ジョンソン
アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。1963年、ケネディ暗殺に伴い副大統領から昇格し、翌年北爆を開始してベトナム戦争を本格化させた。内政では「偉大な社会」を提唱し、公民権法を実現した。1968年の大統領選挙には出馬しなかった。
大統領専用機内で大統領就任の宣誓をするジョンソン。右はケネディ夫人のジャクリーン。
ジョンソン政権下で公民権運動は一応の目的を達成し、公民権の成立や投票での差別などでは実現をみたが、その他は1964年8月2日に起こったトンキン湾事件を口実に北ベトナムへの北爆に踏みきり、ベトナム戦争を本格化させたため、軍事費の増大が財政を圧迫したため、思うような成果を上げることは出来なかった。
この軍事費増大と社会保障費の増大は、アメリカ経済の行き詰まりの原因となり、1971年のニクソン大統領の時のドル=ショックへとつながっていく。
「偉大な社会」とその後退
ジョンソン大統領は、1964年の年頭教書で、「偉大な社会」Great Society の建設を提唱した。それは、「貧困との闘い」を中心課題とし、差別の撤廃、貧困層に対する能力開発と教育改革、経済的機会の実質的平等化、社会保障制度の拡充などを内容としている。1964年7月2日に公民権法を発効させ、公民権運動に応じたものであると共に「偉大な社会」の一環とも居続けられた。また戦前からの懸案であった移民制限の問題について、1965年10月3日に改正移民法を成立させ、移民制限を解除した。公民権法成立と黒人暴動 この「偉大な社会」は総合的社会福祉計画として意義あるものであったが、現実にはそれが追いつかないほど、黒人差別が続き、黒人社会に不満が鬱積していたことは、1965年8月に投票権法が発効し、黒人公民権運動が目的を達成して終了した直後から、全米の都市における黒人暴動が頻発するようになったことで判明した。
「偉大な社会」には似つかわしくない黒人暴動は、8月11日のロサンジェルス・ワッツ地区の暴動から端を発し、この年だけで全国59の都市に波及し、64年から1972年までのあいだに300の都市でおよそ50万人が参加する暴動となり、250人が死亡し6万人が逮捕された。ジョンソン大統領は1967年7月、市民騒擾に関する全国諮問委員会を組織し、対策を検討し、暴動の底辺には人種差別主義があるとして、警察官による暴力の停止、人種統合を進める公共住宅の建設、雇用・収入増加への国庫支出などの最終報告書をまとめた。これは「偉大な社会」を実現させる具体的な処方箋であり、当時なお堅調であったアメリカ経済の成長によって可能であると考えられた。実際、統計では貧困人口は1962年の21%から73年の11パーセントへと低下した。
ところが、この社会福祉計画はまもなく大幅に削減され、大きく後退することとなった。それは間もなく始まったベトナム戦争での厖大な軍事費支出の圧迫を受けたためであり、さらにその後の景気後退とニクソン共和党政権への交代という政治の保守化によって社会福祉予算の削減が続き、1990年代のクリントン政権の次期までには制度そのものが弱体化させられてしまった。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.148>
ベトナム戦争
すでにケネディ大統領は、北ベトナム・ベトナム解放戦線の勢力拡大を阻止するために1961年に南ベトナムへの軍事支援を開始していたが、南ベトナム政府の腐敗もあって、情勢は好転しなかった。ケネディ大統領を継承したジョンソンは、当初は黒人の公民権運動への対応と、「偉大な社会」という社会保障の充実をめざしていたので、ベトナム問題への比重は高くはなかった。しかしケネディ暗殺の直前の1963年11月に軍事クーデタで権力をにぎった南ベトナム政権は国民の支持が少なく、政情不安が続く中、解放戦線の勢力拡大が続いていた。ジョンソン政権は深刻化する南北ベトナムの対立に対してより強く介入することを決意した。北爆 ジョンソン大統領は1964年8月2日のトンキン湾事件を口実に初の北ベトナムへの北爆を行った。議会に対し北爆の理由として、「アメリカ軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる」権限を大統領に与えるという決議を要請した。その結果、下院は410対0,上院は88対2という圧倒的多数の支持で「トンキン湾決議」が採択されたことを受けてのことだった。
副大統領から大統領となったジョンソンであったが、同1964年11月の大統領選挙に出馬し、「偉大な社会」建設とともに「北爆」による積極的な軍事介入への国民の審判を仰ぎ、圧倒的な支持を受けて当選した。選挙によって選ばれた大統領となったジョンソンは自信を深め、1965年2月7日から「北爆」を恒常化させ、さらに南ベトナムへの地上部隊派遣を開始した。
戦争を拡大させないための戦争 こうしてベトナム戦争に突入したが、ジョンソン政権はなおも国内政策での「偉大な社会」実現という「看板」も取り下げていなかったので、それとの両立をはかるため、ベトナムでの軍事行動は「共産化」を防ぎ、ベトナムの内戦を拡大させたいための軍事行動であり「戦争」ではないという理由で、正式な宣戦布告を行わなかった。つまり「戦争を拡大させないための戦争」という奇妙な軍事行動として実質的な戦争が行われた。
こうしてジョンソン政権はサイゴンの南ベトナム政府を維持するため1965年末までに21万人のアメリカ軍を投入、南べトナム解放民族戦線(ベトコン)の壊滅を狙ったが、激しい抵抗を受け戦争は泥沼化していった。
1967年6月には、イスラエルがシナイ半島に侵出し第3次中東戦争が起こったが、ベトナム戦争中のアメリカ・ジョンソン政権は十分な対応できなかった。
ベトナム反戦運動の激化
国内外のベトナム反戦運動は次第に激しくなり、1968年1~2月にはベトコンによるテト(旧正月)攻勢が始まってアメリカ軍は大きな被害を出し、民主党内にも停戦を望む声が強くなった。その年は大統領選挙が予定されていたが、3月にジョンソンはベトナム和平を呼びかけるとともに、涙ながらに再選出馬断念を表明した。再出馬せず 1968年大統領選挙ではジョンソンはパリ和平会談に期待をかけ、停戦が実現することで民主党の後継者ハンフリーを支援した。しかし和平交渉は双方の非難の応酬が繰り返されるだけで進展せず、国内では1968年4月にキング牧師、6月に民主党レベラル派のロバート=ケネディ(ケネディ大統領の実弟)が相次いで暗殺されるという混乱の中で、11月の大統領選挙では共和党のニクソンの当選を許した。