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日中共同声明

1972年、田中角栄・周恩来の日中首脳によって出された日中国交正常化をうたった声明。

 1972年9月29日、日本の田中角栄首相が訪中し、中国の周恩来首相との間で調印した、日中国交正常化に関する合意文書。日本は、中華人民共和国を中国唯一の合法政権であることを承認し、満州事変以来の両国の不正常な状態な状態の終結と、外交関係の樹立を宣言し、中国側は対日賠償請求権を放棄した。これによって日中戦争から戦後にかけて断絶していた両国の国交が回復された。同時に、日本は「一つの中国」の原則を尊重し、日華平和条約を破棄して中華民国(台湾政府)と断交した。
 日中共同声明に従って、両国は平和条約の締結に向けて交渉を開始したが、中ソ対立などを背景とした両国の意向のくいちがいから難航し、ようやく1978年、日本の福田赳夫内閣の時に日中平和友好条約の締結にいたった。

遅れた国交回復

 1945年8月15日に日中戦争が終わったにもかかわらず、日本と中国は講和条約を締結しなかった。日本が連合国との間で講和を成立させたのは1951年9月サンフランシスコ講和会議で連合国と締結したサンフランシスコ平和条約によってであったが、この時すでに成立していた中華人民共和国は会議に招かれなかった。それは朝鮮戦争の最中でアメリカと鋭く対立していたからであった。
 日本は中国との国交回復をしないまま、日米安保体制のもとで戦後復興を続けた。中国には旧満州も含め、多くの日本人とその遺児が残されていたが、彼らは放置されることになった。このことも忘れないようにしよう。

アメリカの転換

 国交の正常化がされなかった日本と中国が、27年以上を経た1972年9月29日、ようやく和解した。朝鮮戦争、東西冷戦という厳しい国際環境に加えて、中国では文化大革命という国内事情を抱え、和解の道は遠かったのだった。それが、1971年のキッシンジャーの訪中、翌年2月のニクソン訪中によって、一挙に環境が変化した。このアメリカの外交方針転換は日本に何ら情報がもたらされていなかったので、大きな驚きをもって迎えられた。そして田中内閣は、我遅れじ、とばかり急きょ訪中を決めたのだった。
 ソ連との関係悪化を優位に転換させたい毛沢東=周恩来の中国首脳は、かつての恩讐を乗り越えて田中角栄を迎え入れた。そして両国の思惑が一致し、細部はともかく国交回復で合意し、共同声明が作られた。

Episode 日中国交回復の贈り物

 ここで質問です。そのとき、中国側が国交回復の記念として日本への贈り物としたのは何だったでしょうか。

答え

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