円明園
清朝最盛期に北京に建造された西洋式庭園。アロー戦争で英仏軍の手によって焼かれた。
円明園の焼き討ち
アロー戦争の最中の1860年に英仏軍に焼き討ちされ、破壊された。
円明園は北京の北西にある名園で、康煕帝の時、宣教師カスティリオーネ(郎世寧)の設計による西洋風の建物と庭園が作られ、フランスのヴェルサイユ宮殿に比べられるバロック式庭園を持っていた。
アロー戦争でイギリス・フランス両軍が北京を占領した1860年10月18日、円明園は両国軍によって焼き払われ、略奪を受けた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたという。またこの時、もう一つの離宮であった頤和園も焼かれ、咸豊帝と西太后は北京を逃れ、熱河に避難した。
円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近はイギリス・フランス軍の蛮行の歴史的な記録として破壊された状態のまま整備され、公開されている。
英仏軍による破壊を今に伝える、現在の円明園
2007年3月4日
アロー戦争でイギリス・フランス両軍が北京を占領した1860年10月18日、円明園は両国軍によって焼き払われ、略奪を受けた。両軍兵士は略奪の痕跡を消すために火をつけたという。またこの時、もう一つの離宮であった頤和園も焼かれ、咸豊帝と西太后は北京を逃れ、熱河に避難した。
円明園は長い間廃墟として放置されててきたが、最近はイギリス・フランス軍の蛮行の歴史的な記録として破壊された状態のまま整備され、公開されている。
現在の円明園
英仏軍による破壊を今に伝える、現在の円明園
2007年3月4日