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ベトナム戦争

ベトナムの共産化を阻止する口実でアメリカは1965年から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援、北爆を行い地上軍を投入、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。戦争は長期化したが、68年、解放戦線によるテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まり、73年には撤退した。75年には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北によるベトナム統一が行われ、完全に終結した。

 ベトナムが南北に分断された後、南ベトナムを支援して介入したアメリカ合衆国は、北ベトナムの共産党政権が南に及ぶことを強く警戒した。南ベトナムでは南ベトナム解放戦線が反米と傀儡政権打倒の戦いに立ち上がっており、政府の動揺が続いていた。アメリカはベトナム全土の共産化は東南アジアの共産化につながるという「ドミノ理論」を根拠として北ベトナム攻撃を決意、1964年8月2日トンキン湾事件を口実に最初の爆撃を加え、1965年2月7日に本格的な北爆を開始し、1965年3月7日には陸上部隊を南ベトナムに派遣、全面的な戦争に突入した。
 第二次世界大戦後の東西冷戦中で最も激しい戦闘が展開されたが、ベトナム民衆の抵抗、アメリカ内外での広範なベトナム反戦運動の高まりによって最終的には1973年3月29日までにアメリカ軍がベトナムから撤退し、1975年4月30日サイゴンが陥落してベトナムは北ベトナムによって統一され、76年にベトナム社会主義共和国が成立した。 → アメリカの外交政策

★ベトナム戦争とは

 ベトナム統一の主導権をめぐって南北ベトナムの勢力が対立する中でインドシナの共産化を恐れたアメリカが介入し南を支援したのに対し、北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が協力し、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と戦った戦争と定義できる。さらに途中からは隣国のカンボジアラオスに拡大したので、第1次インドシナ戦争(1946~54年)に続く、第2次インドシナ戦争とも言われる。戦争範囲がベトナムにとどまらず、ラオス、カンボジアに拡がったことに注意すること。

★ベトナム戦争の期間

 ベトナム戦争は、一般的に1964年8月のトンキン湾事件か、翌65年2月の北爆本格化の開始からとされることが多い。終わったのは、アメリカが敗北して撤退したのが1973年1月、サイゴンが陥落してベトナム統一ができたのが1975年4月、のいずれかをとる。したがってアメリカが本格的に関わっていた時期だけでも8年以上となる。(これはアメリカが関わった戦争でもっとも長期にわたるものである)

★ベトナム戦争の前史

 第1次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーヴ休戦協定が成立した後、フランスに代わってアメリカのアイゼンハウアー大統領がアジアの共産化阻止の世界戦略をかかげ、1955年にはSEATOを結成して介入を強め、南のベトナム共和国に親米政権(ゴ=ディン=ジェム政権)を樹立した。それに対してホー=チ=ミンの指導する北ベトナムは1959年に南ベトナムの武力解放の方針を決定、1960年12月、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を結成した。1961年1月に就任したケネディ大統領が、積極的な軍事支援を開始、1962年2月にサイゴンに軍事援助司令部を設置した。これによって南ベトナムにおけるベトコンとアメリカ軍の小規模な衝突が始まった。アメリカは南のゴ=ディン=ジェム政権を統治能力なしと見限って、1963年11月、南ベトナム軍によるクーデタを黙認、テコ入れを図ったが、政情不安は続き、同年、ケネディを継いだジョンソン大統領は南ベトナムの情勢を好転させるため、北ベトナム直接攻撃に踏み切る方策を探った。

★ベトナム戦争の開始

 ベトナム戦争は「宣戦布告なき戦争」であったので、いつ始まったかについては諸説ある。すでに南ベトナムでのアメリカ軍とベトコンの戦闘は始まっていたが、ベトナム戦争をアメリカ軍と北ベトナムの戦争ととらえれば、ジョンソン大統領が1964年8月2日の「トンキン湾事件」を口実に議会から大統領への戦争権限の付与を取りつけ、北ベトナムを爆撃した最初の北爆の時点か、または1965年2月7日の「北爆」の恒常化からか、さらに1965年3月7日、地上軍20万人が投入(南ベトナムのダナンに上陸)された時のいずれかがあげられる。一般には、北爆の本格化と地上軍の投入された1965年をベトナム戦争の開始とされることが多い。その後、アメリカの派遣兵力は69年6月には54万人に膨れあがり、ベトナム全土を戦場とする掃討作戦が展開され、泥沼化していった。
 「限定戦争」 ジョンソン大統領が正式な宣戦布告をしなかった理由は、国内向けの「偉大な社会」建設という社会政策と両立させるためであった。また、当初は北爆にとどめ地上軍を北進させなかったのは朝鮮戦争の記憶から北進すれば中国軍の参戦の危険があると考えたからであった。米軍指導部には大規模な陸上部隊の北進か北ベトナムへの核攻撃さえ主張する者がいたが、ジョンソンは共産勢力の浸透を留め、ベトナムの戦争を拡大させないための軍事行動、つまり「限定戦争」であるとして国民の理解を得ようとしたのだった。<油井大三郎『ベトナム戦争に抗した人々』世界史リブレット125 2017 山川出版社 p.29>
 「お茶の間戦争」 ジョンソンが宣戦布告しなかったため、正式な戦争ではないので報道統制をする根拠がなくなり、報道機関は自由に報道できた。その結果、「お茶の間戦争」といわれたように悲惨な戦闘シーンがそのままテレビなどで各家庭に流されるようになった。しかも泥沼化した戦場は本格介入から1年近く経っても戦況が好転せず、世論調査でもベトナム戦争を「正しい」とする者は65年8月には61%であったのが、翌年5月には49%に減少し、「誤り」とする者が24%から36%に増加した。<油井大三郎『同上書』 p.27,29-30>

★ベトコンのゲリラ戦と和平交渉の開始

 アメリカ軍が全面的に南ベトナム軍を支援したのに対し、1960年には南べトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、かれらのゲリラ戦術はアメリカ軍を悩ました。1968年1月の解放勢力側のテト(旧正月)攻勢から形勢は逆転し、1968年5月からパリ和平会談が始まった。このころ、アメリカ国内や世界各地でのベトナム反戦運動が盛り上がり、1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、ベトコン掃討作戦中のアメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む約500人を殺害した事件)が明るみに出て、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。

★ベトナム戦争の拡大

 1969年1月に就任したアメリカのニクソン大統領はベトナム反戦運動の高まりの中でベトナムからの撤兵を決定したが、1970年以降は一転してカンボジア、ラオスに戦線を拡大した。アメリカは1970年にホー=チ=ミン・ルートの遮断と称してカンボジアに侵攻し、さらに1971年にはラオス愛国戦線(パテト=ラオ)の勢力拡大を阻止するためラオスに空爆を加えた。こうして戦火はカンボジア・ラオスを含むインドシナ半島全域に拡大し、「第2次インドシナ戦争」の様相を呈した。

★米ソの転換

 このアメリカの戦争拡大は内外の反発を受けたが、ベトナム側もそれを支援するソ連と中国の関係が悪化(中ソ対立)し、複雑な国際関係の中で交渉は進捗しなかった。また戦争の長期化はアメリカ財政を圧迫し、ドル危機の一因ともなったため、1971年にニクソン大統領は金とドルの兌換を停止に踏み切った。このドル=ショックは戦後の西側世界のアメリカ一極時代を終わらせることとなった。

★ベトナム戦争の終結

 そんな中、1972年2月、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領の中国訪問を実行し、続いてソ連も訪問して中ソの対立を光明に利用しながら、ベトナム孤立化を図った。この間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を以前に増して激しく行った。パリ和平会議の舞台裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、アメリカ軍は撤退するが南ベトナム政府の存在を認める点で妥協が成立し、ようやく1973年1月27日ベトナム和平協定が締結された。
 それによって3月にアメリカ軍のべトナム撤退が開始され、アメリカのベトナム介入は実質的に終わりを告げた。その後、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月30日、南ベトナム解放戦線のホー=チ=ミン作戦によって首都サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊し、アメリカ大使館員もサイゴンを離れた。これでようやく最終的にベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。

★ジョンソン政権の基本戦略

 なぜジョンソン大統領は結果的に長期的な泥沼の戦争となり、アメリカの歴史上初めての敗北となった対外戦争に踏み切ったのであろうか。ベトナム政策はケネディ大統領の外交政策を継承したものであったが、1965年に北爆恒常化と陸上部隊投入によってベトナム戦争を開始した大統領として歴史に名を残すことになったジョンソン大統領であったが、彼は民主党のリベラル派に属し、上述のように彼は「偉大な社会」建設という国内政策も同時に掲げていたので、それと両立させるためには全面的な戦争に踏み込むことはせず、トンキン湾事件を口実に(現在では事件そのものがデッチ上げだったことがわかっている)議会から戦争権限を付与され、宣戦布告をしない軍事行動としてベトナム戦争を開始した。大義名分はアジアの共産化を防止すること、ベトナムの内戦を終わらせるためミンミベトナム政府を支援すること、であり、前提はホーチーミンに率いられたベトナム人と北ベトナム軍を過小評価し、戦争はすぐ終わるだろうという楽観的な見通しだった。ただし、北ベトナムへの直接的な侵攻は朝鮮戦争と同じような中国軍との直接戦争となので、避けなければならない、というのが基本的な戦略だった。
キング牧師のベトナム戦争批判 この大統領の判断は、世論調査でも国民的な支持を受けていたことがわかる。一部のラディカルな平和主義者、反戦主義者を除き、多くの国民はある意味で抑制的だったジョンソンの戦略を支持(遠いアジアのことなので余り関心がなかったと言うこともあるかもしれない)したといって良いだろう。なぜベトナムにまでアメリカの青年が出かけていって戦うのか、ということに根元的な疑問を呈したのはごく少数だった。しかし、戦争が長期化することによって、戦争の実態とその矛盾が次第に明らかになり、反戦運動が盛り上がりを見せるようになる。ここでは代表的なベトナム戦争批判としてキング牧師の例を取り上げてみよう。  アメリカの黒人差別に反対する公民権運動は、1964年7月公民権法が制定され、一つの段階が終わっていた。翌1965年、ベトナム戦争が本格化すると、運動の指導者キング牧師にとって悩みは大きくなった。キリスト教の信仰に基づいた非暴力主義で運動を指導してきたその立場からは当然、戦争反対を唱えた。しかし当初の国民はアジアの共産化を防ぐための正しい戦争であるという政府の主張を熱狂的に支持していたため、キング牧師の主張は孤立した。他の多くの黒人運動指導者も黒人の地位向上のためには政府を支持し、戦争に協力すべきだと主張した。
(引用)キング牧師はベトナム戦争を「本質的に誤った戦争」とみなしていた。ベトナム民衆の悲願は民族自決であり、資本主義か共産主義かの選択は当事者に任されるべきである。ベトナム民衆が共産主義に傾くとすれば、それは資本主義が失敗してきたからである。アジアやアフリカを植民地化してきた近代西欧列強の多くが資本主義国家である事実を忘れてはならない。だから、共産主義拡大を予防したいなら、むしろアメリカがベトナム民衆の側に立って、人種主義、経済搾取、戦争の除去に真剣に取り組み、民主主義を推進することが必要だと考えた。
 ところが、アメリカは全く逆のことをしてきた。共産主義の拡大阻止を理由にフランスのベトナム再植民地化を支援し、ジュネーヴ協定調印を拒否した。この段階でアメリカは道を誤ったとキングは認識する。アメリカ独立宣言の革命精神に触発され、フランス植民地支配からの独立に立ち上がったベトナム民衆を、アメリカはフランスに代わって暴力的に抑え込もうとしている。ベトナムに人種差別、経済搾取、戦争の「三つ組の悪」をもちこんでいるのは、今やアメリカにほかならないではないか、と。<黒崎真『マーティン・ルーサー・キング―非暴力の闘士』2018 岩波新書 p.169-170>
 キング牧師は1967年4月、ニューヨークのリバーサイド教会でベトナム反戦演説を行い、きびしく政府を批判した。このため政府支持派はキング牧師から離れ、黒人解放運動に分裂が生じたが、キング牧師はたじろくことなく反戦運動を展開した。しかしそれはやがて彼が暗殺という悲劇に遭う伏線となった。

★ニクソン政権の基本戦略

 ベトナム戦争の行きづまりが明らかになった1968年の選挙ではジョンソン大統領は勝ち目がないと判断して出馬しなかった。民主党の後継候補ハンフリーを破った共和党のニクソンは、選挙公約で「名誉ある和平」と「法を秩序」を掲げて当選した。名誉ある和平とは北ベトナムとの和平に応じアメリカ軍を撤退させるが、南ベトナム政府を見捨てることはしない、つまり南ベトナムにアメリカの足場を残すことということであった。そのためパリ和平会談での和平交渉が難航することは織り込み済みだった。国内では戦争終結の声が強まっており、それに応じることを表明して大統領となったのだから、和平交渉は進めなければならない。しかしニクソンにとってできるだけアメリカにとって有利な講和を実現しなければならなかった。そこでニクソンが取った戦略は、北ベトナム軍の南への浸透を阻止するために、カンボジアとラオスに侵出してその支援ルートを叩くこと、北爆を強化し北ベトナムに恐怖心を与えること、であった。ニクソンのもう一つの戦略は、アメリカの戦略を軽減するためにアジア各国に相応の負担を要求することで、それはニクソン=ドクトリンとして発表された。
キッシンジャー外交 その際最大の難点は北ベトナムの背後にある中国の存在だった。そこで登場したのがニクソンの外交顧問キッシンジャーである。キッシンジャーの鋭い分析は中国とソ連の対立を利用して、中国にベトナム支援に動けないようにすることだった。そうすれば北ベトナムも屈服するだろうと踏んだ。キッシンジャーの電撃的な動きでニクソン政権は中国、ソ連と個別に渡りをつけた。ところがキッシンジャーの見通しのようには行かなかった。それは北ベトナムが中国・ソ連の支援がなくともアメリカとの戦争をやり抜くと表明したことだった。こうなると、もともとタカ派であるニクソンは、国民との公約などなかったかのように戦争継続どころか、カンボジア・ラオスへの戦線拡張、さらには北爆再開へと向かわざるを得なくなり、それが結局アメリカ軍の軍事的敗北へという結果となった、とあらすじを描くことが出来る。

★ベトナム戦争のその後

 ベトナム戦争は第二次世界大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。
 東南アジアでの民族運動の高まりに伴う対立は、中国とソ連の対立を背景にして複雑化し、1975年4月17日にはカンボジアで親中国派のポル=ポト政権が成立して親ソ派のベトナムと対立し、1978~79年にベトナムとカンボジアの国境紛争が発生してベトナム軍がカンボジアに侵攻(第3次インドシナ戦争)した。1979年1月にはベトナム軍がカンボジアを制圧、それに対して2月に中国軍がベトナムを懲罰すると称して侵攻して中越戦争が興った。
 その後もカンボジア内戦が続いたが、ソ連にゴルバチョフ政権が成立して大きく路線を転換した影響で、1986年にベトナムは改革路線(ドイモイ)に転換、中ソ関係の改善も進み、1991年のカンボジア和平協定成立によって内戦は終結した。1995年にベトナムはASEANに加盟、また同年ベトナムとアメリカの国交が回復し、ベトナム戦争は過去の出来事となった。2006年にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)がハノイで開催され、ブッシュ大統領や安倍首相も参加し、ベトナムがベトナム戦争の時代からまったく変化したことを世界に示した。

1965年のアジア

昭和40年。2月、アメリカによるベトナム北爆が開始され、ベトナム戦争が本格化した年のアジアは次のような状況だった。

 アメリカがベトナムへの北爆を開始した1965年には、アジアは他でも激動が起こり、9月に第2次インド=パキスタン戦争が勃発、インドネシアでは九・三〇事件が起こってスカルノからスハルトへの政権交代が始まった。
 年代後半から70年代にベトナム戦争を背景として他のアジア諸国では開発独裁の時代がさらに明確となったと言える。インドネシアのスハルト、フィリピンのマルコス、韓国の朴正煕がその典型である。日本はこの年、その朴正煕の韓国と日韓基本条約を締結した。この前年、1964年には東京オリンピックが開催され、戦後日本は経済の復興をアピールした。朝鮮戦争での朝鮮特需で日本は経済復興の足がかりをつかんだが、このベトナム戦争によって対米輸出を増大させ、今度は高度経済成長を遂げていくこととなる。
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書籍案内

松岡完
『ベトナム戦争
―誤算と誤解の戦場』
2001 中公新書

小倉貞男
『ドキュメント
ヴェトナム戦争全史』
2005 岩波現代文庫

古田元夫
『歴史としてのベトナム戦争』
1991 大月書店

沢田教一
『泥まみれの死 ベトナム写真集』
Kindle版
1999 講談社文庫

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『プラトーン』
監督 オリバー・ストーン
1986 アメリカ映画

戦場でのアメリカ軍の姿を描いている。数多いベトナム戦争映画でも最も良心的で、映像的にも優れている。

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