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ゴ=ディン=ジェム

南ベトナムのアメリカ傀儡政権の大統領。北ベトナムの共産勢力から南を防衛することでアメリカの軍事支援を受けたが、南ベトナム解放戦線の反政府運動に直面した。一族を重用し、仏教徒を弾圧したことで非難が強まる。1963年、軍クーデターで殺害された。

 ゴ=ディン=ジェム Ngo Dinh Diem は南北ベトナムの対立からベトナム戦争に発展した時期のベトナム共和国(南ベトナム)大統領。1955年10月、アメリカの支援を受けてバオ=ダイ帝を追放し、ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して大統領となった。ジュネーヴ休戦協定の取り決めである南北統一選挙を拒否し、反対派を厳しく弾圧した。南ベトナム政府はゴ大統領の一族登用など腐敗がひどく、国民の支持を失った。また彼はカトリック信者だったので、仏教徒を弾圧し、仏教徒の焼身自殺などの抗議があいついで、安定しなかった。そのようなゴ政権の政治姿勢は次第に国民の離反を招き、アメリカ(ケネディ大統領)も当初は共産勢力を抑えるためにゴ政権を支援していたが、次第に見限るようになった。1963年11月に軍部クーデタが起き、アメリカも見放したため、殺害された。ケネディ大統領暗殺の3週間前であった。

仏教徒を弾圧

焼身自殺

焼身自殺する僧侶 1963/9/5 サイゴン
Wikimediha Comons

 ゴ=ディン=ジェム政権の下での反対派に対する弾圧はすさまじいものがあり、「60年までに80万人が投獄され、拷問を受けたといわれる。逮捕されたもののうち9万人が殺され、19万人が身体障害者になったという」<小倉貞男『ドキュメント・ヴェトナム戦争』岩波書店 1991>
 ゴ=ディン=ジェム大統領は西洋流の教育を受けてカトリックを信じ、ベトナムをカトリックの国にした。自分の守護聖人である聖ヨハネの祭日を公式ミサの日と定め、実弟ゴ=ディン=ヌーの誕生日にも感謝の祈りを捧げる式典を行っている。大統領就任当時は人気があったが、しだいに内にこもり疑い深くなっていった。実際の政治は弟のヌーとその夫人に任せることが多くなり、秘密警察を国中において反政府運動を監視した。
 ベトナムは民衆の8~9割が仏教徒であるが、カトリックであったゴ大統領は、共産主義者と同じように仏教徒も反政府運動のバックにあると考え、仏教を弾圧した。1963年には7人の僧侶がそれに抗議して焼身自殺に訴えた。それを見たゴ大統領の弟で実力者ゴ=ディン=ニュー(ゴ=ジン=ヌーとも表記する)の夫人は「バーベキュー」と罵り、今度同じことが起きればガソリンとマッチを喜んで進呈しようと述べて内外の世論を逆なでした。<松岡完『ベトナム戦争』中公新書 2001 p.172>
※訂正 この項で「バーベキュー」発言をしたのをゴ=ディン=ジェム夫人としていましたが、これは引用の誤りで、正しくはジエム大統領の実弟で政治顧問の実力者ゴ=ディン=ヌーの夫人ですので訂正します。

Episode ひんしゅくを買った「人間バーベキュー」発言

ゴジンヌー夫人とジョンソン

マダム・ゴ・ジン・ヌーとジョンソン大統領 1961/5/12
Wikimedia Commons

 僧侶の抗議焼身自殺を「バーベキュー」だと発言したのは、当時南ベトナムの支持集めのために訪米中だったゴ=ディン=ニュー(ゴ=ジン=ヌー)夫人だった。このような耳を疑う発言をした女性はどんな人だったのだろうか。この発言当時のニューズ・ウィーク誌を見るとこんなことが書いてあった。
(引用)秘密警察の背後にいるのは飽くことなき権力欲に満ちたヌーだが、その夫人こそがゴ王朝で最も特異な人物だろう。才気豊かで魅力的な美人だが、強欲でうぬぼれが強く、権力への渇望は夫をはるかにしのいでいる。
 ヌー夫人は、南ベトナムで最も嫌われている人物と言っていい。実権は彼女と夫のヌーが握っており、ジェムは名目上の大統領にすぎないということを、国民は知っているのだ。
 ジェム個人の正直さと高潔さを尊敬しているベトナム人も、ヌー夫妻に猛烈な反感をいだいている。ジェムが弟夫妻の事実上のクーデターによって実権を奪われていることは、誰の目にも明らかだ。<『現代史の証言1945-1995』Newsweek 別冊1995.12.4 TBSブリタニカ p.145>
 さて美人といわれるとヌー夫人はどんな人か知りたくなります。松岡完氏の『ベトナム戦争』p.172には写真が載っていますが、ここで引用できる写真を Wikimedia Commons で探したら、彼女がアメリカのジョンソン副大統領と懇談しているものが見つかりましたのでお借りしました。(Madame Ngô Đình Nhu and Lyndon Baines Johnson, May 12, 1961, from LBJ library)

ゴ政権打倒の軍部クーデタ

 1963年11月1日、ベトナム共和国(南ベトナム)軍は、周到に準備した上で行動を開始、サイゴン南部の幹線道路を封鎖し首都中心部に進撃した。その中心の海兵隊はアメリカ軍の訓練を受けた精鋭部隊だった。2日未明、大統領官邸のジャーロン宮を迫撃砲で急襲した。午前6時43分、焼け焦げた大統領官邸に白旗があがり、海兵隊員が突入したが、そこにはゴ大統領と実弟のゴ・ディン・ヌーの姿はなかった。二人はカトリック神父姿に変装し地下トンネルから脱出していたのだ。その3時間後、サイゴンに隣接する中国人街のカトリック教会で、陸軍部隊がゴ兄弟を発見、再び逃走されることを恐れた兵士はその場で処刑した。大統領は頭を銃で撃ち抜かれ、弟は殴打されたあげく刺し殺された。
 こうして1955年から8年にわたったゴ政権の独裁政治は終わった。決定的な役割を果たしたのはアメリカだった。ケネディ政権もゴ政権の腐敗を断たなければ解決にならないことに気づき、新任のアメリカ大使ヘンリー=キャボット=ロッジはジェム大統領に改革を迫り、実弟のヌーと何かと政治に口を挟みたがるヌー夫人の更迭を要求したが、大統領ははねつけた。銃撃戦の始まる数時間前であった。クーデタ後、アメリカ政府は新政権をただちに承認、数週間前から減らしていた援助も元どおり復活させると発表した。<『現代史の証言1945-1995』Newsweek 別冊 p.147>