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ワシントン大行進

アメリカの黒人公民権運動が高揚した1963年8月に行われた。キング牧師が有名な「私には夢がある」の演説を行った。

Civil Rights March on Washington, D.C. (A wide-angle view of marchers along the mall, showing the Reflecting Pool and... - NARA - 542045

ワシントン大行進 1963/8/28
Wikimedia Commons

1963年8月28日キング牧師の呼びかけで全国から多数の黒人がワシントンに集結し公民権運動のピークとなった運動。この年は、リンカンが奴隷解放宣言を出してからちょうど百年目にあたっていた。これは50~60年代に高揚したアメリカ黒人による憲法(修正第13条など)に保障された基本的人権を守ること、具体的にはケネディ大統領が6月19日に議会に提出した公民権法案を今すぐ制定せよ、と議会に圧力をかけることが目的であった。当日の運動の有様は次のように説明されている。
(引用)リンカン大統領が奴隷解放宣言を公布してから、ちょうど100年目にあたる、この年の夏-1963年8月28日、首都ワシントンには、おびただしい人の波が、”1963年までに完全解放を!”との標語のもとに、うしおのように押しょせた。大部分は黒人だったが、白人も少なくなかった。老いも若きも、男も女も、職にあるものも失業中のものも、あらゆる階層のあらゆる人びとが、この地にやってきた。林立するプラカードには、黒人たちの切実な願いをこめたいくつもの要求が掲げられていた。”一切の黒人差別を、ただちに廃止せよ!”、”今こそ、自由を!”、”官憲の残虐行為を、即刻やめよ!”、”白人と平等の賃金を、今すぐ!”、”新公民権法の即時無条件成立を!”等々……。どちらを向いても、”今すぐ!”という言葉が、まず目にとまった。集合予定時刻の午前10時までに、ポトマック川畔の緑地帯を目指して続々と集まってきた人びとの群れは、その中心部に聳え立つ高さ555フィートのワシントン記念塔の周辺を埋めつくし、”われら、うち勝たん”、”力強い砦”、”おお、自由を”などの歌声が、あたり一面に高らかにひびきわたった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史新版』1991 岩波新書 p.207>

キング牧師の演説

 行進の道程は1マイル程度であったが、まず前日の8月27日に遠くアフリカのガーナの首都アクラで95歳で亡くなった、人種差別撤廃運動の先駆者であり「アメリカ近代黒人解放運動の父」と言われるW.E.B.デュボイスの霊に黙祷を捧げ、リンカン記念堂に向かって炎天下を歩きはじめた。午後二時、黒人労働運動の指導者ランドルフ議長が開会を宣言、各団体代表が次々と演説、夕方近くなって壇上にキング牧師が姿を現し、集会はクライマックスを迎えた。 → キング牧師
 このあと10項目の要求を満場一致で採択し、集会は解散し、代表団がホワイトハウスに赴き、ケネディ大統領に公民権法案の早期成立を要請すると共に、黒人の地位向上について一層の努力と尽力を要請した。

組織された大行進

 ワシントン大行進は、事前に周到に準備され、組織的に行われた。キング牧師とA.フィリップ・ランドルフなど黒人代表は、目的をケネディ大統領が公民権法案を骨抜きにせず、確実に成立させるように圧力をかけうことに置いた。6月22日に代表はケネディとホワイトハウスで会談して「ワシントン行進」の構想を説明し、公民権法を成立させる必要を訴えた。ケネディは集会が秩序だって行われるなら、政府はこれを支持すると約束した。
(引用)国民世論の支持を勝ち取ることを目的としたこの8月28日のワシントンでの集会は、決して暴力的混乱を起こさず、逮捕者を一人も出さないことが目指された。そのために、集会の準備は周到に行われた。悪天候への備え、救急医療態勢、輸送態勢、トイレの準備、飲み水、食料の準備が検討され、集会にどんな服装で集まり、どこに誰が集まり、どんなプラカードを掲げ、どんなスローガンを唱和するか、そして何よりも、どのような演説や演奏を行うかなどが細かく決められた。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.135>
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本田創造
『アメリカ黒人の歴史新版』
1991 岩波新書