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林彪

中国共産党軍の軍人。国防相として人民解放軍の政治化を進め、文化大革命を支える。1969年には毛沢東の後継者に指名されるところまでいったが、1971年に毛沢東を倒すクーデタに失敗、逃亡途中で墜落死した。それ以降の文化大革命後半は四人組が台頭、大きく動揺した。

 林彪(りんぴょう)は、長征の時代からの共産党員で、日本軍の侵略に対する抗日戦争(日中戦争)期の八路軍の指揮官として活躍し、さらに国共内戦(第二次)では東北地方で国民党軍を次々と破って軍事的天才といわれた。
 中華人民共和国建国後は人民解放軍をバックとした軍人として中国共産党の中枢に参画した。(朝鮮戦争には仮病で従軍を免れ、多くの優秀な軍人が戦死した後に林彪が軍の実権を握ったとも言われている。)
 特に1959年7月、共産党幹部の廬山会議毛沢東主席の大躍進運動を批判した彭徳懐国防相が解任され、その後任の国防相となってから、毛沢東の忠実な追従者となった。

軍の政治化の推進

 林彪は国防相となると人民解放軍を単なる「国防軍」から、「革命軍」に転化させようとした。前任者の彭徳懐がソ連軍を手本に進めた軍の組織化(厳格な階級制の導入)、装備の近代化、戦術の機械化(航空戦力の充実)などの路線を否定し、「人民戦争論」を掲げてかつての紅軍の採用したゲリラ戦を中心として人民とともに戦うという戦術に戻ることを主張した。
 さらに「革命軍」としての性格を強めるため、軍の政治化(軍人の政治思想学習)を推進し、1964年には自らの序文を付した『毛主席語録』増訂版を発行して全軍に配布した。これが後の紅衛兵の「バイブル」とされるに至る。また1965年5月には、55年以来の軍の階級制度を廃止した。毛沢東は65年11月に軍内部で林彪の路線に反対し、軍の近代化を進めようとしていた総参謀長羅瑞卿を罷免、人民解放軍は毛沢東・林彪によって完全に掌握されることとなった。

文化大革命で政権中枢へ

江青・林彪・毛沢東

江青・林彪・毛沢東

 プロレタリア文化大革命では、本格的な革命開始が宣言された1966年8月の11中全会において、毛沢東の提起によって資本主義の道を歩む実権派の打倒という革命目標が明らかにさたことによって党内序列第二位の劉少奇は8位に降格され、代わって林彪が第2位に上り、しかもただ一人だけの副主席に就任した。
 また文化大革命で登場した猛烈な毛沢東支持派の青少年の中から生まれた紅衛兵は、手に手に「毛沢東主席語録」を掲げて活動したが、それはかつて林彪が毛沢東思想学習のために人民解放兵士に配ったものであった。毛語録は紅衛兵にとってのバイブルとされ、大いにもてはやされた。天安門広場でたびたび開催された紅衛兵の大集会では、林彪は必ず毛沢東の隣に立ち、毛沢東語録を高く掲げ、演説ではその一節を朗読した。
毛沢東を神格化 林彪の急速な台頭の理由は、彼が徹底した毛沢東神格化を行い、それを毛沢東が利用しようとしたことだった。林彪は毛沢東を「文化大革命は国際共産主義運動史上、プロレタリア独裁国家においてプロレタリア階級自らが発動した、前例のない大革命である。これはマルクス・レーニン主義に対する毛主席の天才的で創造的な、時代を画するほどの新たな発展である」と述べている。また、「毛沢東思想は現代における最高の最も生き生きとしたマルクス・レーニン主義だ」とも言っている。林彪は簡潔な言い回しを創造することに長けており、「人の要素第一、政治工作第一、思想工作第一、生きた思想第一」の「四つの第一」というような、ありえないことを平然と唱えた。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.163>

奪権闘争の展開

 文化大革命では毛沢東の目指した国家主席劉少奇と実務派官僚のトップ鄧小平からの奪還闘争に協力し、さらに毛沢東の側近の江青など後に四人組と言われるグループとともに主導権を握り、革命推進の中心となっていた。1966年~68年、彼らに煽動された紅衛兵ら造反派は、劉少奇・鄧小平を実権派・走資派として激しく追求、林彪もそれに乗じて、朱徳・陳毅・羅瑞卿・彭徳懐など先輩格の解放軍の実力者たちを次々と失脚させた。林彪は自分が権力を握るのに不都合な人物を次々と抹殺したが、その中の一人の共産党の医療責任者で著名な医者であった傅連暲は、林彪を毒殺しようとしたと誹謗中傷され、逮捕されて最後は自殺に追いやられた。この医師は1950年代に林彪を治療したことがあり、そのとき林彪が麻薬中毒者であることを知ったためと言われている。<厳家祺・高皋『上掲書』 p.221>
 1968年10月、毛沢東が召集した共産党8期12中全会で、毛主席・林彪副主席の指導には誤りはなかったと確認され、劉少奇の永久除名と国家主席以下の職務の解任、鄧小平の解任を決定した。
中ソの軍事衝突 文化大革命の背景には、同じ共産党を称する中国共産党とソ連共産党の間の激しい中ソ対立があった。文化大革命が展開される間も、中ソ関係は悪化し、両国軍は中ソ国境紛争で直接戦火を交えるまでになっていた。前年にはチェコ事件でソ連が軍事侵攻をしており、緊張が高まる中、1969年3月珍宝島事件が起こった。この時は周恩来の外交交渉で全面対決は回避されたが、緊張感は続き、国境地帯では防衛用の地下壕建設が進められた。そのような状況によって人民革命軍とその最高司令官としての林彪の存在もますます力を増していった。
毛沢東の後継者に指名される 1969年4月、13年ぶりで開催された中共第9回全国大会は「文化大革命の勝利の大会」と位置づけられ、文革の節目となった。大会に出席した代表のほとんどは、毛沢東、林彪、江青らの指名による者であった。また軍人の台頭が目立った。そしてこの大会で、林彪は「党規約」の中に「毛沢東同志のもっとも親密な戦友であり、後継者」と明記された。しかし、毛沢東と林彪の関係は、外見では判らない、微妙な対立を含んでおり、間もなく決裂することとなる。

国家主席問題での行き違い

 林彪は、軍内部を腹心で固め、権力基盤とした。同時に毛沢東の周辺の江青や陳伯達、康生などの文化革命推進派とも関係を強め、その地位を確固たるものにしようと務めた。しかし、まだその地位はナンバー2にとどまっていると考えた林彪は、国家主席の地位への就任を画策した。国家主席は1968年に劉少奇が解任されてからだれも就任していない、国家の最高ポストであった。林彪はまず毛沢東を国家主席につけ、その次に禅譲という方法で自分が就任するのが最も良い、と考えた。ところが、毛沢東はその腹を見透かしたのか、憲法を改正して国家主席のポストを廃止することを提案した。あわてた林彪は、毛沢東を天才と持ち上げ、国家主席に相応しいということを陳伯達に発言させた。それに対して毛沢東は、個人の資質を天才と持ち上げて国家の重要ポストに就けるという考えはマルクス・レーニン主義に反するとして厳しく陳伯達を批判した。これが批陳整風運動として下部に広がったことで、林彪の毛沢東を国家主席に就任させ、その禅譲を受けるというプランは不可能となった。
 この一件から、はやくも毛沢東と林彪の間に対立が生じていることが明らかになった。毛沢東には林彪に対する不信が強まり、林彪には毛沢東から禅譲が無理なら、権力を力で奪うしかないという思いが強まったようだ。

毛沢東の変心

 そもそも、毛沢東の後継者に指名されていながら、林彪はなぜ毛沢東に反旗をひるがえすことになったのか。あるいは毛沢東が林彪を追いこんだのか。未だに判りづらい事件であるが、観測では毛沢東は林彪が権力を自分の子どもの林立果に世襲させようという野心を持っていることに気づき、排除したのではないかということがいわれている。毛沢東にしてみればわが子の毛岸英は朝鮮戦争で戦死しており、毛家王朝を作ることはできない。にもかからず林彪は林家王朝を築こうとしている、これは許せない、となったのかもしれない。また、林彪が政権世襲を考えていたのは事実で、そのため国家主席のポストにこだわり、その復活を毛沢東に拒否されたことで、このままでは世襲はできなくなり、ポスト毛沢東は江青一派に握られるかも知れないと恐れていた。あるとき(1970年4月)、毛沢東は林彪に、「君の次は誰が良いと思う?張春橋はどうかね?」とカマをかけたという。<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.38>

用語リストへ 16章1節

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林彪事件(九・一三事件)

1971年9月13日、文化大革命中の中国で、毛沢東の後継者と見なされていた林彪がクーデタを起こして失敗し、墜落死を遂げた。その真相はまだ明らかでない部分が多い。文化大革命は転機を迎えたが、その後、76年まで続いた。

 文化大革命期に林彪は軍を押さえ、毛沢東に次ぐ権威を獲得し、ナンバー2になった。林彪は盛んに毛沢東を「天才」とおだて、初めは信頼を得ていたが、次第に廻りに腹心の軍人で固め、妻の葉群も暗躍して勢力を強めてくると、毛沢東も林彪を警戒するようになった。毛沢東は林彪が「国家主席」ポストを狙っているものと捉え、あえてそのポストの廃止を提案した。危機を感じた林彪・葉群らは密かに毛沢東暗殺のクーデター計画を進め、1971年9月、武漢視察から帰る毛沢東の列車を上海付近で爆破しようとしたが、毛沢東側に察知されたらしく、列車は予定よりも早く通過したため、失敗した。
 1971年9月13日、モンゴル上空で墜落死した(九・一三事件)。この林彪事件の経緯が正式に発表されたのはさらに二年後の73年8月であり、毛沢東暗殺クーデタを企てて失敗したとされたが、なぜソ連に逃亡しようとしたのかなど多くの謎に包まれている。

林彪の墜落死

 林彪らは危機が迫ったので、はじめは中国南部に逃れて、拠点を作ろう押したらしいが、周恩来がその不穏な動きを察知、空軍を押さえたため実行できなくなり、13日、林彪らはやむなく滞在中の北戴河の飛行場からトライデント256号機に飛び乗り、ソ連に亡命しようとしたものの、モンゴル上空で墜落し、妻の葉群、息子の空軍司令林立果らとともに死亡した。
 林彪はソ連に向かったと思われるが、初めからソ連亡命を考えていたのかどうかには疑問もある。途中モンゴルの草原で墜落、死亡したが、その詳細にも分からない点が多い。いずれにせよ林彪が死んだことを周恩来から聞いた毛沢東は、「雨は降るもの、娘は嫁に行くもの。好きにさせるがいい!」とだけ言ったという。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版、岩波現代文庫版では中 p.257>

林彪事件の謎

 文化大革命時代には紅衛兵として活動し、後にジャーナリストとして民主化運動を報道し、現在は香港で歴史家として現代史の著述を行っている楊継繩氏の『文化大革命五十年』では、林彪事件の謎として次の6点を上げている。
  1. 林彪は毛沢東殺害を意図するクーデタに関与したのか。軍事委員会主席だった林彪が統帥権を発動しなかったのはなぜか。経験深い軍事専門家であったのに、なぜ稚拙なクーデタに走ったのか。児戯に等しいクーデタは林立果が計画しただけで、林彪自身は最後に巻き込まれただけなのではないか、という疑いもある。
  2. 林彪は主体的に逃亡したのか、葉群と林立果に連れ去られたのではないか。多数意見は林彪が主体的に一家を挙げての逃亡を謀ったというものだが、林彪は睡眠薬を飲んでふらふらになっていたところを二人に欺されて連れて行かれた、という証言もある。
  3. 林彪が当初は広州に向かい、そこに別の中央を設立して、中国の南北分裂を図ったという公式見解は正しいのか。これには否定的見解が多く、南方政府樹立は林立果の仲間の周宇馳などが語っていたが、林彪自身の意志だったという証拠はない。
  4. 林彪の逃亡は事前に分かっていたのに、なぜ阻止されなかったのか。飛行機での逃亡は同行したくなかった林彪の娘林立衝から通告されていたのに、周恩来は飛行場の閉鎖などの措置を取らなかった。そこでわざと逃がしたのではないか、という陰謀説があるが、逃亡はまったく突然だったので阻止できなかったのがやはり真相のようだ。
  5. 林彪はソ連を目指したのか。トライデント機を管理していた係官の証言で、林彪からイルクーツクまでの飛行時間を聞かれた、と言うだけがソ連目的説の根拠であるが、それ以上は判らない。いずれにせよ、国外逃亡なら、香港かソ連しかなかった。
  6. 離陸から墜落まで上空で何があったか。上空で大きく旋回したのはなぜか。トライデント機は離陸後まず広州方面に機種を向け、続いて北京方面に進路を変更している。その後さらに進路変更を続けている。畿内で行き先をめぐって争いがあり、一時は北京に戻ろうとした形跡もある。乗員すべてが死亡し、ブラックボックスも回収できていないので、結局は機内で何があったかは永遠の謎である。
<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.50-52>
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厳家祺・高皋/辻康吾訳
『文化大革命十年史』上
2002 岩波新書

楊継繩/辻康吾編訳
『文化大革命五十年』
2019 岩波書店