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劉少奇

中国共産党指導者。1959年に毛沢東の後を受けて国家主席となった。中国経済の立て直しを図ったが、毛沢東に走資派として批判され、文化大革命で逮捕されて獄死した。

 1898年、周恩来と同年の生まれで中国共産党創設期からの指導者の一人。湖南省寧郷の人。モスクワ東方大学で学びながら、社会主義青年団に加入、1921年に創設された中国共産党に入党した。翌年帰国し、労働運動を指導し、各地でストライキを組織した。

労働組合運動の指導

 1922年に江西省萍(ひょう)郷の安源路鉱で起こったストライキを指導した。安源路鉱とは、清末に設けられた漢冶萍公司(日本が二十一カ条の要求でに中合弁とするこをと要求した)の一つの安源炭鉱と湖南省株州(チューチョウ)を結ぶ鉄道で、ドイツと日本の資本で経営されていたが、中国人労働者に対する低賃金・長時間が劣悪だったことから、ストライキとなり、中国共産党は李立三・劉少奇らを派遣して指導にあたり、労働条件改善・賃上げに成功した。これは同年、初めにあった香港の海員ストライキと並んで中国労働運動の最初の勝利と言われ、また中国共産党が労働組合運動とむすびついて中国社会の変革に加わる契機となった。
 1924年に第1次国共合作が成立、劉少奇は上海の労働組合運動を指導した。1925年に上海での日本、イギリス、フランスなどの租界守備隊による中国人労働者殺害から端を発した五・三〇運動は、労働組合が反帝国主義運動の中心となった。
 1926年、武漢政府が成立すると、劉少奇も武漢を中心に労働組合運動の指導に当たった。しかしこの頃になると政治・経済の混乱から民衆運動は過激になり、共産党のコントロールが及ばなくなり、右派は労働運動や民衆運動の行き過ぎを非難するようになった。蔣介石の北伐が始まると、劉少奇は上海でゼネストを成功させたが1927年4月12日、蔣介石の上海クーデタによって共産党は排除され、5月には武漢政府でも国民党と共産党は分裂し、国共合作は崩壊した。

毛沢東を支え共産党ナンバー2に

 劉少奇はソ連に渡り、モスクワでソ連共産党の下で活動した後、帰国後の1932年に中国共産党政治局員となった。1932年からの長征の過程で、中国共産党の基本方針と主導権をめぐって対立が生じると、1935年1月の遵義会議毛沢東を支持してから、その有力な同志となった。
 その後、劉少奇は毛沢東の党指導を支えて活躍、「毛沢東思想」を提唱した。日中戦争での日本軍との戦いは1945年8月に終わり、中国は再び国共内戦(第2次)となった。内戦を毛沢東、周恩来、朱徳などとともに勝利に導いた劉少奇は、中華人民共和国の建国時には中華人民共和国政府副主席のポストについた。その後1956年9月中共第8回全国大会で、政治報告を行い、毛沢東の後継者と目され共産党ナンバー2の地位についた。

文化大革命で自己批判

 1959年「大躍進」運動の失敗で、毛沢東が国家主席を辞任したため、代わって国家主席に就任し、62年から経済の再建にとりくみ、鄧小平とともに毛沢東路線の修正を図って資本主義の部分的復活をめざした。しかし、1966年、毛沢東は失地回復をねらい、劉少奇・鄧小平らの追い落としにかかる。同1966年8月1日プロレタリア文化大革命の決定」が採択され、劉少奇は党内序列を2位から8位に格下げされ、さらに10月には鄧小平とともに「自己批判書」の提出を余儀なくされ、事実上の軟禁状態となった。こうして劉少奇は共産党の実権を奪う実権派であり、「資本主義の道を歩む」走資派の中心人物とされ、厳しい批判の矢面に立たされることとなった。67年4月1日には『人民日報』は劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」とレッテル貼りをし、9月には北京の要人居住区から追放され、家族とも引き離され、10月には「帝国主義の手先、現代修正主義、国民党反動派の手先」として党からの「永久除名」が決定された(鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた)。その後も紅衛兵らによる壮絶な個人攻撃が続き、開封の監獄に収監された劉少奇は肉体的にも衰弱し、1969年10月に獄中で死去した。
 嵐のように全中国に巻き起こった文化大革命は、毛沢東の死後、四人組の権力の下で混乱が強まるなか、1976年に収束した。まもなく反革命として断罪された人びとが復権し、名誉を回復、劉少奇も1980年に夫人とともに名誉回復の措置が取られた。

Episode 「ネックレス事件」で糾弾された劉少奇夫人

 文化大革命で「走資派」とされた人に対する紅衛兵らの糾弾は、大きな三角帽子をかぶせ、腰をかがめて頭を下げ、両腕を後ろに伸ばす、「ジェット式縛り上げ」の姿勢をとらせ、長時間にわたって自己批判を迫るものであった。国家主席である劉少奇に対しても容赦ない糾弾が行われ、70歳近い老人であったが激しい暴力が加えられた。また夫人の王光美も紅衛兵によってピンポン球で造ったネックレスを首からかけさせられ、つるし上げを受けた。それは、かつて彼女が国家主席夫人としてビルマに行ったときネックレスをして宴会に出席したことを、毛沢東夫人の江青が嫉妬してそれを批判し、彼女は資本主義者だと言うことになり批判を受けたのだった。<厳家祺ら『文化大革命十年史(上)』1996 岩波書店>

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厳家祺ら
『文化大革命十年史(上)』
1996 岩波現代文庫