1966年5月、毛沢東はプロレタリア文化大革命を発令したが、このときはまだ劉少奇が攻撃目標であることは明かしていない。つまりこの段階では文革とは文字どおり文化・学術面での引き締め、ぐらいのものとほとんどの党員が受けとっていた。劉少奇もそれに協力しようという姿勢であり、まさか自分に矛先が向かってくるとは思っていなかったであろう。
 まず、毛沢東の意を受けて動いた江青、張春橋、陳伯達、康生ら文革小組のメンバーが、北京大学や清華大学の学生に対し、文化革命を呼びかけ、それに呼応して学生が大学当局や学内の党委員会に対する批判を開始した。それが暴力沙汰になってゆき、全国の大学に広がったので、党中央は沈静化を図る必要を感じ、工作組を編成して大学に派遣し運動を抑えようとした。各大学に工作組が派遣され、その中の清華大学にはなんと劉少奇の妻である王光美が責任者として乗り込んだのだった。まさにおびき出されるように王光美は清華大学で学生弾圧に着手し、積極的に学生を取り締まり、約700人を拘束した。学生弾圧の矢面に立った王光美は学生の怨嗟も的となっていった。
 工作組派遣については劉少奇は一応、毛沢東の許可を得ようとし、当時杭州の別荘に行っていた毛沢東を訪ねたところ、毛は好きなようにやれ、という返事だったという。許可を得たと理解した劉少奇は工作組派遣を決定し、わざわざ妻を最も難しそうな清華大学に派遣したのだった。清華大学には蒯大富(カイダイフ)という化学科の3年生でバリバリの活動家が控えていた。彼は先頭に立って「工作組をたたき出せ!」と叫んで抵抗した。王光美は工作組を支持する学生を集めてデモを指示、蒯大富を反革命と認定した。劉少奇も7月3日に蒯大富をブルジョワ反動分子として攻撃せよと命じ、王光美は直接指揮して糾弾した。文革小組の陳伯達、康生が劉少奇に抗議したが、劉少奇は激しく反論したという。
 ところがそのようなとき、7月18日、毛沢東が別荘の杭州から北京に戻ると(その途中、長江で遊泳し健在ぶりをアピールした)、一転して学生は文化革命を推進しているのであり、それを弾圧した工作組派遣は、昔の国民党がやった学生弾圧よりも悪い、と言い出した。これによって学生側は勢いを取り戻し、各大学で工作組は追い出されてしまった。勢い付いた学生側は、7月29日北京の工人体育館に集まった各大学代表は劉少奇、鄧小平、周恩来の出席を要求、反省を迫った。学生大衆を前に、劉少奇は工作組派遣は誤りであったと自己批判せざるを得なかった。集会の終わりごろ、毛沢東が登場し、学生たちはまさに救世主が現れたとばかりに万歳を繰り返した。これで毛沢東が劉少奇を攻撃していることがようやくはっきりと印象づけられたのだった。

自己批判、強制される。

 1966年5月、清華大学附属中学で生まれた紅衛兵は、各地の大学、学生に広がり、彼らは毛沢東から「造反有理」のことばを与えられ、劉少奇・鄧小平らを頂点とした実務派党官僚を実権派・走資派として批判するだけでなく、古い文化伝統や仏教、儒教などの文化財を破壊し始めた。1966年8月8日に中国共産党は16条の「プロレタリア文化大革命に関する決定」を決定、明確に階級闘争と社会主義に反対し資本主義の道を歩む勢力との闘争という定義を行い、毛沢東は劉少奇の名は上げなかったもの「司令部を砲撃せよ!」ということばで、国家主席劉少奇に対する奪権闘争であることを明確にした。この会議で劉少奇は党内序列を毛沢東に次ぐ第2位から一気に8位に後退し、かわって林彪が第2位に上った。
 紅衛兵ら造反派による実権派、走資派に対するつるし上げる運動は日ましに強くなり、1966年10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされた。それは大躍進を1962年に総括したとき、それを失敗と断定し、人民公社を後退させた調整政策は誤りだったと認め、プロレタリア革命闘争が唯一正しい道であるという毛沢東・林彪の路線に全面的に従うという表明だった。66年末から67年1月にかけて江青や陳伯達は文革小組のメンバーながら劉少奇に忠実な陶鋳を、文化革命の理念を理解していないとして批判して辞任に追いこみ、劉少奇の孤立化を図った。
 文革の嵐が最高潮となるなか、1967年1月13日深夜、劉少奇は毛沢東に面会を求め、辞任を申し出て田舎に引退したいと申し入れたが、毛沢東はそれを認めなかった。2月には紅衛兵らの活動を行き過ぎだ、と憤った党古参の元老たち、陳毅、葉剣英、徐向前、譚震林らが声を上げ「二月逆流」が起こったが、毛沢東・林彪・江青らはそれを「反革命の陰謀」として大衆を動員し押さえ込んだ。その頃から国民のなかの劉少奇を国家主席として尊崇する気分を一掃するように、さまざまな個人的中傷が本人および家族に加えられていった。<このあたりの様子は厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.131-157 に詳しい。>

国家主席の尊厳はどこに

 1967年4月1日には『人民日報』は初めて名指しで劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、個人攻撃が激しくなった。4月10日には夫人の王光美が清華大学の紅衛兵によって批判集会に引き出され、激しく追求された(「ネックレス事件、下掲」)。その後も中南海で事実上軟禁されている劉少奇の居所には連日のように紅衛兵のデモ隊が押しかけ、「劉少奇打倒!」のシュプレヒコールが繰り返され、糾弾が続いた。8月5日は天安門広場で百万人を集めて劉少奇・鄧小平・陶鋳らを非難する集会が行われ、併せて北京の要人居住区である中南海で家族に対するつるし上げが行われた。
(引用)劉少奇のつるし上げには三人の子どもも出席を命じられた。両親が悲惨な虐待をうけるのをみて、いちばん下の六歳になる小小(シャオシャオ)は、恐ろしさのあまり、大声で泣き叫び、はいながら逃げだそうとした。しかし退場は許されなかった。この日、監禁されている執務室にもどった劉少奇は、自分につけられている秘書をよび、『中華人民共和国憲法』をとりだして抗議した。
 「私は中華人民共和国の主席だ。私個人はどんなめにあってもかまわん。だが、国家主席の尊厳は守らなければならん……」
 それから毛沢東にあてて、辞表をしたため、反党・反社会主義のレッテルに抗議した。「私は自由を失っております」と書いた。<竹内実『毛沢東』1989 岩波新書 p.168>
永久除名処分から死去まで  劉少奇は家族とも引き離され、一人だけの監禁状態のなかで満足な食事も与えられずに衰弱していった。高熱を出し意識が朦朧としても十分な医療は施されなかった。1968年10月、毛沢東が召集した共産党8期12中全会は文化大革命の中間総括を行い、毛主席・林彪副主席の指導には誤りはなかったと確認し、「党、政府、軍の簒奪を企てた劉少奇を代表とするブルジョワ司令部とその各地の代理人をついにたたきつぶし、彼らに奪われた権力を奪回した」ことが承認された。劉少奇に対する処分は全体会議で「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」と党内外の一切の職務の解任が決定した(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。
 11月24日、その日は70歳の誕生日であったが、党の決定が劉少奇に告げられると、かれは全身を震わせて嘔吐し、血圧はいっきに260/130に跳ね上がり、40度の高熱を発した。その後も虐待が続いて衰弱し、1969年10月、裸のまま担架に乗せられ、鼻にゴム管、喉に呼吸器、点滴を受けたまま飛行機で開封に護送され、11月12日に死去した。遺体は極秘のまま火葬にされた。

Episode 「ネックレス事件」で糾弾された劉少奇夫人

王光美

糾弾される劉少奇夫人の王光美

 文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。国家主席である劉少奇に対しても容赦ない糾弾が行われ、70歳近い老人であったが激しい暴力が加えられた。また夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.141-143>

名誉回復への道のり

 こうして毛沢東の奪権闘争は勝利し、劉少奇は国家主席から引きずり下ろされて、秘かに葬り去られた。劉少奇に代わって毛沢東に次ぐ地位を獲得した林彪は、奪権に失敗して林彪事件で自ら命を落として潰えた。毛沢東にとっては、第二の権力闘争に勝利したと言えるのだろう。しかし、いよいよ江青以下の四人組が表舞台に登場し、周恩来・鄧小平など党官僚との第三の権力闘争へと移っていく。これらの果てしなく続くかと思われた権力闘争は、毛沢東の死によって四人組が倒されたことでいったん収まることとなる。その後の華国鋒から鄧小平への権力移譲は劇的なエピソードはなく、徐々に行われた。ようやく鄧小平のもとで文化大革命を否定する歴史判断が確定し、文革中に反革命として断罪された多くの人びとが復権し、名誉を回復することとなった。劉少奇も1980年に夫人とともに名誉回復の措置が取られ、5月17日、追悼集会が開催された。

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書籍案内

厳家祺ら
『文化大革命十年史(上)』
1996 岩波現代文庫

竹内実
『毛沢東』
1989 岩波新書