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ベトナム反戦運動

1960年代後半から70年代前半、ベトナム戦争に反対する運動がアメリカ各地でおこった。はじめは学生などによる戦争反対の運動であったが、長期化に伴い黒人運動や労働運動とも結びつき、さらに全世界にひろがり、1968年ごろが頂点となった。ベトナム戦争は強引に全インドシナに拡大されたが、平和運動に押された和平交渉もはじまり、1973年の和平協定成立、アメリカ軍の撤退に向かった。

 ベトナム戦争1965年2月7日からの北爆の恒常化と、1965年3月7日の陸上部隊の南ベトナム上陸によって本格化した。この段階では世論は、ジョンソン大統領のいう「共産主義の脅威に対する防衛、ベトナムの内戦を終わらせるための正義の軍事行動」という説明を支持し、戦争反対の声は少数に留まっていた。またジョンソン大統領も一方で「偉大な社会」を掲げ社会保障の充実などを掲げていたので、バランスを取る必要から、ベトナムへの介入は北爆と南ベトナム支援に留める「制限戦争」であると説明し、宣戦布告を避けていた。<以下、ベトナム戦争反対運動の推移を主として油井大三郎『ベトナム戦争に抗した人々』世界史リブレット125 2017 山川出版社などによって構成した。>

学生による反戦運動

 学生の中には、すでに1965年の軍事介入本格化頃から戦争反対の運動が始まり、「民主社会をめざす学生組織(SDS)」は1965年4月にワシントンで2万人を集めて集会を開き、アメリカがベトナムの人々の運命を支配することは許されるのか、と訴えた。この集会ではジョーン=バエズが反戦歌を歌い、全国的に知られるようになった。大学生はそれぞれの大学に戻り、黒人公民権運動の非暴力主義によるシット・インにならって「ティーチ・イン」といわれる反戦集会を開いて運動をひろげた。67年頃には反戦運動は全国的な広がりをもつようになったが、黒人公民権運動、労働組合運動などの既存の組織の主流派は、政府との関係の悪化を避けるため、表だって戦争反対を表明することには反対し、運動を統一することは困難だった。またこのころのマスコミはむしろ政府を支持し、戦争を煽る傾向があり、反戦運動に対しては反米に利するものとして批判的だった。
キング牧師の反戦運動 1955~65年の公民権運動を指導し、一定の成功に導いたキング牧師は、その非暴力主義から戦争反対の意志を固めていたが、黒人組織の主流派はジョンソン政権との良好な関係を維持するため政府支持を主張していたので、孤立していた。しかし、ベトナム戦争の実態を知るに及んで、非暴力の姿勢を貫くことを表明、1967年4月にニューヨークのリバーサイド教会で演説してベトナム反戦を明らかにした。キング牧師は、アメリカのベトナム政策はジュネーヴ協定を否定しフランスの植民地主義を助けようとしたことから誤った方向に向かいはじめたと指摘し、ベトナム人が共産主義を受け入れるかどうかはかれら自身の選択であり、従ってアメリカがベトナムで戦うことは「間違った戦争」であると断定した。キング牧師は反米だとしていわゆる「愛国者」から非難されたが、その主張の中の、戦争のための国防費の急増は、ジョンソン大統領の国内政策である「偉大な社会」の建設とは両立せず、ベトナム戦争を止めなければ黒人の貧困問題も解決しない、という指摘は広い共感を得るようになった。
10・21国際反戦デー 1967年4月15日の反戦集会はそれまでの最大の動員を実現させ、世界にベトナム反戦の声が広がっていった。5月にはイギリスのラッセルが提唱してベトナム戦争でのアメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷が開催され、アメリカ政府は有罪という判決を下した。さらに10月21日にワシントンで大反戦集会が開かれ、デモ隊は5万5千人(警察発表。主催者発表では20万)を超え、国防総省(ペンタゴン)を包囲するという実力行使を実行した。これは日本の総評(日本労働組合総評議会)が提唱した「国際反戦デー」にあわせたもので、東京など世界各地での反戦運動として行われたものだった。集会ではピーター・ポール&マリーが反戦歌を歌って盛り上がった後、行進に移り、ペンタゴン前でティーチイン(座り込み)を行った。一部の学生はブラックパワー運動の影響を受けて突入を図った。しかしジョンソン政権が警察、州兵、空挺部隊を動員して警備に当たり、深夜に及んで実力で排除を開始、デモ隊は「ウィーシャルオーバーカム」を歌いながらスクラムを組み非暴力で抵抗を続けたが、朝までに1000人を超える逮捕者を出して大行進は終わった。しかし大新聞は一部の暴徒化した部分をセンセーショナルに伝えただけだった。ジョンソン政権も強硬な姿勢を変えず、反戦運動は一部の過激派に引きずられたものとの見方を変えなかったが、政権内部ではマクナマラ国防長官など少数の中に、戦争継続への疑問が生まれはじめていた。

潮目となった1968年

 ベトナムで起こっていることが実質的な戦争であることは長期化、深刻化するにともなって、その悲惨な映像がテレビを通じてアメリカの国民に知られるようになって明らかとなり、世論の動向も次第に潮目が変わってきた。特に1968年1月南べトナム解放民族戦線がテト攻勢と称して総攻撃に出て、首都サイゴンが攻撃を受けたことで、アメリカ軍の劣勢が明らかとなり、増加する死者数は国民に大きな不信感をもたらした。特にベトナム帰還兵の証言が戦場の実態を伝えると、学生らは自ら徴兵カードを燃やし、徴兵を拒否するようになった。このころになると、戦争推進を主張していたタカ派の論調も弱まり、世論の大半はアメリカ軍の撤退を主張するようになった。ベトナム戦争を正義とする声は少なくなり、誤った戦争であるという意見が多数を占めるようになった。
女性の行進 またアメリカ最初の連邦議会の女性議員となり、第一次世界大戦、第二次世界大戦のいずれにも戦争反対の票を投じたジャネット=ランキンはすでに86歳になっていたが、彼女の名前をつけた「ジャネット・ランキン旅団」が結成された。1968年1月15日に行われた女性だけの行進は5000人がワシントンに集結し、議会への戦争終結を求める請願を行い、その先頭にはジャネット=ランキンとキング牧師夫人のコレッタ=キングが立った。これは1913年のアメリカの女性参政権を要求する行進以来、最大規模のものになったという。

和平交渉の開始

 1968年1月のテト攻勢後、戦争反対の国内世論の高まりを受けて、ジョンソン政権内にも動揺が走り、マクナマラ国防長官は辞任、ジョンソン大統領も弱気になって3月31日のテレビ演説で突然、北緯20度以北の北爆中止、南ベトナムでの戦闘縮小を前提にした和平交渉開始を提案した。民主党内でロバート=ケネディなどハト派が次期大統領選挙に名乗りを上げるなど、その地位が危うくなってきたためであった。4月3日、アメリカと北ベトナムはパリ和平会談を開始することで合意した。しかしアメリカ側ではラスク国務長官など強硬派が多く、アメリカ軍も北爆をむしろ強化するなど、交渉の困難さが予想された。

1968年 学生運動の高揚

 一方、反戦運動は10・21ペンタゴン大行進が力で押さえつけられた後、運動の進め方をめぐって内部分裂するうち、4月4日にキング牧師が暗殺されたため黒人暴動が各地に起こり、6月5日にはリベラル派のロバート=ケネディも暗殺され、動揺が深まった。このころ世界的な学生運動の高揚が、パリの五月革命や日本の大学紛争となって現れたのは、ベトナム反戦運動と連帯すると同時に、その閉塞感、不安感が表れたものとも考えられる。
 アメリカの学生運動も、ベトナム反戦とともに大学の官僚制的な統制に反発し、大学改革を求める運動として1964年のカリフォルニア大学バークレー校に始まり、1968年にはコロンビア大学やハーヴァード大学でも学生が校舎を占拠するなどの過激な運動が展開された。この学生運動はたちまち全世界に広がり日本でも東大紛争を始め全国の大学に「スチューデント・パワー」の嵐が吹き荒れた。また多くの若者が長髪とボロボロのジーンズという恰好のヒッピーといわれ、従来の価値観を否定する「カウンター・カルチャー」(アメリカの伝統的な中産階級の文化や道徳に反発した文化)に身を置いたのもこの時代であった。

Episode 反戦活動家クリントン

 学生の反戦運動には利己的な動機もあった。学生、教員、妻帯者などの徴兵猶予が廃止され、戦争が自分の身に直接降りかかってきたのである。そのなかで多くのものが徴兵回避の方策を考えた。クリントン前大統領もそうした若者の道をたどっており、彼は大学院在学中に徴兵を免れ、さらに留学中のイギリスで反戦運動を組織している。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』下 中公新書 2002 p.84>

ニクソン政権

 民主党がベトナム反戦運動との関わり方で分裂する中、1968年11月の大統領選挙で「名誉ある和平」と「法と秩序」を掲げた共和党ニクソンが当選し、1969年1月に就任した。具体的にはベトナムからの撤兵と過激な反戦運動の取り締まりを約束し、実際に兵力を徐々に削減し、アジア諸国にその肩代わりをさせるというベトナム政策(ニクソン=ドクトリン)は国民に支持され、ニクソン政権は60%台の支持率を得た。それによってベトナム反戦運動は低迷を余儀なくされた。学生運動を支えてきたSDSも都市ゲリラを主張する過激グループが勢力を強めた結果、組織的な活動は終わりを告げた。カウンター・カルチャーの創造にむかった若者は1969年8月のウッドストックのような音楽の解放区へと向かった。
ソンミ村虐殺報道 そのような時期、1969年11月に、アメリカのメディアが、南ベトナムのソンミ村(アメリカではミライ村と報じられた)でアメリカ軍が民間人約500人を虐殺した事件が報道され、大きな衝撃が走った。また多くのベトナム帰還兵が虐殺があったことを証言、ジェノサイドの疑いが深まるとともに、帰還兵のPTSD(精神的後遺症)も深刻であることが知られることとなった。ソンミ村事件は調査の結果、カリー中尉率いる小隊によって起こされたことが判明し、中尉だけが有罪とされた。年末から翌年5月にかけて、ベトナム帰還兵の団体などによるベトナム反戦運動が再び盛り上がりを見せたが、ニクソン政権の下で和平交渉は進展せず、かえってカンボジア・ラオスへの戦線拡大など、逆方向にすすんだため、和平を望む国民の苛立ちは高まり、支持率も低下していった。5月にはワシントンやサンフランシスコで大規模な市民的不服従(橋での座り込みなど)の抗議がおこなった。
 6月13日にはニューヨークタイムズが国防総省の機密文書『ペンタゴン・ペーパーズ』をスクープして公開し、歴代政権の不当なベトナムへの介入の経過が明らかにされ、ニクソン政権は窮地に追いこまれた。

和平の実現へ

 ニクソン政権は7月15日、突然に来年2月にニクソン訪中を訪問すると発表した。これはキッシンジャー外交顧問が秘密裏に進めたことで、ベトナムの背後にある中国と手を結び、ベトナムに圧力をかけて和平交渉を有利に進めようとする策であると共に、国内の反政府の論調をそらすための策でもあった。しかしベトナムは中国やソ連の圧力にもかかわらず、和平条件を引き下げなかった。アメリカは米軍とベトナム軍の同時撤兵、南ベトナム政府の継続(分断国家の維持)を主張したのにたいし、ベトナムは米軍のみの撤退、南ベトナム政府の廃止(つまりベトナムの統一)という条件を取り下げなかった。
 その後、断続的に和平交渉が続き、ニクソン政権のキッシンジャーは北爆と和平という硬軟を巧みに繰り返しながら交渉を続け、北ベトナム側も現実的な判断に傾き南ベトナム(サイゴン政府)の存続を認めることで妥協し、ようやく1973年1月27日ベトナム和平協定が成立した。協定に基づき、3月からアメリカ軍のべトナム撤退が開始され、1961年のケネディによる軍事顧問団派遣から12年以上にわたるアメリカの軍事介入は終わりを告げた。
 その後、南ベトナム政権(サイゴン政府)は残ったがアメリカ軍の支援がなくなったことでベトナム解放戦線と北ベトナム軍の攻撃に耐えることは出来ず、1975年4月30日サイゴンが陥落してベトナム戦争は完全に終結した。

参考 ベトナム反戦運動の意義と限界

 油井大三郎氏は『ベトナム戦争に抵抗した人々』2017 世界史リブレットにおいて、ベトナム反戦運動の意義として次の6点をあげている。
  1. 政府の楽観的展望が、現地のマスメディアの報道とのギャップを拡大し、政府への不信を強めた。
  2. リベラル派、旧左翼、新左翼などさまざまな運動がベトナム戦争反対という一点で大同団結した。
  3. 弾圧の強化によって暴力に訴えたこともあったが、全国的な運動では非暴力直接行動が主流となった。
  4. リベラル派が、当初の反共主義を克服してベトナムの民族自決を支持した。
  5. 広島・長崎被爆者の追悼や、10・21国際反戦デーなど国際的な連帯をすすめた。
  6. アフリカ系やマイノリティの中に、人種差別とベトナム侵略の構造的な関係の自覚を生み出した。
 これらの意義とともに、ベトナム反戦運動の限界もあった。ニクソン政権期になって、徴兵制の撤廃がすすみ、地上戦でのベトナム化が進んでアメリカ兵の死者が減少するとともに反戦運動が低調になったことに示されているように、アメリカの反戦運動は「冷戦の論理」から脱却して「超大国的な使命感」の相対化にはある程度成功したものの、アメリカのナショナリズム自体を相対化する点では不十分だったことである。ベトナム反戦運動は、長期化し泥沼化する紛争への介入を自制さえる効果を持ったが、対外介入一般を抑制するまでには至らなかった。それがベトナム戦争後にアメリカが「対テロ戦争」としてイラク戦争アフガニスタン戦争を繰り返したことに表れている。