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五月危機

1968年5月、フランスのパリの学生がド=ゴール政権の教育政策に反発して暴動を起こしたのを契機に、全土でド=ゴール退陣要求が強まった。

 フランス「五月革命」とも言われる、1968年5月にパリの大学生が政府の教育政策に不満を爆発させて暴動を起こしたのをきっかけに起こったド=ゴール体制に対する、広範な労働者・市民の反対運動。ド=ゴール政権は実力で運動を抑えたが、国民的支持を無くし、翌年のドゴール大統領辞任につながり、ド=ゴール時代を終わらせる画期となった。またこの1968年という年はベトナム反戦運動の盛り上がりと結びついた学生運動が世界的な広がりを見せ、第二次世界大戦後の経済発展至上主義の社会が大きな曲がり角に入ってきたことを思わせる動きのあった年であった。

「五月危機」の背景

 ド=ゴール時代(1958年~1969年)は、フランスにとっての高度経済成長の時期でもあった。アルジェリア戦争は財政難を招いたが、フランの大幅な切り下げと新フラン通貨発行によって経済危機を乗り切り、歳出の削減・賃金の抑圧を図るとともに生産性を高める方策がとられ、62年頃は財政赤字を脱却し貿易も黒字に転じた。このような経済の安定成長を背景に「フランスの栄光」を掲げたド=ゴール政権は国民の支持を集め、65年には再選を果たした。しかし経済の発展は次第に社会に格差を生み出し、また経済優先の風潮が青年層の閉塞感を強めていった。60年代後半に経済が退潮期を迎えると80歳近いド=ゴールの政治が硬直したものと映るようになった。そのような現状への不満を爆発させたのが学生運動であった。ベビーブーム期の大学生が進学したが、急造の大学施設は貧弱で、また超エリート校と一般の大学の格差も依然として大きく、学生の多くは社会への反発を強めていた。

「五月危機」の経過

 1968年3月、パリ郊外に63年に新設されたパリ大学ナンテール校で「新左翼」の学生による占拠事件が発生。5月3日にはソルボンヌでの学生集会に警官隊が動員され学生が逮捕された。5月10日には大学当局が学校を閉鎖したことに抗議する学生たちがパリ市内の学生街カルチエ=ラタンに結集し、警官隊と衝突した。カルチエ=ラタンにはバリケードが築かれ「解放区」が出現、政府は共和国保安隊を出動させて鎮圧にあたった。多くのけが人が出る中、5月13日には労働者・市民が学生を支援するデモを行い、混迷は5月末まで続いた。ド=ゴールははじめ、「子供の遊びさ」と楽観し、暴動の最中も外国訪問を繰り返すなどひんしゅくを買い、ようやく5月30日に国民議会を解散して総選挙を行うことを宣言し、事態の収拾にあたった。政府も労組に対して賃上げを約束するなどして運動を懐柔し、6月には平静を取り戻した。6月に行われた総選挙は暴動への反動からド=ゴール派が圧勝し、危機は去った。<渡辺啓貴『フランス現代史』1998 中公新書 p.152-160 などによる>