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南べトナム解放民族戦線/ベトコン

1960年、南ベトナムで結成された反米民族統一戦線。アメリカ側はベトコンと呼んだ。ベトナム戦争を通じ北の支援を受けながらゲリラ戦でアメリカ軍と戦い、73年にはそれを撤退させ、さらに75年にサイゴンを制圧してベトナム統一を成し遂げた。

 ベトナム共和国統治下の南ベトナムで、1960年12月20日、反アメリカと反ゴ=ディン=ジェム政権を掲げて民族統一戦線が結成された。カンボジア国境沿いのタイニン省のある村に集まったメンバーは、党員以外にも労働組合、農民同盟、青年同盟、学生などであった。議長はグェン=フー=ト。組織としてはベトナム労働党南部中央局の指導を受ける、幅広い統一戦線であった。1年間に組織を拡大させ、以後、ベトナム戦争での抗米救国を掲げたゲリラ戦を展開し、アメリカ側から「ベトコン」(ベトナム人の共産主義者)と言われて恐れられた。
注意 ベトコンは蔑称 日本では広くベトコンという言い方がされた。しかしこの言葉は、アメリカ軍が彼らを蔑視してそう呼んだものであり、正しい呼称ではない。アメリカのマスコミは、ケネディとジョンソンによって進められたベトナムへの軍事介入を、当初はベトナムの共産化を防止する正しい戦争とする政府見解をそのまま宣伝し、ベトナム人を一段と劣った民族とみていたため、解放戦線の兵士を「ベトコン」と蔑称で記事を書き、戦争はすぐに片がつくように楽観的に報道していた。このアメリカのマスコミを鵜呑みにした日本のマスコミも、ベトコンという言葉を無批判にひろげ、ベトナム人への一定のイメージを振りまいた。それは当初は蔑称であったが、彼らの抵抗は激しく、ジャングルの戦いで殺しても殺しても次々と出現してアメリカ兵を悩ますようになり、次第に恐ろしい響きを持つようになったのだった。

ベトナム戦争

 解放戦線は、ナパーム弾、高速ヘリ、枯葉剤などを用いたアメリカ軍の攻撃に対し、南ベトナムのジャングルでゲリラ戦で抵抗、容易に屈しなかった。大量の兵員と物資を投入したアメリカ軍は解放戦線を制圧することができず、犠牲も増大していった。解放戦線側は、隣国カンボジアを通るいわゆるホー=チ=ミンルートによって北ベトナムから武器や食糧の補給を受け、有利なゲリラ戦を展開した。
テト攻勢 1968年1月末には、いわゆるテト攻勢(テトとはベトナムの旧正月のこと)をしかけ、装備では優位なアメリカ軍を追いつめていった。それによってアメリカ首脳もベトナム戦争の収束を検討し始め、同1968年5月年からパリ和平会談が始まった。
 アメリカのニクソン政権は、有利な講和条件を得るために優位を回復しようとして、北ベトナムによる解放戦線支援ルートを断つことを狙って1970年にカンボジアに侵攻、さらに翌年にはラオスを空爆した。しかし、カンボジア、ラオスでも民衆的抵抗は根強く、アメリカ軍は作戦に失敗した。

ベトナム統一を達成

 1973年1月27日パリ和平協定が成立し、3月にアメリカ軍が撤退すると、解放戦線と南ベトナム政府軍との内戦となり、解放戦線軍はホー=チ=ミン作戦と称してサイゴンに迫り、1975年4月30日、ついにサイゴンを陥落させ、ベトナム戦争に勝利した。
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