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公民権運動

1950年代後半から60年代前半に活発となったアメリカの黒人の基本的人権を要求する運動。キング牧師らが努力した非暴力による運動が広範な支持を集め、ケネディ大統領が公民権法制定を準備し、その暗殺後の1964年に公民権法が成立、さらに翌65年に選挙権法が制定され、選挙権の平等などが実現した。しかし社会的不平等が解消されないまま、60年代後半から黒人の暴力による抵抗も認めるブラックパワーが対等、ベトナム戦争の混迷もあって、1968年にキング牧師が暗殺され、黒人問題は根元的な解決は困難な状況となった。

 1863年の奴隷解放宣言、65年の憲法修正13条によってアメリカ合衆国の奴隷制度は廃止されたが、黒人は合衆国の連邦レベルでは法的な平等が認められたものの、現実には経済的な自立が困難な貧困の状態に置かれたことと、南部諸州での州レベルでの隔離政策の合法化されたことによって黒人差別はなおも続いた。
 特に1890年代以降、そのような差別的な州法や政策が相次ぎ、黒人は職業や居住、教育などの自由を奪われ、選挙などの権利を事実上剥奪される状態となった。すでにその段階から、黒人の中から差別に対して立ち上がり、権利を要求する運動が始まっていたが、白人人種主義者による暴力的な抑圧と、「隔離しても平等」という新たな法的根拠によって、20世紀に入ってもアメリカでの人種差別は続いた。ようやく第二次世界大戦後に、世界的な植民地解放などの動きの中で、アメリカの黒人の中に新たな解放運動として始まったのが、1950年代後半から60年代前半に高揚した「公民権運動」 Civil Rights Movement であった。「公民権」Civil Rights とは、選挙や社会生活、教育などの市民として権利のことであり、それは具体的に言えば、合衆国憲法修正第13条、第14条、第15条を条文の通りに実行せよ、というまっとうな内容であった。様々な局面での黒人差別を廃止せよ、という要求が公民権運動ということばに集約されたのである。
POINT 解放後も黒人に対する差別が続いたこと  アメリカ合衆国は南北戦争という大きな犠牲を払って黒人奴隷制度を廃止し、南北の分断を克服して民主主義国家として統一を維持した。その成果は立て続けになされた三つの憲法修正によって合衆国レベルにおいては確定した(ように見える)。  南北戦争で分離した南部11州もこれらの憲法修正を認めたことで復帰した。この南部の「再建期」に、憲法修正が厳格に守られたならば、アメリカ合衆国では黒人差別はこれで解消されたはずである。ところが、現実には南部諸州では黒人差別が続き、黒人には実質的な選挙権などの基本的人権が制限された。それは南部諸州では巧妙な州法により、黒人投票権が制限されたためであり、北部では白人と黒人の経済格差が広がったために差別感情が強まり、黒人分離政策が各州で取られたからである。さらに黒人取締法によって黒人の自由や権利を求める運動は取り締まりの対象とされた。これらの南部再建期以降のアメリカにおける黒人差別の法的・政策的枠組みはジム=クロウ法とも言われた。法的枠組みの中で行われた黒人差別は、さらに1890年頃からリンチなどの暴力的な黒人排斥を助長した。20世紀に入ると黒人の暴力的な反撃から人種騒動が大都市で頻発するようになる。
 根強い州権主義 南部で合衆国レベルでの人種差別禁止が守られず、むしろそれを合法化したことの論拠となったのは、建国以来続いている州権主義(アンチ=フェデラリズム)の理念であり、憲法の「原則」には従うが、実際の社会生活や教育などは州に主権がある、というものであった。アメリカでその考えは連邦議会、連邦政府の中に南北戦争後も一定程度常に存在するので、憲法修正が行われても、あるいは連邦最高裁の判断が出ても、必ずしも全州に徹底されるわけでは無かった。

黒人公民権制限の合憲化

 憲法修正で黒人の人権が確立し、自由と平等が保障されたかに見えたが、いわゆる南部の「再建期」に強烈な反動期が現れ、黒人差別は選挙権の剥奪以外にも強まった。1883年にはアメリカ最高裁判所は「アメリカ国民に与えられた公民権は、そもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けない」という判決を出したことによって、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、州法や市条例その他の法律で法制化されていった。とりわけ、1896年5月18日アメリカ最高裁判所がルイジアナ州の列車内の黒人隔離に関して下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)で、「隔離はしても平等」なら差別ではないとする有名な原理が確立した。これによって南部諸州の人種差別立法は合憲であることが確定し、その後、半世紀にわたって、両人種のみならず、アメリカの人種関係全般を支える法的原理となった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』1998 岩波新書 p.144、p.168>

黒人に対する暴力

 南部諸州の黒人差別に対して、黒人の中にも抵抗するものが現れたが、その反動はKKKなどの白人人種主義者による集団的暴力であるリンチが横行するという悲劇を各地で生んだ。黒人に対するリンチは熱狂的な人種主義(レイシズム)によるだけでなく、普通の白人市民が平然と加わったところに問題の深さがある。その背景には20世紀に急速に成長したアメリカの資本主義の中で、黒人労働者は低賃金労働力としてその成長を支えたが、それによって仕事を奪われたと感じた白人労働者の不満の捌け口となった側面もある。都市部においては、しばしば深刻な衝突が起こり、その多くは黒人暴動と捉えられたが、人種的な偏見と恐怖心が双方に根強かったことが犠牲者を多くしたと考えられる。
 そのような状況から黒人を救済しなければならない、という考えも一部の白人の中に生まれ、1909年には全国黒人向上協会(NAACP)が組織された。その運動は、黒人の地位向上のために差別を裁判に訴えようとするものだった。しかし、その運動には穏健で妥協的なグループから、急進的で非妥協的な勢力まで多彩であり、裁判闘争そのものも十分な効果を上げることは出来なかった。
 白人暴力の背景 それにしてもリンチなどの白人の暴力行為はなぜ野放しにされたのだろうか。もちろん、暴力行為としては取り締まりの対象となって犯人は逮捕されるが、たとえ逮捕されて裁判になっても、陪審員が白人だけである裁判所の判決は、ほとんどが無罪となったので、事実上、白人の黒人に対する殺人を含む暴力行為がまかり通っていたのだった。

黒人解放の世界的ひろがり

 第一次世界大戦に際して、ウィルソン大統領が十四カ条の原則を掲げ、その中に民族自決の理念を加えたことは、アメリカ国内の黒人にとっても解放の好機と捉えられた。NAAPCの中の黒人指導者であったデュボイスは、人種差別問題を1919年のパリ講和会議で訴えようと行動しており、世界史的な広がりを持つ動きとして注目される。アメリカ大統領にとっても国内における黒人差別問題は一種のアキレス腱となる恐れがあった。しかし、デュボイスの訴えはパリ講和会議では無視された。その代わり、かれはパリでアフリカやカリブ海の植民地から来ていた黒人たちと共同し、はじめてパン=アフリカ会議を開催した。その動きは後のアフリカ諸国の独立につながることになる。

第二次世界大戦

 第二次世界大戦が始まると、アメリカ政府は戦争のために、国内の人種対立や宗教的な違いを克服して、国民を総動員する必要が生じた。フランクリン=ローズヴェルト大統領は1941年6月に大統領行政命令で「防衛産業や政府機関の雇用では人種、信条、肌の色、出身国の違いで差別してはならない」と述べ、後を継いだトルーマン大統領は1946年12月、人種差別撤廃をめざす公民権委員会を発足させた。また48年7月の大統領行政命令で軍隊内の人種差別を撤廃し、朝鮮戦争でアメリカ史上初めて「隔離なき統合された軍隊」が編制された。<本田創造『前掲書』 p.169>

公民権運動の世界史的背景

 ここで灯された黒人解放の世界的な潮流は、第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立運動、植民地闘争へと受け継がれ、1960年のアフリカの年での一斉独立となる。この動きはアメリカの黒人解放運動とも無関係ではなかった。アフリカの独立運動の中心となった黒人の中にはアメリカに留学して人権思想を学んだ者も多かった。世界的にも、南アフリカにおけるあからさまな黒人差別であるアパルトヘイトに対する非難も強まっていた。
 アメリアにおいても、1960年11月の大統領選挙で勝利した民主党ケネディ大統領は、北部の黒人票を支持基盤としていたのであり、公民権法実現に取り組むのはその公約であった。この段階のアメリカ白人社会は黒人との共存を当然のことと受け入れ、また冷戦の中でのアメリカは国際世論の支持を受けるためにも黒人差別の廃止は避けられない措置だった。このように1950年代に黒人自身の間で強まったのが白人と平等な諸権利を要求する公民権運動であったが、背景にはアメリカ黒人が戦争中に兵士として動員されたことで戦後は平等な権利を求める声を強くすることができただけでなく、白人社会の状況の変化と国際環境の中で展開されたのだった。
最高裁のブラウン判決 1954年5月17日、カンサス州での黒人の公立小学校への編入問題が争われた「ブラウン対教育委員会裁判」で、最高裁は公立学校での白人と黒人の人種分離教育は憲法違反であるという判決を出した。これは「分離すれども平等」の原則にもとずく分離政策は不平等であり、憲法修正第14条に違反するという、黒人差別批判で画期的であり、戦後の民主主義の進歩を示す判決だった。しかしそれにもかかわらず、南部の現実は依然として強固な差別意識が存在していた。このころから黒人による公民権運動が始まり、時の共和党ケネディは大統領選挙を控えて、黒人票を得るためにも公民権実現に理解を示し、さらに国際的に高まるアフリカなどの黒人の民族運動に対応する必要が出ていた。

公民権運動の展開

 しかし、歴史を動かしたのはまぎれもなく黒人自身の手による、公民権の確立を要求する新しい抵抗運動だった。50~60年代の公民権運動は広範囲なものだったが、その中の象徴的な出来事には次のようなものがある。
バス=ボイコット運動 後に公民権運動の指導者の一人として知られるようになるキング牧師は、1955年12月6日のアラバマ州モントゴメリーでバス=ボイコットを指導、その非暴力主義による抵抗は、黒人の意識を変え、同時に白人に黒人の要求の真剣さをわからせることとなった。この運動はローザ=パークスという一人の女性が、バスの白人用座席に座り、運転手から立つように言われたのに「ノー」と言ったことから始まった。パークスが条例違反で逮捕されると町中の黒人が抗議行動に立ち上がった。指導に当たった弱冠26歳で当時は無名だったキング牧師は、大集会で非暴力による抗議行動としてバス乗車拒否を提案した。黒人が通勤の足としてバスを利用していたので、歩くのはたいへんだったが、バス会社はもっと大きな損害を被った。激昂した白人の一部はKKKを先頭に黒人に襲いかかり、キングの家にも爆弾が投げ込まれた。しかし黒人とキングは暴力に耐え、1年間の乗車拒否を貫いた。白人の中には黒人の運動を応援する者も現れ、バス会社も倒産寸前に追いやられた。ついに1956年11月13日、連邦最高裁は「バスの人種隔離は違憲である」との判決を下し、モントゴメリー市当局も12月20日にその通達を受け入れ、黒人の運動は成功した。黒人がアメリカ人としての当然の権利を認められたことは、公民権運動の最初の成果となった。
リトルロック事件 さらに1957年9月24日にはアーカンソー州リトルロックで、黒人の高校生の公立高校への入学を州知事が拒否したことから世界的な注目を浴びることになった。「人種共学」は公民権の中でも、保守派・人種主義者が最も強く抵抗していた。リトルロックの教育委員会が裁判所の命令に従い、9人の男女の黒人生徒を9月新学期から公立高校への入学を認めたことに対して、保守派のフォーバス州知事は拒否を表明した。秋の選挙を控え、白人票を得るためだった。フォーバス州知事は州兵を動員して黒人生徒の登校を妨害、集まった白人群衆も黒人生徒とその親たちに「黒ん坊(二ガー)を学校から追放してジャングルへ追い返せ」などと叫びながら、威嚇し暴力を加えた。そのため黒人生徒は登校できなくなった。事態をようやく重視したアイゼンハウアー大統領は、9月24日、アーカンソー州兵を連邦軍に編入すると共に、連邦軍の第101空挺師団に出動を命じ、翌日、1000人の連邦軍に守られた9人の生徒はようやく校門をくぐり、リトルロック高校に入学できた。しかしその後も学校教育での「人種共学」は各地で衝突をもたらし、何らかの政治的決断、法的措置が必要であることが明らかになっていった。1960年の大統領選挙に民主党から出馬したケネディは、人種差別問題に積極的にあたることを公約して当選したが、同時に大きな試練に立ちむかうことになった。
シット・イン運動 1960年2月1日にノースカロライナ州のグリーンズボロで4人の大学生が、学生食堂の白人専用席で座り込み運動を始めた。たちまち全米の大学生の中に同調する動きが広がり、中には白人学生も含めて、各地の食堂や公共施設での座り込み(シット・イン)運動が広がった。グリーンズボロから州都ローリー、さらにアラバマ州モントゴメリのアラバマ州立大学、テネシー州ナッシュビルのフィスク大学など、食堂座り込みがひろがり、それを排除しようとする白人暴徒が暴力をふるう。警官は白人の暴力を止めようとせず、黒人を次々と逮捕した。シットインは大学のランチカウンターから人種差別をしている他の場所、海水浴場、映画館、図書館などにひろがっていった。

Episode ティー・パーティ事件ならぬコーヒー・パーティ事件

 グリーンズボロの学生食堂のランチカウンターに坐った4人の学生はコーヒーを注文した。しかしマスターはコーヒーを出さない。学生たちはコーヒーが出るまでそこを動かない。困ったマスターが白人に助けを求める。集まった白人たちは口々に「黒ん坊は出ていけ!ここはお前たちが来る所じゃないぞ!」と怒鳴りながら、力ずくで学生たちを追い出す。学生たちは抵抗しないが、また次の日やって来て座り込む。こういった光景が連日、南部各地の大学で繰り広げられた。こうして「グリーンズボロのコーヒー・パーティ事件」は、1960年代の「黒人革命」の前哨戦として、それより200年まえの独立革命期に起こったあの「ボストン・ティー・パーティ事件」にも比すべき歴史的役割を果たした。<本田創造『前掲書』 p.190>

運動の高揚

自由のための乗車運動 人種差別に反対する白人と黒人によって結成された人種平等会議(Congress of Racial Equality CORE)のメンバーは、州を超えた長距離バスにおける人種分離を禁止した最高裁判決がどれだけ守られているかを調査するため、首都ワシントンから南部ニューオリンズまでの長距離バスに乗り込んだ。その運動は「自由のための乗車運動(フリーダム・ライド) 」と呼ばれ、参加者は非暴力を貫くことを誓い、1961年5月4日、女性二人を含む7人の黒人と6人の白人からなる「乗客たち」がグレイハウンド社とトレイルウェイズ社の2台のバスに分乗して出発した。途中、休憩所やトイレでも黒人が白人用を使った。南部のバスターミナルでは徐々に白人群衆が集まるようになり、若者は「黒ん坊、ここはお前たちの来る場所じゃねえ!」と口汚く罵り、暴力をふるった。「乗客たち」は耐えながら、5月14日、アラバマ州に入ると突然、棍棒や鉄パイプで武装した暴徒がバスを取り囲み、窓ガラスが破られて火炎瓶が投げ込まれ、命からがらバスから逃げ出さなければならなかった。もう一台のバスがバーミンガムに入ると、「雄牛(ブル)」といわれた白人優越主義者の警察署長コナーは警察官を派遣して保護することをせず、逆に彼らを逮捕して監獄に連行した。
 このような弾圧に対して乗客者たちは非暴力でバス乗車を続けた。運動が広く知られ、世界中の支援の声が強まると、ケネディ大統領も何らかの手を打たなければならないと考えるようになり、弟の司法長官ロバート=ケネディと協議し、アラバマ州に対し事態の収拾を要請、600人の連邦保安官とFBIの特別班を現地に派遣して、KKKなどの反黒人組織の取り締まりに当たらせた。結局、目的のニューオリンズには到達できなかったが、「自由のための乗車運動」は南部各地で再開され、夏の終わりごろには1000人以上がこの運動に参加し、監獄は彼らで一杯になった。9月22日、ついに司法省は州際交通委員会でバスが州境を越えて運行する場合は「人種、肌の色、信条、出身国の違いによって座席を区別してはならない」等の決定を下し、州際交通における人種隔離は廃止され、COREは運動に勝利したと宣言した。<本田創造『前掲書』 p.193-206 に詳しい。>
バーミングハム闘争 ためらっていたケネディ大統領を動かしたのは、1963年4~5月にアラバマ州バーミングハムで起こった黒人大衆の大規模な非暴力直接行動だった。バーミングハムは南北戦争後に急速に発展した工業都市であったが、黒人労働者と白人人種主義者が激しく対立しており、KKKによる黒人居住地区への爆弾などが日常茶飯事だったことから「ボミングハム」(爆弾の町)とも言われていた。この町で4月に市長選挙が行われ、KKKのメンバーで警察署・消防署長を務めていた「ブル」・コナーが穏健派に敗れたにもかかわらず市庁舎から退去せず、抗議に立ち上がった黒人を次々と逮捕、キング牧師も逮捕された。5月までに逮捕者は5000人に達し、町の経済に影響が出始めると、子供なら逮捕されても経済は廻るだろうというので、こんどは6歳~16歳の子供たち6000人が参加した。ところがコナー署長に指示された警官隊が子供たちに棍棒で襲いかかり、消防士は高圧ホースで放水して子供たちを吹き飛ばし、結局、959人の子供が逮捕された。この状況は全国、全世界に放映され、バーミングハム当局への非難が高まった。特にアメリカが冷戦でソ連と競い合っているアフリカの諸国で、黒人が残酷な扱いを受けているアメリカのイメージが悪化することは必至だった。このような事態となり、ケネディは特使を派遣するなど調整にあたり、なおも過激な行動を続ける白人を鎮圧するために連邦軍を派遣し、5月23日にアラバマ州最高裁判所がコナーの警察・消防署長の地位を剥奪し、騒動は収まった。バーミングハムでは市の施設での人種統合が合意され、同じような闘争が行われた全国の143都市でも同様な合意が成立した。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.128-133>

ワシントン大行進

 1961年1月、大統領に就任したケネディは、非暴力を掲げる公民権運動が高まったのを受け、黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を明確に示した。黒人運動のさまざまな組織も、一つにまとまって政府に圧力をかけて要求を実現しようという機運が高まった。その中心にあったのが非暴力で運動を進めたキング牧師だった。
 1963年はリンカン大統領が奴隷解放宣言を出した1863年からちょうど100年目に当たっていた。1963年8月28日、キング牧師らが指導し、全国の黒人に差別に反対する白人も加わって20万人にのぼった民衆が首都ワシントンに向かった。このワシントン大行進は、「一切の黒人差別をただちに無くせ!」「今こそ、自由を!」「官憲の残虐行為を即刻止めろ!」「白人と平等の賃金を、今すぐ!」など強く迫り、具体的には政府に「新公民権法を即時無条件で成立させよ」を要求した。

公民権法の成立

ケネディ大統領暗殺 ケネディ大統領は公民権法案を作成し、議会に提出したが、議会保守派は徹底的に抵抗し、簡単には可決できなかった。このまま成立しなければ公民権法を公約にしているケネディは次の選挙で敗れるかも知れない、という観測も出始めた。そのような中で南部テキサスでの演説に向かったケネディ大統領は、1963年11月22日、銃撃されて死亡した。その真相はまだ不明とは言え、アメリカが黒人公民権容認に転換することを阻止しようとする力が働いたと考えることもできる。代わって大統領に昇格したジョンソン大統領は、ケネディの意思を継承し、世論の支持も受け、議会で公民権法案を通すことに全力を傾けた。
公民権法の成立 その結果、まず2月10日、下院で賛成290,反対130で可決されると、上院では南部派議員が500を超える修正案とフィリバスター(議事妨害のための長時間演説)などで抵抗、ようやく議事打ち切り動議が通って裁決したところ、賛成73,反対27で可決された。そのうえで1964年7月2日、ジョンソン大統領が署名して公民権法が成立した。上院で反対した27は、共和党6名と、南部民主党21名が投じたものであった。
 この年、キング牧師はノーベル平和賞を受賞、公民権運動を成功に導いた功績は、広く世界に知られることになった。しかし、公民権法制定の前後から、アメリカ各地で白人民族主義者による黒人に対する攻撃が反動的に多くなり、各地で陰湿かつ凄惨な暴行が加えられるようになり、黒人の恐怖が強まっていった。

参考 『ミシシッピ・バーニング』

 ジーン=ハックマン主演で映画化された『ミシシッピ・バーニング』(監督アラン=パーカー、1988年作品)は、公民権法が成立した1964年の夏、ミシシッピー州ジュサップをでおきた3人の公民権運動家の失踪事件を捜査する2人のFBI捜査官の姿を通して、アメリカの南部における人種差別問題を描いている。そこには、1960年代の南部でのすさまじい黒人差別の実態、その根の深さが衝撃的に展開されている。監督のアラン=パーカーは、『エビータ』(アルゼンチンの独裁者ペロンの夫人を主人公としたマドンナ主演のミュージカル)や『愛と哀しみの旅路』(第二次世界大戦中の日系人収容所を舞台とした物語)などで知られている。

投票権登録に対する妨害

 1964年の公民権法の成立は、ディープサウスと言われる南部諸州の農村部での日常を変えることはなかった。この地域の社会変革のためには、剥奪されていた黒人投票権を奪い返すことが必要だった。そのため黒人は投票権登録運動を開始した。それに対して白人の人種主義者は必死に抵抗し、各地で衝突が起こった。『ミシシッピ・バーニング』で描かれた事件もその一つで、1964年夏、学生たちがはじめたミシシッピ・サマープロジェクト運動のなかでおこったものだった。全国ではこの運動は約1000人が参加したが、6人が殺され、66の黒人教会その他が爆破・放火され、白人暴徒による黒人選挙権登録に対する妨害は野放しにされていた。アラバマ州セルマでは支援に駆けつけたキング牧師が逮捕され、警察がデモ隊にガス弾を発射して解散させようとし、その乱暴な弾圧はテレビで放映され、再び世論は黒人支持が高まった。キング牧師は1964年公民権法で決められた投票権保護規定を実効あるものにするためのより強力な投票権法を議会で通過させるためにはジョンソン大統領の協力が必要だと考え、秘かに約束してデモを平穏に解散させたが、一部の黒人は納得せず行進を続け、参加して白人牧師が棍棒で殴り殺される事態となった。

投票権法の成立

 ジョンソン大統領自身がついに動き、3月15日の議会演説で投票権法を提案し、その演説を公民権運動活動家が口にするウィー・シャル・オーバーカム(われらうち勝たん)と結んだ。それをうけて黒人はセルマからモントゴメリーまで3200人が隊列を組み、ウィー・シャル・オーバーカムを歌いながら投票権法要求行進を行い、アラバマ州兵がそれを見守る中、25日にモントゴメリーに到着したときには2万人に膨れ上がり、そこでキング牧師が投票権法の即時成立を求める熱烈な演説を行った。それを受けて連邦議会は7月に投票権法を可決、1965年8月6日にジョンソン大統領が署名して投票権法が発効した。
 これによって、キング牧師が1955年にこの町でバスボイコット運動を指導してから10年で、公民権運動は大きな勝利をおさめて終了することになった。しかしそれは、闘いの終わりではなく、新たなより困難な段階へ移行を意味したものだった。 → YouTube History of the Civil Rights Movement

公民権運動の特徴

 公民権運動が成功した理由と考えられる、その運動の特徴は、次のような事が考えられる。
  • 非暴力主義を貫いたこと 運動を指導したキング牧師は、熱心なキリスト教徒として、またガンディーの影響を強く受けたことによって、一貫して非暴力主義を貫いた。それによって白人の中にも同調者を生み出し、世論を味方にできた。
  • 組織的行動 黒人の団体には黒人自身の能力を高め、白人との妥協や取引によって平等を勝ち取ろうとする現実的、穏健なグループから、白人を敵視し、一切の妥協を拒否する急進派まで、さまざまな団体があったが、目標を公民権の獲得に定め、手段を非暴力に徹するというキング牧師の方針の下で一致して行動した。
  • 国際情勢 アフリカの年といわれた1960年は、アフリカで一斉に黒人の独立国が成立した。その一方で白人支配が続く南アフリカのアパルトヘイトに対する非難が世界的に広がった。冷戦下においてソ連など社会主義圏に対抗して国際世論の支持を得るためにも、黒人差別の解消の姿勢を示さなければならなかった。

公民権運動の限界

 しかし1960年代後半から公民権運動は急速に衰退し、代わって黒人運動は暴力を伴う社会変革をめざすブラックパワーと言われる勢力が主体となっていく。その背景には次のような事が考えられる。
  • 経済格差の拡大 公民権法が成立したことにより、憲法修正第13条、第14条、第15条の規定が実効力を持ち、黒人の法的、政治的な平等は実現した。また「隔離しても平等」という法的理念も否定され、隔離政策もあからさまには無くなった。しかし、白人と黒人の間には貧富の差という経済的不平等がますます広がっていた。黒人の切実な要求であった雇用と住居における不平等は解決されておらず、特に都市部の黒人の不満が残った。
  • 非暴力主義の限界 黒人の状況を変えるには、白人の暴力に対して非暴力で対抗しようというキング牧師の指導に疑問を感じる活動家も多かった。とくにイスラーム教の信仰をもつマルコムXは、黒人の置かれた状況を解決するのは非暴力による公民権運動という白人権力の枠内の運動では限界があり、アフリカの黒人が武装して独立を勝ち取ったように、そしてアラブの革命(エジプト革命など)が武力で行われたように、武装して立ち上がることが必要だと主張した。そのマルコムXは1965年2月に暗殺された。そして決定的になったのは1968年4月4日キング牧師が暗殺されたことで、それは非暴力主義の限界と感じ取られた。
  • 運動の分裂 暴力に対しては暴力で立ちむかうべきだ、というストークリー=カーマイケルらが主導するブラックパワーによる暴力的抵抗が激しく行われるようになり、さらにそれに対する白人人種主義者の報復が行われていく。こうして70年代以降は公民権運動のような整然とした非暴力運動は姿を消し、運動は分裂し、暴力の応酬の時代へと変化していった。
  • ベトナム戦争 公民権運動の終末は、時代的にはベトナム戦争の泥沼化が始まった時期だった。黒人運動はベトナム反戦運動と結びつき、政治的意味合いを深くしていった。
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書籍案内

本田創造
『アメリカ黒人の歴史』新版
1991 岩波新書

上杉忍
『アメリカ黒人の歴史―奴隷貿易からオバマ大統領まで』
2013 中公新書

ジェームズ.M.バーダマン
/水谷八也訳
『黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の記録』
2007 集英社新書
DVD案内

アラン・パーカー監督
『ミシシッピー・バーニング』
出演 ジーン・ハックマン
ウィレム・デフォー
AMAZON MUSIC

『We Insist!』
マックス・ローチ(ds)
アビー・リンカーン(Vo)

シットイン運動が起こった1960年に発表されたジャズアルバム。ローチたちが白人専用カウンターを占領し、白人ウェイターが困った様子をジャケットにしている。アビーの絶叫マシーンがすごい。