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紅衛兵

中国の文化大革命で毛沢東を支持した青少年が組織した先鋭的な運動体。1966~68年が最も高揚し、実権派と見なされた共産党幹部や地方の役人、守旧派とされた学者や文化人を次々と自己批判に追い込み、さらに文化財の破壊などを行った。

 中華人民共和国を揺るがしたのプロレタリア文化大革命の時、毛沢東を熱烈に支持し、「造反有理」を掲げた少年・少女たちの運動体。1966~68年ごろが高揚期で、「紅衛兵」の腕章をして全国で激しい破壊活動(武闘)を展開、党幹部や芸術家など従来の権威に対して「自己批判」を強要し、多くの人が犠牲となった。『毛沢東語録』を手に手に北京に集まった紅衛兵に対し、毛沢東もその運動を認め利用しようとした。しかし、次第に統制がとれなくなり、内部対立も起こって運動は沈静化し、彼らは「上山下郷」運動(山岳地帯や農村の民衆の中に入る)に転じていった。
 紅衛兵が掲げた「造反有理」は、戦後の経済繁栄の中で疎外感を強めていた先進国の若者の心もとらえた。1968年のフランスの五月危機や、アメリカのベトナム反戦運動、さらに日本の学生運動にもそれを真似る学生が続出し、東大闘争でも赤門に「造反有理」の立て看板が立ち、各地の大学で教授に自己批判を迫る「つるし上げ」が続発した。

紅衛兵の始まり

 1966年5月25日、北京大学で「中央文革小組」の支持を受けた講師・聶元梓ら七人が学長の陸平ら指導部を激しく批判する大字報(壁新聞)を貼りだした。1966年5月29日、清華大学付属中学(日本の高校に相当)の約四〇人の学生によって紅衛兵と呼ばれる組織が誕生した。6月1日、毛沢東は聶元梓らの大字報を「20世紀60年代における中国のパリ=コミューンの宣言書である。その意義はパリ・コミューンを凌いでいる」と称え、ラディカルな学生の動きを積極的に支持した。以後急速にさまざまな紅衛兵の組織が作られていった。

Episode 円明園で誕生した紅衛兵

 初めて「紅衛兵」を名乗ったのは、北京の清華大学付属中学の生徒の張承志だった。彼の回想『紅衛兵の時代』によると、彼らは学校の隣の円明園の廃墟に集まり紅衛兵を発足させたという。その一文。
(引用)当時は円明園の廃墟が私たち造反派学生のたまり場になっていた。ここは第二次アヘン戦争(アロー戦争)の時、英仏侵略軍に焼き払われてからこの当時に至るまで一面の廃墟で、ところどころ水田が点在していた。学校と円明園は一本の通りで隔てられていただけで、付属中の生徒たちは朝早く円明園に行って本を読み、夕方にはここを散歩するのを好んでいた。(1966年)五月下旬、円明園は私たちの秘密の活動の隠れた基地となり、いつもこの廃墟で情勢を検討し、対策を講じた。私たちの心は、革命者が非合法活動に従事するさいの高揚した感情と、闘争や犠牲へのあこがれに満たされた。・・・<張承志『紅衛兵の時代』1992 岩波新書 p.46>
 紅衛兵運動が始まったとされる清華大学付属中学(中国の現地語では高級中学。日本の中高一貫校にあたる)は、エリート校の一つで、共産党幹部の子弟が多い学校だった。初期の紅衛兵たちは、共産党の政治教育をタップリと受け、共産党指導部の内状にも通じており、文革派に呼応することが毛沢東の意向に沿う行動であることをよく理解していた。<久保亨『社会主義への挑戦』シリーズ中国近現代史④ 2011 岩波新書 p.155>

紅衛兵の活動

 1966年8月18日には北京の天安門広場でプロレタリア文化大革命を支持する大集会が開催され、造反派の労働者が結集、紅衛兵も全国から参加し、毛沢東は壇上から彼らを強く支持することを表明、激励した。このような集会はその後も波状的に何度も開かれたが、全国からやって来る紅衛兵の交通費や食費は国から支給されていた。
 8月18日の集会で、林彪は毛沢東を「偉大な指導者、偉大な教師、偉大な統帥者、偉大な舵取り」(四つの偉大)と讃え、紅衛兵には「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の「四旧」を打破しそれに代わる「四新を創造」せよと呼びかけた。これは紅衛兵運動が公認され、その指針が与えられたことを意味し、それ以後、彼らはこの「四旧打破」を目標とし、「造反有理」を合い言葉に街頭に繰り出していった。その攻撃の対象となったのは、仏教や儒教などの宗教家や施設、学校の教師、文学や美術での権威、ブルジョワ風の風俗、古い言葉遣いなどから、それまで威張っていた党幹部などにも向けられた。 (引用)このすさまじい造反の勢いを目にして、北京市の住民たちは住居の表門に貼った「福」の字やそのたいろいろな縁起ものの対聯(門の両柱につるす書)を、大急ぎで剥がしたり破り捨てたり流行の対聯で覆い隠したりした。私有財産として家を持っている市民はみな、紅衛兵の丁重なすすめと最後通牒の脅しのもとに住宅管理局に駆けつけ、長蛇の列に並んで住宅引き渡しの「願い書」を提出した。……
 数日のうちに、北京市の大通りや路地に、各種各様の壁新聞、スローガン、提案書、通牒などが、密にまたまばらに貼り出された。建築物、家屋、品物、それに人じたいはいささかも変わってはいなかった、紅衛兵は表面上のはなやかな「革命」の様相を目にし、「革命造反歌」をやすみなく高らかに歌いながら、名状しがたい「満足感」が沸き起こってくるのを感じた。つまり、自分たちは耳をふさぐ間もなくやってきた雷のようなすばやさで、一つの「旧世界」をうちこわし、一つの「真っ赤っ赤な新世界」をうち立てたのだ、と。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.60>

Episode 「赤信号」は「進め」!

 「四旧打破」という「文化」の革命の炎は燃えあがり、紅衛兵の怒りはファッションにも及んだ。女性の髪型はミニのところに切りそろえた三八式にせよ、男性のリーゼントはいけない、先の尖った靴やハイヒール、ジーンズはアメリカ式ブルジョワ文化の典型だとして取り締まられた。反抗的な若者がジーンズをはいて歩こうものなら怒った紅衛兵に取り囲まれて、裾から股の付け根まで切りさいてしまった。
 紅衛兵にとっては「赤は革命の象徴」なので、交通信号の赤が「止まれ」なのはおかしい、「赤」を「進め」に、青は止まれだ、と言い張り、勝手に信号機の前で交通整理を始めた。そのためあちこちで交通事故が引き起こされ、さすがにこれはまずい、と言うことになった。周恩来が「信号の表示は世界の統一規則で、赤は人の警戒心を帯び起こす光学的な効果があるのだ」と紅衛兵を説得、ようやく紅衛兵のでたらめな行動は収まった。<厳家祺・高皋『前掲書』上 p.68>

紅衛兵の暴力行為

 紅衛兵の暴力行為は、特に地主、富裕層に向けられ、しはしばエスカレートして攻撃する相手にベルトのバックルで殴打の限りをつくして死に至らしめることがあった。彼らは家捜しと称して家に押し入り、土地売買契約書などを見つけ出すと「地主の犬ころめ!」と家族全員を殴打した。北京の大興県では3百余人が殺害された。これらの不法行為は警察に黙認された。林彪は紅衛兵の行動はプロレタリア階級の正当な行動だと認め、警察トップの公安部長謝富治は「人をなる殺すことには賛成しない。しかし人々が悪人を心底恨んでいるなら、われわれは無理やり止めることはしない」と明言し、むしろ彼らに情報を提供していた。<厳家祺・高皋『前掲書』上 p.69>
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張承志
『紅衛兵の時代』
1992 岩波新書