キング牧師
アメリカの黒人公民権運動の指導者。1955年のバスボイコット運動をはじめ、多くの非暴力による黒人の公民権実現に向けた運動を指導し、1963年にワシントン大行進を成功させ、1964年の公民権法、翌年には投票権法を実現させた。1967年にはベトナム反戦に参加、さらに黒人の貧困問題の解決にむけて運動を計画したが、1968年に銃撃され、志半ばに死去した。黒人解放運動は混迷し、非暴力主義は退潮を余儀なくされた。
Martin Luther King,Jr.
資料 「私には夢がある」演説
リンカンによる奴隷解放宣言の百周年にあたる1963年8月28日に行われたワシントン大行進で、黒人と白人リベラル20万の群衆を前にリンカン記念堂でキング牧師は後世に残る感動的な演説をした。(引用)今から百年前に、私たちがこうしてその像の下に立っている一人の偉大なアメリカ人が、奴隷解放宣言に署名しました。しかしそれから100年たった今も、黒人はまだ自由にはなっていないという悲劇的な事実に直面しなければならないのです。100年たった今も、黒人の生活は分離という手錠と差別という鎖のため、悲しくも無力にされているのです。100年たった今も、黒人は物質的な繁栄という広い海のなかの、貧困という孤独な島で暮らしているのです。演説に出てくるアラバマ州はキング牧師が指導したバス・ボイコット運動が始まったモントゴメリーがある州で、ウォーレス州知事は最も強硬な白人優越主義者として知られていた。右上の写真はリンカン記念堂の前で演説するキング牧師。
さあみなさん、私は今日皆さんに向かっていいたい。私には夢があるのです。いつの日かこの国が立ち上がって、『すべての人は平等につくられたことを我われが自明の真理と考える』という信条の真の意味に生きるようになる夢が。
私には夢があるのです。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、昔の奴隷の息子たちと、昔の奴隷主の息子たちが、兄弟として一緒にテーブルにつくことができるような日のくる夢が。
私には夢があるのです。いつの日か不正と抑圧の熱気のために荒廃した州ミシシッピ州でさえも、自由と正義のオアシスに変貌するような夢が。
私には夢があるのです。いつの日か私の幼い四人の子供たちが、皮膚の色によってではなく、どんな内容の人間かということによって評価される国に住むようになる夢が。
私には夢があるのです。いつの日か、今は知事の唇が(連邦政府の)介入拒否と州権の主張で満たされているアラバマ州で、情勢が変わって幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと手を結びあい、兄弟姉妹として一緒に仕事ができる環境ができるようになる夢が。
私には夢があるのです。いつの日かあらゆる谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められ、凸凹の場所は平らにされ、曲がりくねった場所は真っ直ぐにされ、神の栄光が輝いて、あらゆる生き物が一緒にそれをみるようになるという夢が。
それが私たちの願いなのです。<猿谷要『キング牧師とその時代』1994 NHKブックス p.114-116>
→ キング牧師 「私には夢がある」演説 YouTube より
黒人教会の牧師の子
マーティン=ルーサー=キング=ジュニア Martin Luther King,Jr. は、1929年1月、ジョージア州アトランタのスィート・オーバーンといわれる黒人コミュニティの、三代にわたるバプテスト教会の牧師の家に生まれた。セカンドネームのルーサーとは、宗教改革によってプロテスタントを創始したルター(ルーテル)から来ている。南部の黒人教会のルーツは奴隷制下の「見えざる教会」と呼ばれる礼拝集会を起源としており、それは白人奴隷主の押しつける信仰ではなく、奴隷たちが森の奥で隠れて開き、読み書きが禁止されていた奴隷たちが断片的な聖書の物語を解釈しながら、キリストはすべての人間の平等を説いており、正義と愛の神は被抑圧者である自分たち黒人の解放に関心を持っている、という信仰を発展させていった。南北戦争後、「見えざる教会」は黒人教会として「見える教会」へと変わり、信仰だけで無く、黒人の相互扶助の場として急増した。キング=ジュニアの祖父も黒人説教師の一人として教会を作った。南部諸州が再建期をすぎて法的人種隔離制度を確立させると、黒人教会は何より抑圧的環境を生き抜く避難所として機能するとともに、黒人の社会意識や政治意識を高める場として機能するようになった。
キング=ジュニアの父キング=シニアも指導力のある牧師で、新約聖書の「ルカによる福音書」の「主がわたしを遣わされたのは、圧迫されている人々を自由にし、主の恵みの年をつげるためである」とあることを根拠に人種差別的障害があっても有権者登録を試みるよう会衆を指導し、市庁舎まで行進した。当時黒人の選挙権は認められていたものの、その前提として有権者登録をしなければならず、それには人頭税を納入し、さらに読み書きテストを受けなければならないという、事実上の黒人投票権の制限が行われていた。またキング=シニア牧師は黒人教師に対する差別的給与体系を改めるための抗議行動を起こした。少年キング=ジュニアはそのような父のもとで育った。<黒崎真『マーティン・ルーサー・キング―非暴力の闘士』2018 岩波新書 p.2-9>
バス=ボイコット
牧師となった26歳のキングが最初に直面したのが1955年12月6日に始まったバス=ボイコット運動だった。これはローザ=パークスという黒人女性がバスの白人座席に座り、運転手から白人に席を譲れと命じられたことに従わず、逮捕されたことから起こった。バスの座席の人種分離はアラバマ州法とモントゴメリー市条例で前方4列が白人専用、後方4列が黒人専用とされ、中間は先着順となっていた。黒人は前のドアから乗って運賃を払い、一旦降車し後ろのドアから再度乗車しなければならなかった。白人専用席が満席になった後に白人が乗ってきたら、中間座席に座っていた黒人は列ごと席を譲らなければならない。しかもバス運転手は全員白人で、黒人乗客への対応は、一部の例外を除いて悪質だった。社内では「二ガー」という言葉が飛び交っていた。<黒崎『前掲書』p.34/ジェームズ・M・バーダマン/水谷八也訳『黒人差別とアメリカの公民権運動』2007 集英社新書 p.61 などによる>キング牧師らが掲げた改善要求は
- バス運転手の礼儀正しい応対を保証すること。
- 乗客は先着順(白人は前方から後方へ、黒人は後方から前方へ)に座れること。
- 黒人が圧倒的に多い路線で黒人運転手を採用すること。
非暴力主義
キング牧師はバス=ボイコットの指導の中で、ガンディーの非暴力主義を戦術として取り入れるようになった。その後も、その思想を徹底し、自衛のための暴力をも否定して運動を指導した。一時期はインドを訪問し、ガンディーの足跡をたどりながらその思想の継承に努めた。キング牧師が行った非暴力による運動とはどのようなものだったのだろうか。彼が数々の現場の経験から引き出した、「非暴力の六原理」と呼んだ非暴力哲学の要点は- 非暴力は勇気ある人の生き方である。
- 非暴力は友情と理解を勝ち取ろうとする。
- 非暴力は人ではなく不正を打ち倒そうとする。
- 非暴力は自ら招かざる苦しみが教育し変容させると考える。
- 非暴力は憎悪の代わりに愛を選ぶ。
- 非暴力は宇宙が正義の側に味方すると信じる。
ワシントン大行進
公民権運動は、キング牧師のかかげる非暴力直接行動の思想を、1960年2月1日にノースカロライナ州のグリーンズボロで始まったシット・イン運動、翌1961年5月に始まったフリーダム・ライド運動、さらに1963年4~5月のバーミングハム闘争でも貫き、激しい妨害にかかわらず、むしろ支持を拡げていった。その集大成が1963年8月28日の画期的なワシントン大行進であった。ただし、いずれも順調にいったのではなく、常に突発的な事態や取り締まり側の過激な妨害、ある場合には巧妙な誘導で失敗することもあった。また成功させるには、マスコミを利用するタイミングが重要であるとか、取り締まり側とも事前交渉が必要であるとかもキング牧師は学び取っていった。キング牧師と運動指導者はケネディ政権とも連絡をとりながら、20万人という大動員を成功させ、あの「私には夢がある」の演説で締めくくった。しかし一部には、キング牧師らが白人政府と裏で取引をしていた、として反発する黒人もいた。ネイション・オブ・イスラムやマルコムXはそのように見ていた。ノーベル平和賞を受賞
ケネディ政権は黒人票の支持は期待していたものの、実際には公民権法の実現に積極的であったわけでは亡かった。ようやく重い腰を上げたケネディが1963年11月に暗殺され、より公民権運動には李悝の会った次期ジョンソン政権によって1964年7月2日に公民権法が成立した。キング牧師の「第二の黒人解放」に果たした役割は大きく評価され、1964年にノーベル平和賞を受賞した。12月10日のオスロでの授賞式でキング牧師は、この賞は公民権運動に関わってきた全ての人々が獲得したものであり、非暴力こそが社会変革の答えであることを「全面的に承認する」意味がこめられている、と演説し、賞金5万4千ドル全額を公民権諸団体と関連する特別基金に寄付した。<黒崎真『前掲書』 p.121>
公民権法成立後の危機
公民権運動は様々な黒人運動組織に支えられ、キング牧師の非暴力主義によって巧みに統率されていたが、運動のなかにその方針や思想に疑問をいだく人々も存在していた。運動がワシントン大行進という成功を収めた直後から、内部の対立は明確になり始めた。その背景には、公民権法が成立したにもかかわらず、多くの黒人の置かれた状況がすぐに改善されたわけでは無く、形を変えた差別や白人側からの暴力も続いたことにたいして、なおも非暴力で運動を進めるのか、それとも違った運動のスタイルを取り入れるべきなのか、深刻な意見の対立が生じたことがある。また、60年代後半からアメリカが突入したベトナム戦争を黒人運動はどうとらえるのか、という新たな難問も生まれ、運動自体が分裂の危機を迎え、キング牧師自身も悩みを深くしたのだった。黒人暴動 公民権法が成立した1964年7月2日の約2週間後、ニューヨークのハーレムで白人警官がささいなことから黒人少年を射殺したことから、大規模な黒人暴動が発生した。略奪や放火は北部の他の都市にも広がり、一週間以上続いた。同じ年の夏、ミシシッピ州で黒人の有権者登録運動を取材していた白人と黒人の青年が人種差別主義者に惨殺される事件も起こった。さらに翌年8月にはロサンゼルスの黒人居住区ワッツでさらに大きな黒人暴動が起こり、死者が34人にものぼった。
投票権登録運動と投票権法の成立
これらの暴力にキング牧師はなすすべがなかったが、それでもなお残された黒人投票権への実質的な制限や妨害を無くすため、投票権登録を進める運動に取り組んだ。運動の拠点として選んだアラバマ州セルマは黒人有権者のうちわずか1%しか登録していなかった。有形無形の圧力が黒人の投票権登録を拒んでいたのだった。キング牧師はセルマから州都モントゴメリーまでデモ行進し、州知事に有権者登録の公正な実施を要求しようと計画した。スタートしたとき3000人だったデモ隊は黒人の他に白人も加わって増え、5日後に目的地に着いたときは2万5000人に増えていた。キング牧師は不当なデモを指導したとされて逮捕され、警察はガス弾などでデモを鎮圧しようとしたが、隊列は崩れなかった。このできごともテレビで全国に報道され、警察の過剰な警備と弾圧に対する非難が強まった。弾圧にもかかわらず運動は成功した、ということができ、再びジョンソン連邦政府を動かし、1965年8月6日にジョンソン大統領が署名して投票権法が発効し、有権者登録に対するいかなる制限、妨害も違法であるとされた。前年の公民権法とこの投票法の制定により、キング牧師が進めていた公民権運動は一応、所期の目的を達したと言うことができる。二つの対立軸
公民権運動から内在していた、黒人運動の方向性をめぐる内部対立には、次の二つの対立軸があった。非暴力か暴力容認か 公民権運動の大きな特色であり、またそれを成功に導いたのがキング牧師の非暴力主義にあったことは先述の通りである。しかしそれはギリギリの所で守られ、いつ崩れるかわからない危うい先述であったことは確かであり、早くから非暴力の限界を主張する考えも運動のなかにあった。その代表がマルコムXであろう。彼はキングよりわずかに年長で、少年時代に刑務所生活を送り、青年期にイスラーム教に改宗してブラック・ムスリムの説教師となった。巧みな弁舌で黒人の解放を説き、特に都市の下層の黒人の心をとらえた。キング牧師の非暴力主義には常に批判で、黒人の解放は「革命」であるとし、そのためには武装も必要であり、自衛のためには暴力も容認される、と主張するようになった。彼自身は1965年にブラック・ムスリムの内紛から暗殺されてしまうが、その主張はストークリー=カーマイケルに受け継がれ「ブラックパワー」の実力主義へとむかい、キング牧師とは決別する。
統合をめざすか分離をめざすか キング牧師の公民権運動は、黒人に白人と同じ市民権を与えよ、と言う運動であるが、そのめざす社会は白人と黒人が対等になって統合(インテグレーション)することであった。白人と黒人が同じバスに乗って同じ学校に通う、というのが理想とされた。それに対してマルコムXは白人と同じ生活を望むのではなく、別な社会、黒人の自立した社会を自らが作ろう、といういわば分離(セパレーション)を求めた。マルコムXは隔離(セグリゲーション)には反対するが、統合を求めるのでは無くむしろ分離を理想とした。つきつめれば独自の黒人国家の建設をアフリカや中南米の黒人と共に実現しようという、より根元的な解放を目指したと言える。<マルコムXについては、荒このみ『マルコムX―人権への闘い』2009 岩波新書 を参照>
参考 マルコムXのキング牧師批判
キング牧師とマルコムXはともに運動することは無く、会ったのも一度だけだったが、それぞれを尊敬する意識を持っていたようだった。しかしワシントン大行進が終わると、その評価をめぐって、溝が決定的になった。マルコムXはワシントン大行進はキングたちがケネディから懐柔され、革命的な行進からピクニックやサーカスに変えてしまったのだ、と主張した。しかもケネディ政権から裏金が流れていたのだ、と暴露した。また、公民権が認められても、本質は何も変わらない、必要なのは黒人を人間とみとめる「人権」なのだ、と公民権運動を批判し、自由を与えてもらおうと待っているだけでは手に入らない、行動すべきだと主張した。<荒このみ『前掲書』 p.157-158>ベトナム戦争反対へ
ベトナム戦争はキング牧師と公民権運動にも深刻な影響を与えた。キング牧師は自らの非暴力主義の思想からも戦争に賛成することは出来ない。しかし他の黒人運動指導者は黒人の地位向上のためにも政府に反対することは避けるべきであるという意見が強かった。キング牧師も深く悩み、当初は態度を表明することに躊躇していたが、ベトナム戦争が厖大な国防費をつぎ込み、それによって貧困対策などの社会保障が削られていくこと、そしてアメリカ軍のベトナム人への非人道的な攻撃が明るみだされるようになったことから、1967年4月、ニューヨークのリバーサイド教会でベトナム反戦演説を行って政府をきびしく批判した。(引用)演説のなかでかれは、アメリカ政府は世界最大の暴力の「御用商人」であるとし、一方的停戦と北爆停止を要求し、戦争終結のイニシアチブはアメリカが取るべきだと主張した。ベトナム政策のみならず、アメリカ外交そのものが、国際間の平和と正義を促進することよりも、対外投資の保護に重点を置いていると批判した。また、共産主義の浸透を防ぐのは軍備ではなく、貧困と不公正を除去することだと力説した。しかしベトナム戦争に反対するのは「非国民」であり、「共産主義者」だ、という風潮にそまっていたアメリカで、キング牧師は孤立したものだった。キング牧師をベトナム反戦運動の口火を切った人として評価されるようになるのは、1968年4月に暗殺された後のことだった。
戦争の拡大によって軍事支出が増大し、それが他の予算を減少させた。キングは、アメリカ政府がベトナムで敵一人を殺すのに33万2000ドルも支出しているのに、貧困政策では、一人当たり53ドルしか支出していない、と批判したこともあった。<上坂昇『キング牧師とマルコムX』1994 講談社現代新書 p.85>
ベトナム反戦はすでに学生組織などで始まっていたが、キング牧師の反戦表明までは世論の大勢は戦争支持であった。それが1967年のキング牧師の反戦演説を機に世論の変化が始まり、戦争反対が賛成を上まわるようになった。<油井大三郎『ベトナム戦争に抗した人々』世界史リブレット125 2017 山川出版社 p.27,38>
キング牧師の変化
キング牧師の反戦演説にジョンソン大統領は激怒し、当然のようにキング牧師との関係を断ち、FBIは彼を共産主義の手先、危険人物としてマークするようになった。それはキング牧師がベトナム反戦を主張するだけでなく、黒人差別の根源にある貧困という社会問題の解決という意思を示し始めたからであった。黒人の公民権が認められたことで、白人の多くは問題は解決したと理解した。にもかかわらず、黒人が貧困の解消まで要求するようになると、平等の権利を与えられたのに黒人が貧しいのは努力や能力が劣っているからだ、という見方がひろがり、雇用や住宅でも平等を認めよというのは行き過ぎた悪平等の要求だと感じる白人が多かった。また成功して中流の生活を手にしていた一部の黒人は、これ以上の社会の混乱は望ましいことではなかった。
貧困との闘い しかし、キング牧師はそうは考えなかった。黒人の貧困は、個々の努力の不足ではなく、構造的な問題であり、その解決には社会保障や教育などでの保護が必要だと考えるようになり、それはキリスト教的社会主義といえる理念であった。当初、ジョンソン政権は「偉大な社会」と言う理念を掲げ、社会保障の充実させることによって「貧困との闘い」を打ち出していた。キング牧師もその取り組みを支持していたが、ベトナム戦争の進行とともに国防費が増大し社会保障費が削減されゆき、ベトナム戦争と「貧困との戦い」は両立し得ないことがあきらかになったことから、戦争に反対し、貧困対策を続けよと言わざるを得なくなった。
「貧困の行進」の計画 キング牧師は都市で続く暴動「長い暑い夜」の暴動を無くすために貧困問題の解決が必要であると考え、1966年1月、自らシカゴのスラムに移住した。ゲットーと言われた黒人街はまさに貧困と犯罪が渦巻いている。そして1967年12月に大衆的な行動で政府に貧困問題への取り組みを実施させるため「貧者の行進」を実施する計画を打ち出した。それは全米の10都市と地方のコミュニティで3000人の黒人、白人、プエルトリコ人、メキシコ系、インディアンの貧しい人々に非暴力の訓練を施し、各地から首都ワシントンに向けて行進しようというものだった。議会に対しては住宅差別の廃止、雇用増大、職業訓練、ゲットー再開発などの120億ドル規模の社会政策を要求する。さらに要求が入れられない場合はワシントンのポトマック河畔に掘っ建て小屋を建てて居座る、などという壮大な計画だった。
1968年4月4日、メンフィス しかしこの「貧者の行進」にはブラックパワーの影響を受けた若い世代から強い反発を受け、68年2月、予行演習の形で行われたテネシー州メンフィスでの市清掃員組合ストでのデモ行進が、過激グループの煽動で暴動化し、一部が略奪に走って黒人一人が射殺されるという混乱に終わった。キング牧師の計画はもはや実施できないだろうとみられ、中には彼を「マーチン・ルーザー(敗者)・キング」と嘲笑する者もいた。絶望の淵にたったキングであったが、勇気をふるって4月に再びメンフィスを訪れ、第二回のデモを指導しようとした。しかしそこで待ち受けてたのが、白人差別主義者が放った銃弾であった。
キング牧師暗殺
1968年4月4日、黒人公民権運動指導者のキング牧師はテネシー州メンフィスで暗殺された。公民権法成立後、運動は貧困との闘い、ベトナム戦争反対運動と結びつく方向ですすんでいたが、キング牧師の暗殺で混迷することとなり、黒人暴動も多発するようになった。
キング牧師暗殺犯
FBIはキング牧師暗殺の実行犯をジェームズ・アール・レイという白人男性と断定、指名手配して2ヶ月後に逮捕した。キングの命を奪ったライフルの銃弾は、モーテルのベランダから60m離れた通りの向かいにある下宿屋の二階から発射されたことが判り、現場の遺留品からレイの犯行とわかったとされている。レイは偽造パスポートで国外逃亡を謀ろうとして逮捕され、翌69年3月、自ら第一級殺人罪を申し出て裁判無しで99年の懲役刑が確定した。当初からレイの単独犯行なのか、について疑惑があり、服役中のレイ自身も後に自分ははめられたのだと訴えた。9年後の1977年に「米下院暗殺調査特別委員会」が調査を開始し、2年後の報告書ではレイの犯行であることは間違いないとしながら、決定的証拠はないが共謀の可能性はある、との見解を示した。しかし市、州、連邦などの政府機関の関与はなかったと結論づけた。何らかの共謀の可能性が示されたことから、キング夫人のコレッタは1999年12月に真実をつきとめようとメンフィスで民事訴訟を起こしたが、真相は現在も闇の中である。
参考 「何がキングを殺したか」
キング牧師暗殺の真相はまだ不明であるが、黒崎真『マーティン・ルーサー・キング』では次のように論じている。(引用)しかし、キングを黒人自由運動と反戦活動のなかで出た多くの犠牲者の一人に位置付ければ、より重要な問いは、「誰が」ではなく、「何が」キングを殺したかであろう。では、その「何か」とは何か。それは、黒人に対する暴力を肯定し、市や州の政府や警察権力までもがこれを容認する南部白人社会の精神的風土である。キング暗殺の報に接し、平均的な南部白人はこう反応したのだ。「キングが死んだことを神に感謝する」「誰かがもっと早く殺すべきだった」「二ガーにすぎない」「この国最大の共産主義者だろ」「自業自得だ」。
だが、これだけではない。南部白人社会の暴力的精神風土に反対する声を上げない「善意」の人々の沈黙、南部白人の政治票を理由に道徳的考慮より政治的考慮を優先させる連邦政府の消極的姿勢。銃で問題を解決しようとするアメリカ社会全体の暴力的な雰囲気。さらには、「平和」を軍事力で勝ち取ろうとする連邦政府の、「目的は手段を正当化する」という姿勢。そして、恐怖や憎悪の連鎖を断ち切り和解を目指す非暴力の生き方に対して、うわべだけの価値しか認めないアメリカの精神風土。これらすべてが、「何がキングを殺したか」の文脈を作りだしていたのである。<黒崎真『マーティン・ルーサー・キング―非暴力の闘士』2018 岩波新書 p.207-208>
キングの死がもたらしたこと
キング牧師が参加することになっていたメンフィスの清掃労働者ストライキの行進は4月8日、キングの追悼行進として2万人が参加し、整然と行われた。翌日アトランタでキングの葬儀が行われ、2ヶ月前に録音された演説の録音が流された。その演説でキングは自分の葬式に皆に「私はだれかに、マーティン・ルーサー・キングは他者に使えるために命を捧げようとしたと言ってほしい、……私はただ、捧げ尽くした人生を遺していきたい。それが私の言いたいことのすべてた」と述べていた。メンフィスの清掃労働者のストライキは、4月16日に市当局が労働組合と最低賃金の引き上げを認め勝利した。またジョンソン大統領と連邦議会も、キングが主張していた公民権運動活動家に加えられた暴力を連邦法上の刑事犯罪として処罰することと黒人に対する住宅差別を禁じる条項を組み込んだ「1968年公民権法」の制定を急ぎ、4月11日に大統領が署名して成立した。
一方、キング暗殺に対する黒人の怒りも全米の都市で暴動として現れた。1週間のうちに125の都市で43人が死亡し、2万人が逮捕された。しかしキングの非暴力の意志を継ぐ運動も続けられ、SCLC(南部キリスト教指導者会議)の議長アバナシーは「貧者の行進」を実行し、5月にワシントンのリンカン記念堂前に「復活の街」として3000人の貧者が住めるテント村を作った。しかし、連邦政府と議会の無視が続き、運動の気運は徐々に衰えていった。そんなとき6月5日に貧者の行進に例外的に関心を寄せていた民主党の大統領候補予備選挙中のリベラル派ロバート=ケネディが暗殺され、「貧者の行進」も深い挫折感がもたらされた。「復活の街」のテント村も国立公園の使用許可期限が切れたことでブルトーザーで完全に撤去された。
ベトナム戦争、都市暴動、暗殺事件などの混乱が続いた1968年前半に対し、後半はバックラッシュと言われる社会不安が白人中流社会に広がり、11月の大統領選挙ではベトナム戦争の「名誉ある和平」と「法の秩序」の回復を掲げた共和党ニクソンが当選した。これはキング牧師らが指導した60年代の黒人公民権運動を転換させることを意味していた。<黒崎真『前掲書』p.208-218>
死んで高まる影響力
ニクソン大統領の公民権問題に対する姿勢は「悪意なき無視」であり、そのもとでケネディ・ジョンソンの下で燃え上がった黒人の希望は消滅しかけていた。しかし、意外にも、人種問題の実際の潮流は異なった方向をたどった。彼の死後、黒人の抗議運動は大部分が非暴力で行われ、キングの同僚であったアバナシーやキング夫人コレッタ・キングに指導されて続いた。1986年のメキシコ・オリンピックでは200m競争のアメリカ黒人メダリストたちは表彰台で国歌が演奏され、国旗が掲揚される間、握りしめた拳を高く掲げた。キング牧師暗殺は非暴力主義の運動の限界と考えた若い世代のブラック・パワー運動は公然と黒人革命に向けての武装を進めようとしたが、FBIなどによる徹底的な弾圧を受け、黒人大衆の支持も広がることなく、また分裂を繰り返したことから、1970年代に徐々に衰退ていった。しかし、そのころからキング牧師の運動によって1965年に実現した投票権法によって、黒人が投票権を徐々に行使するようになり、暴力を意味しないパワーが発揮されるようになった。州議会や州政府、さらに連邦議会議員や連邦政府の要職に就く黒人の数は確実に増加していった。南部では黒人に投票権行使を促す活動がされているが、そのポスターには予定される投票日の下に、「マーティン・ルサー・キングはこの日のために死んだ。」と書かれているという。<ロデリック・ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』下 1986 新潮社 p.202>
キング国民祝日の制定
1983年、キング牧師の誕生日(1月15日)を国民祝日(メモリアルデー)とする法案が連邦議会で可決され、レーガン大統領が署名して成立し、毎年1月の第三月曜日が「キング国民祝日」(Martin Luther King Jr. Day)に指定され、86年から施行された。レーガン大統領はキングの功績として公民権運動の指導にる公民権法と投票権法の成立を実現させたことをあげた。それはアメリカ政府が認めるキングの「公的記憶」としてアメリカの歴史に組み込まれた功績であった。公式記憶から欠落したこと しかしそこには、キングが65年から暗殺された68年の間、政府に対してベトナム戦争をベトナムに人種差別、経済搾取、戦争という「三つ組の悪」を持ち込む誤った戦争として反対し、黒人の貧困の解決を求めて「貧者の行進」などで戦ったことが欠落している。また非暴力直接行動の評価も、本質的には極めて戦闘的な行動とも捉えられるので、政府の公式の評価からは外された。アメリカ大統領は毎年、その年のキング国民祝日を布告し、布告文を発表する。歴代大統領の布告文は多くが公民権運動と「私には夢がある」演説に触れるだけであり、それが万民に受け入れやすい「公的記憶としてのキング」であるが、このようにキングの生涯を公民権運動とあの演説だけで語ることは、今、見直す必要がある。晩年のベトナム反戦と貧者の行進を指導したキングを忘れてはならない。<黒崎真『前掲書』p.220-223>
日本の高校世界史で教えられるキング牧師も、まさに「公的な記憶」としての公民権運動に限られている。そこから1964年の公民権法と1965年の投票権法というその「成果」で説明が終わっている。これで問題解決と捉えがちになってしまうが、そうすると、その後も黒人暴動が続き、2021年のブラック・ライブス・マターBLM運動がなぜ起こったか、への関心は生まれてこないだろう。日本でもキング牧師と「私には夢がある」演説だけが余りにもクローズアップされすぎている弊害がある。現在につながる世界史学習を目指すためにも、もう一つのキング牧師の活動と、キング牧師と対立したマルコムXやブラックパワー運動にも関心をひろげておく必要がありそうだ。<2022/8/30記>