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日中戦争

1937年、盧溝橋事件を機に勃発した日本と中国の全面的な戦争。1941年12月には太平洋戦争に拡大し、第二次世界大戦の一部となった。1945年8月15日に日本軍の全面的な敗北で終わった。中国では共産党が抗日戦争を勝利に導いたことをその権力の正当性としている。

日本の情勢

満州事変から上海事変へ 日本は1927年の金融恐慌、さらに1929年の世界恐慌の影響で経済不況が深刻になる一方、財閥(独占資本)の形成が進み、政党政治も行き詰まるなか、1931年9月満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の中国との戦争は始まっていた。中国の蒋介石国民政府(南京政府)は共産党軍との内戦にも直面していたため、日本に対しては武力抵抗よりも国際連盟への提訴などによって国際的に日本を孤立させる戦略をとった。さらに日本軍は1932年1月28日に上海事変(第一次)も起こし、その侵略行為に対する国際的非難が強まった。国内経済の行き詰まりの打破を海外市場拡大に求める動きに押されて、軍部は満州の権益を内蒙古や中国北部に拡大しようとしたが、中国側の抵抗も強くなっていった。
満州国の建国 満州事変を主導した関東軍は満州を日本の直轄領としようとした当初の構想を転換、清朝の最後の皇帝溥儀を迎えて執政とする満州国1932年3月1日に建国した。独立国とは言え、実質的な日本の傀儡国家であり、大陸進出の足場となっていく。国内では満州国建設に消極的であった犬養毅首相が海軍軍人に殺害されるという五・一五事件が起こり、日本の政党政治が終わりを告げた。
日本の国際連盟脱退 関東軍は満洲の権益を守るために隣接する満蒙や北支に勢力圏を伸ばそうとして、1933年2月に熱河作戦を実行し、中国本土への侵攻を開始した。同時に日本は、国際連盟が派遣したリットン調査団によって満州国樹立が否定されたことを理由に、1933年3月に国際連盟を脱退した。日本は国際的孤立を深めていったが、軍事行動は反日行動を排除する名目で続けていった。それに対して中国国民党の蔣介石は、中国共産党との内戦を優先して日本に対する抵抗をほとんど行わず、1933年5月には塘沽停戦協定が成立した。
日本の中国侵略 1935年には華北分離工作を進め、冀東防共自治政府を成立させるなど、中国本土の割譲を強く迫った。それに抵抗する中国に対して、日本国内の世論は「満蒙問題の解決」のため「中国政府を膺懲すべし(こらしめる)」といった論調が強まっていった。
二・二六事件 軍ファシズム体制の成立 そのような中で、1936年2月二・二六事件が起こった。この事件は、陸軍皇道派と言われた一部の青年将校が政党や財閥などの腐敗を批判して直接行動に走ったものであった。反乱軍は首相官邸などを襲撃、岡田内閣は倒れれたが、昭和天皇は反乱軍を非難、陸軍統制派は体制維持のために動き、反乱は鎮圧された。それを契機に統制派陸軍幹部が政権中枢を支配する軍部ファシズム体制が出来上がり、政党政治は完全に終わりを告げ、軍部内閣が日本を導くこととなる。
 1937年7月7日夜、盧溝橋事件の発端となった銃撃は、日中のどちらが先に発砲したかのかは、現在では判断は困難となっている。しかし、それによって実態として全面的な戦争である日中戦争に突入した。陸軍は中国政府の拠点である南京を攻略すればすぐに勝利できると天皇にも報告していたが、結果的に戦争は泥沼化した。日本軍は戦況の打開を目指して東南アジア・太平洋方面に進出して米英との太平洋戦争にも踏みきり、1945年8月15日の敗戦に至った。この日本の戦争指導の誤りの第一は、次のような中国の情勢、世界情勢を見誤ったところにあると思われる。

中国の情勢

張学良の易幟 中華民国では、1928年の張作霖爆殺事件によって旧軍閥の張学良国民政府蔣介石政権への協力を表明(易幟、旗を替えること)していた。1931年の満州事変に対して、全面的な抵抗はできず、1933年に塘沽停戦協定を結んで妥協した。その後も蔣介石政権は中国共産党との内戦を優先して日本に対する抗戦らしい抗戦を行わず(「安内攘外」と言われた)、満州国建国とその後の冀東防共自治政府の成立などを許していた。
抗日運動 それに対しては中国共産党はコミンテルン第7回大会の決議に従って1935年7月八・一宣言を出し抗日統一戦線の結成を呼びかけていた。同年12月には北平(現在の北京)で日本に対する大規模な抗議運動である十二・九学生運動が起こった。運動に立ち上がった学生は、当時満州から追い出される形で西安に移り、共産党軍と戦っていた張学良の東北軍兵士に、盛んに内戦の停止、一致した抗日の戦いを働きかけた。
西安事件 抗日統一戦線の成立へ 1936年12月、東北軍の張学良は、西安に督励に来た蔣介石を軟禁し、共産党との内戦の停止、国共合作を強く求めた。蔣介石はやむなく国共内戦を停止した。この西安事件は中国の情勢を大きく変化させることになった。蔣介石は内戦の停止には応じたが、ただちに国共合作の復活を認めたわけではなかった。しかしこれをきっかけに中国国民党中国共産党の非公式の交渉がさかんに行われるようになった。

日中戦争の勃発と国際情勢

「事変」という名の戦争へ 日中両軍の軍事的緊張が高まる中、1937年7月7日に北京郊外で両軍が衝突、盧溝橋事件が起きた。準備を整えていた日本軍は本格的な軍事行動に入ったが、当初は日本政府は不拡大方針を表明した。しかし、1937年8月13日第2次上海事変に飛び火し、当初は北支事変と言っていたものを支那事変(日華事変)と名付けた。上海での両軍は多数が犠牲となる本格的な戦争であり、日中戦争の開始となった。
抗日統一戦線(第2次国共合作) 日中戦争勃発を受けて中国国民党と中国共産党は、1937年9月第2次国共合作で合意し、国民党軍と共産党軍は抗日民族統一戦線を結成して一致して日本軍の侵略に対して戦うこととなった。共産党指揮下の紅軍は国民党軍に編入されて八路軍と称し、抗日戦の主力となった。
中ソ不可侵条約 また蔣介石の中国国民党政府は、1937年8月にソ連のスターリン政権との間で中ソ不可侵条約を締結、協力して日本の軍事進出に対抗する態勢を作った。ソ連からの提案を蔣介石は警戒心を払拭できないでいたが、軍事援助の緊急性、日ソ開戦の可能性もあることから受け入れ、それ以後ソ連からの多額の借款、パイロット派遣を含む軍事支援を受けることとなった。一方アメリカはハル国務長官名で日中双方に停戦を呼びかける声明を発表したが、調停への具体的動きは見せなかった。
国際連盟の動き さらに中国政府は日本の侵略を国際連盟に提訴し、対日制裁の発動を要求した。10月、国際連盟は日本の行動を1922年のワシントン会議で締結された九カ国条約に違反するとして非難決議を出し、さらに11月初めに国際連盟の提唱で九カ国条約国会議がブリュッセルで開催された。すでにアメリカのF=ローズヴェルト大統領1937年10月、いわゆる隔離演説を行い、日本とドイツを伝染病患者にたとえて隔離する必要があると述べていたので、中国は対日制裁が成立することを期待したが、中国の提案を支持したのはソ連のみで、米英仏が反対したため実現しなかった。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.179>

日中戦争の呼称

 開戦当時の日本政府は、戦争であることを認めず、当初は“北支事変”といい、8月に上海事件(第二次)が起こったので“支那事変”を正式名称とした。一般には“日華事変”と言われることも多かった。その呼称は一定していなかったが、全面的な戦争であることはあきらかであった。
戦争でなく「事変」とされた理由 満州事変・支那事変を日本政府は戦争でなく「事変」であるとしてたが、実際は「宣戦布告なき戦争」であった。戦争としない理由はいくつか考えられるが、曲がりなりにも国際社会には不戦条約(1928年)があり、日本も署名していたこと、アメリカの中立法(1935年制定)にふれ、戦争となればアメリカからの支援が受けられなくなること、が理由であった。特にアメリカの中立法は交戦国への武器、弾薬、物資の輸出禁止、さらに金融・資金の支援も禁止されていた。日本は当時、アメリカとの貿易は大きかったのでそれが無くなることを恐れたのだった。それは中国も同様で、中国側も攻撃を受けながら宣戦布告しなかった。しかし、「戦争」を宣言しないことによって戦後の領地割譲、賠償などを請求する根拠がなくなることを覚悟しなければならない。<加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』シリーズ日本近現代史⑤ 2007 岩波新書 p.232>
 また実質的な戦争を継続するためには総力戦に耐えられるような動員体制をつくらなければならず、事実1938年4月に国家総動員法を制定したが、近衛内閣は「事変」の段階では適用しないと表明せざるを得なかった。もっともこの約束はすぐ破られ、1939年以降、国家総動員法に基づく勅令が次々と出され、戦時動員体制・統制経済体制が実体化していく。 → 支那事変の項を参照

戦争目的の明示

 盧溝橋事件直後の日本軍は、軍事行動の目的を「支那軍の暴戻ぼうれい膺懲ようちょうし以て南京背府の反省を促すため」と説明した(8月15日)。この「暴支膺懲」つまり「けしからぬ中国をこらしめる」という意味の言葉はまたたくまに浸透し、こどものけんかでも「ボウシヨーチョー!」が相手をやっつける決め台詞となった<三国一郎『戦中用語集』岩波新書 p.3>
 陸軍は南京を陥落させれば、国民政府は降伏すると見通しであったが、蒋介石は重慶に拠点を移し抵抗を続け、英米も援蒋ルートを通して支援を続けた。戦争が膠着するなかで、翌年、1938年1月には近衛内閣は「国民政府を相手とせず」という声明を発表した。ということはこの戦争はどの国と戦っているのか、が不分明のまま続くこととなり、また和平交渉もできないこととなり、戦争目的と収束はさらに混迷した。
 国民の多くはこの戦争は中国側の日貨排除や在留日本人に対する暴行など反日行為に対する「自衛のため」の戦争であると受け止めていたが、国際世論を相手にしなければならない政府は実態として戦争化している事態の「大義名分」と建てなければならないことに苦慮し始めた。そこでようやく1938年11月3日に打ち出されたのが、「東亜新秩序の建設」であった。これはヨーロッパの支配からアジアを解放するという世界史的な理念を装うものであったが、当時の知識人のさかんにこのような「哲学」を語り始め、この戦争は「聖戦」であるとった言説がなされるようになった。  戦争目的を明らかにすると共に、その収束の方向を模索する必要も生じたため、政府・軍部は中国内に国民政府に代わる親日派政権を樹立することを謀り、40年3月、汪兆銘を首班とする南京国民政府を傀儡政権として樹立させた。そのうえで同年7月には大東亜共栄圏の建設が戦争目的であることが示された。

太平洋戦争への転化

 日中戦争は当初、軍首脳が天皇に対して二ヶ月で終わらせると公言したように、短期戦を想定していた。しかし重慶に退いた蒋介石政権は援蒋ルートでの英米の支援を受けて屈服せず、国共合作が維持される中で中国共産党の八路軍の抵抗も続き、中国戦線はそのもくろみに反して長期化、泥沼化しながら拡大していった。ヨーロッパで1939年9月第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍の快進撃によってフランスや敗れたことを見て、日本は日独伊三国同盟の結成と東南アジアへの進出に活路を見出そうとした。
 その結果、軍部はアメリカ・イギリスとの対決が不可避であるという判断に傾き、ついに東条英機内閣のもとで1941年12月8日に日米開戦に踏み切り太平洋戦争に突入した。その直後の12月12日に東条内閣はこの戦争を“大東亜戦争”と命名し、日華事変以降の中国との戦闘もそれに組み入れると閣議決定した。こうして日中の軍事衝突は、後付けで“戦争”とされ、45年8月の敗戦まで続いた。大東亜戦争という呼称は、敗戦によってGHQ命令で使用が禁止された。
 戦後の日本では日中戦争が最も一般的な用語とされているが、1931年の満州事変以降と太平洋戦争を含めて十五年戦争という表現も定着している。また歴史学界では、中国だけではなく、日中戦争と太平洋戦争(その戦闘範囲はアジア全域に拡がった)を総称して「アジア太平洋戦争」という名称が広く用いられるようになった。なお、中国では中日戦争、抗日戦争という。

日中戦争の経過

戦争の開始

 1931年を起点とし、1945年の日本の敗戦までを十五年戦争として捉えれば、1937年の盧溝橋事件の勃発から始まる日中戦争はその中間点にあたる。
盧溝橋事件 満州事変と満州国建国後も関東軍による内蒙古工作、支那駐屯軍による華北分離工作という中国内部への日本軍の分離工作が続いていたが、1937年7月7日、北京郊外で中国軍と日本駐屯軍との間の偶発的な武力衝突から盧溝橋事件が起きた。ここでも当初日本政府(近衛内閣)は不拡大方針を表明したが、軍は日本人保護を理由に派遣軍を増強、衝突が続くなか、17日には南京の中華民国国民政府蔣介石も抗戦を表明した。
第2次上海事変 翌1937年8月13日に、上海で日本人居留民の保護活動に当たっていた海軍中尉が中国保安隊に射殺された事件を口実に日本軍は上海を攻撃、この第2次上海事変から日中両軍は全面的な戦争となり、日本軍は支那派遣軍を派兵した。日本政府(近衛文麿内閣)はそれでもなお宣戦布告をせず、この段階から支那事変(当初は北支事変)と命名した(一般には日華事変とも言われた)。このように政府の不拡大方針は常に軍部に無視され、軍主導によって宣戦布告なしの「事変」※を拡大させて事実上の戦争状態に突入していった。
※日本政府が宣戦布告を避けたのは、不戦条約の調印国であったため国際的非難を避けなければならなかったことと、アメリカの中立法が交戦中の国には武器等を輸出しないと規定しており、宣戦布告をするとアメリカからの物資(この段階ではアメリカとの貿易が大きかった)が入ってこなくなることを避けなければならなかったからである。 → 支那事変の項を参照

南京の攻略

 満州事変での経験から、日本軍は中国側の抵抗を過小に評価し、分裂状態にある中国に一気に軍事的圧力をかけることによって、降伏させられると考えていた。日本軍は、蔣介石政府は腐敗して国民から離反しているから弱体であろうし、共産党勢力も農民一揆程度の力量しかないと判断していた。陸軍大臣杉山大将は天皇に対し、戦争は短期間で終わると報告したが、実際には戦争は長期化し、日本敗戦の45年までつづくこととなる。
南京事件 日本軍は11月の上海占領(第二次上海事変)に続き、南京の攻略に着手、1937年12月13日に占領した。その際、大量の捕虜、民間人を虐殺する南京虐殺事件を起こした。

参考 南京占領の意味したもの

 日本軍は国民政府の「首都」南京を占領すれば、決定的な勝利を意味すると考えていた。中国軍の南京防衛意識も高く、攻略には多大な犠牲を日中双方に出し、しかも後々日中関係に影を落とす虐殺事件までが起きた。苦難の末に南京を占領したことで、当時は誰もが日本は勝利して、戦争は終わったと感じた。事実、日本国民は提灯行列にくり出し、勝利を祝い、戦争が終わったものと思った。
 ところが、このとき、南京はすでに国民政府の首都ではなく、重慶への移転をすでに決め、1937年12月1日に移転を実行しており、蔣介石以下の政府中枢は南京にはいなかったのだ。敵将のいない、もぬけの殻の城を攻め落としただけだったというわけだ。南京で日本軍と戦ったのは防衛司令官に任命された唐生智以下の中国兵だった。蔣介石は無抵抗で国父孫文以来の首都南京を手放したとなると国民からの支持を失いかねない。そこで唐生智に出来るだけの抵抗を指示、自らは南京から逃れたのだった。

戦争の長期化

 翌1938年1月16日、近衛内閣は「国民政府を相手にせず」(第1次声明)と表明し、蔣介石政権との講和交渉を打ち切った。国内では同じく1938年4月に国家総動員法の制定によって国民生活を犠牲にした戦時体制がとられることとなった。
戦線の拡大 戦争は長期化し、戦線拡大を強いられた日本軍は、1938年3月には徐州作戦を開始、それに対して国民党軍は退路戦術をとり、黄河を決壊させて洪水を起こして日本軍の進撃を阻止しようとした。洪水によって多数の農民が命と土地を失った。さらに戦線を華南に転じ、同年10月には広州を占領し、さらに長江中流の武漢三鎮を攻略した。この武漢攻略戦で、日本軍は毒ガスを使用した。

中国の抵抗

 蔣介石の国民政府はすでに長江上流の重慶に退き、ビルマ方面などから米英などの支援(援蔣ルート)を受け、毛沢東の指導する中国共産党八路軍など各地でゲリラ戦をつづけて抵抗した。日本軍は38年末に重慶爆撃を行うと共に、援蔣ルートの遮断を狙ってさらに南下したが、広大な大陸で点と線の支配にとどまり、戦争は泥沼化した。
援蔣ルート 国民党政府は南京を脱出して重慶に拠点を移し、そこでソ連からの援助の他に、ビルマ方面からのアメリカ・イギリスからの援蔣ルートでの支援を受け、抵抗を続けた。日本軍は黄河中流域の武漢三鎮、広東・香港などを制圧したが、戦線の拡大はそこで停まった。日本政府および日本軍はこれらの動きの事実を無視、あるいは過小評価して戦線を拡大し、その間の講和の機会をいずれも失って戦争を長期化させ、東南アジア・太平洋に資源を求めざるを得なくなった、と言える。

講和の外交努力

講和の秘密工作 日中戦争が長期化し、戦線も拡がって維持できなくことが恐れられたため、軍はようやく中国軍との講和の模索を開始した。しかし、「国民政府を相手とせず」と表明してしまったために正面から講和を持ちかけることが出来ず、謀略によって親日勢力と接触し重慶政府の分裂を図った。陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐や参謀本部支那課長今井武夫中佐などによる極秘裏の工作は、反蔣介石派の汪兆銘を相手に進められた。また近衛内閣は親日政権が交渉に入ることが出来るように、1938年11月3日に戦争の目的を「東亜新秩序の建設」(第2次声明)にあると表明して、それに協力できる政府であれば交渉に応じると呼びかけた。
汪兆銘政権の樹立 12月には汪兆銘が重慶を脱出、ハノイに迎えられ、近衛首相は「善隣友好・共同防共・経済提携」の三原則を和平の条件として示し(第3次声明)、汪兆銘もそれに応じた。1940年3月には、親日政権として汪兆銘を擁立し、南京国民政府を樹立させて中国分断を図ったが、中国民衆は南京政府を日本の傀儡世間と見抜いて支持せず、国民政府軍と共産党軍の抵抗はさらに活発となったため、日中戦争の終結はかえって遠のいた。その他、アメリカなどを通じた講和の秘密交渉がいくつか行われたが、いずれも失敗した。

ノモンハン戦争

 この間、日本軍は日中戦争を有利に展開するためは、北方のソ連が障害となると想定しており、ソ連を牽制するには、ナチス=ドイツとの軍事同盟が必要と考え、日独伊三国同盟の結成を工作していたが、政府内部や海軍は三国同盟が米英との対立につながると考え、強力に反対しており、意見が一致していなかった。そのような国の方針がはっきりしない状態の中で、1939年5月、満州国とモンゴル人民共和国の国境で関東軍とソ連軍の軍事衝突事件が勃発した。これはノモンハン事件と言われるが実態は日本軍とソ連軍の(宣戦布告なき)事実上の戦争であった。関東軍は日本政府や軍中央の参謀本部の戦闘行為禁止の命令を破って日本軍が想定した国境を越えて侵攻し、ソ連軍もただちに応戦、大規模な衝突となった。関東軍は日中戦争の推移によってはソ連軍との戦争は必至と考え、機会を狙っていたが、ソ連軍の機械化部隊が大量に投入されたために後退を余儀なくされ、ソ連軍も大きな犠牲を出して8月に停戦となった。停戦の背景には、ドイツの動きが急になってきたことが挙げられ、事実、同1939年9月にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が開始された。ソ連も主力をポーランド国境に移し、9月17日にはソ連軍のポーランド侵攻を開始した。手痛い敗北を喫した日本軍は北進を諦め、日中戦争の打開のためにはインドシナなどの東南アジアへの進出を図る南進論に転換する。それにともなって中国戦線は長い停滞の時期に入ることとなった。

参考 毛沢東の持久戦論

 日本が「国民政府を相手にせず」と声明する一方、日本軍が徐州や広州に作戦を拡大し、武漢を陥落させ、国民政府が重慶に逃れていった1938年、中国共産党の毛沢東が『持久戦を論ず』という論文を発表した。毛沢東はその中で、「中国は大きいが弱い国である」という認識に立ち「日本には簡単に勝てない」が、「同時に簡単には負けない」と論じ、戦争は長期化し、持久戦になるだろうと述べた。そして持久戦は中国の勝利に終わるだろうと予測し、その理由として、日本は強力な帝国主義国であるが、戦争遂行の本質において退歩性・野蛮性があり、兵力・物力も不足しがちで、しかも国際的に孤立していること、中国は進歩性・正義性があり、土地が広く人口も多く、海外から多くの援助が得られる国際情勢があることをあげた。さらに今後の戦局を第一に侵攻と防禦の段階、第二に戦略的対峙の段階、第三に敵の消耗とわが軍の攻勢の段階を経て、戦争が終結すると見通した。この論文は全国的反響を呼び、それまでの悲観的な「亡国論」や観念的な「速勝論」に代わって主流となり、ここから「不可能を可能にする」毛沢東神話が始まった。<山本英二『中国の歴史 増補改訂版』2016 河出書房新社 p.278>
 毛沢東の見通しの通りに戦争は続き、日中戦争は中国の勝利、日本の敗戦で終わった。毛沢東及び中国共産党が正確な見通しで戦争を勝利に導いたという評価が、戦後の中華人民共和国の国家アイデンティティの拠って立つ重要な柱となった。

第二次世界大戦の勃発

 アジアにおける軍国主義日本の中国侵略が本格化したころ、ヨーロッパではファシズム国家ナチス=ドイツムッソリーニ=イタリアの領土拡張の軍事行動も開始されており、その軋轢はついに1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻を開始したことによって第二次世界大戦の勃発となった。
日独伊三国同盟の締結 日中戦争の泥沼化、長期化に悩んでいた日本は、1940年5月、ヨーロッパで、ナチス=ドイツ軍がフランスを占領したことを受け、援蔣ルートの遮断とともに、フランス領インドシナの資源の獲得を狙って1940年9月、北部仏印進駐を強行した。日本が石油資源の獲得などを狙い、東南アジア方面への南進の姿勢を示したこと対して、アメリカは強い警戒心を持つようになった。一方、ドイツはイギリスに対する空爆を開始、上陸を目指したのでイギリスの抵抗が激しくなり、アメリカもイギリス支援の姿勢を明確にすると、ヒトラーはイギリス・アメリカとの対決に備える必要が出てきた。ヒトラーはアジアに於いてイギリスとアメリカを牽制するため、防共協定に代わる日本との軍事協定の締結を日本に対して働きかけ、日本ではドイツとの提携を主張する松岡外相と陸軍が主導してそれを受諾する方向に傾き、1940年9月27日、イタリアを加えて日独伊三国同盟を締結した。これによってアメリカ・イギリスなどとの利害が直接的な対立が不可避となると、北方の不安を取り除く必要から、1941年4月には日ソ中立条約を締結した。日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟を締結することによって、中国の蒋介石政権とその背後にあるアメリカに圧力をかけて、事態を好転させたいと考えたが、この軍事同盟はファシズム三国が「枢軸国」として結束したものであったので、アメリカは第二次世界大戦に参加していなかったものの、ローズヴェルト大統領は対決姿勢を強めていった。

太平洋戦争への延焼

 1941年6月、独ソ戦が始まったことで、ソ連が米英と結んで連合国を形成するという戦局の大転換があったが、日本軍は独ソ戦でのドイツの勝利を疑わず、アメリカ・イギリスとの開戦をも辞さない強硬姿勢を維持した。7月、日本軍は南部仏印進駐を実行し、一気に米英との対立が深まり、日米交渉も行き詰まった。1941年12月8日、東条英機内閣真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争が勃発、これによってアメリカが参戦し、文字どおりの世界戦争に転化した。こうして日中戦争は、全アジア・太平洋地域を戦場とした全面的な戦争に拡大されることとなったが、日本の防衛ラインを守るには、アメリカ軍の海上戦力、航空戦力との差が歴然としており、次第に戦線を後退させざるを得なくなった。また同盟国イタリア、ドイツも相次いで敗れ、日本もサイパン陥落後は本土空襲と広島・長崎への原爆投下に晒されて無条件降伏に追いこまれることになった。

日中戦争の講和

 日中戦争は、太平洋戦争での日本の敗北を受け、1945年8月に戦闘行為は終わった。日本の無条件降伏を勧告したポツダム宣言には中国政府も署名していたから、日本がそれを無条件で受諾したことによって、日本は中国に敗北したこととなった。しかし、中国国内でただちに国共内戦(第2次)となったため、正式な講和はなされないまま経過した。そのため、多くの日本人在留者、在留孤児が発生してしまった。
 1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台湾に逃れると、アジア情勢は大きく変化した。50年6月、朝鮮戦争が勃発するとアメリカは日本を完全に西側陣営に取り込むため、51年、サンフランシスコ講和会議を開催したが、その席には中華人民共和国、中華民国のいずれも招聘されず、日本と中国の講和(同じくソ連、朝鮮との講和)は棚上げとなった。中華民国とは1952年に日華平和条約を締結し講和が成立したが、大陸を制圧した中国共産党支配下の中華人民共和国とは長く国交回復の動きさえなく経緯した。
 ようやく、1970年代のアメリカと中国の国交回復を受けて日中間の交渉が始まり、1972年の日中国交正常化の合意成立によって日中共同声明が発表され、戦争状態の終結が宣言された。つまり、1931年の満州事変から数えれば、両国間の不幸な対立は交戦期間が15年、戦闘終了から講和まで27年、あわせて42年間であった、ということになる。
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書籍案内

古屋哲夫
『日中戦争』
1985 岩波新書

臼井勝美
『日中戦争』
1967 中公新書

森山康平
『図説 日中戦争』
ふくろうの本
2017 河出書房新社

加藤陽子
『満州事変から日中戦争へ』
シリーズ日本近現代史⑤
2007 岩波新書

三國一朗
『戦中用語集』
1985 岩波新書

秦郁彦
『日中戦争史』
2011 KADOKAWAルネサンス
初刊 河出書房