印刷 | 通常画面に戻る |

満州事変

1931年9月、日本の関東軍が柳条湖事件を契機に中国軍との戦闘に突入、満州を占領した。翌年、満州国を建国。国際的非難の中で、国際連盟から脱退する。国内では軍国主義的傾向が強まり、五・一五事件で政党政治が終わりを告げる。次いで華北への侵略は日中関係をさらに悪化させ、1937年には全面的な日中戦争に突入した。満州事変は1945年まで続く、日中の十五年戦争の始まりとなった。

 1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は、それを中国国民軍に属する張学良軍の犯行であると断定し、鉄道防衛の目的と称して反撃し、軍事行動を拡大した。この柳条湖事件から開始された、宣戦布告なしの日中両軍の軍事衝突を満州事変といった。その真相は戦争中は伏せられていたが、戦後になって関東軍の謀略であることが明らかになった。 → 「事変」の意味については、支那事変を参照。
 この年には6月に中村大尉事件(関東軍の中村震太郎大尉が満州を調査旅行中、現地人に殺害された)や7月に万宝山事件(長春郊外で朝鮮人入植者と中国人が水利権を巡って争い衝突、日本軍が介入した)など緊迫した状況が続いていた。

満州全域への拡大

 9月18日に一斉に軍事行動を開始した関東軍は、約1万400の兵力を持って奉天、営口、安東、遼陽、長春など南満洲の主要都市を占領した。朝鮮軍は事前に関東軍と打ち合わせて、独断越境を実行し約4000を増援部隊として送った。若槻首相、幣原外相はただちに不拡大方針を決定、陸軍中央も関東軍にそれ以上の行動を認めないとして抑えにかかったが、関東軍はそれらに従わず、戦火を管轄外の北満州に拡大し、翌32年2月までにハルビンを占領した。
 自国の主権下にある満州で外国の軍隊の軍事行動が拡大されたことを、中国では「九・一八事変」ととらえ、攻撃に対して中国国民党政府で東三省の防備にあたっていた東北軍を指揮する張学良は当時病気療養のため北京に滞在しており、東北軍主力も北京周辺にあったので適切な対応が取れなかった。蔣介石は南京にいて東北を張学良にまかせており、北上の姿勢をとらなかった。関東軍はそれを予測して各要所に迅速に出兵し、一気に満州全域を占領した。

関東軍の意図

 満州事変は、中央の日本政府や軍首脳の承認もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった。それを推進したのは関東軍参謀の石原莞爾中佐であったとされている。「満蒙(満州と内蒙古)」は日本の自給自足圏として生命線であり、また共産主義の浸透から朝鮮を守る必要があるという陸軍伝統の発想に加え、石原中佐ら関東軍参謀は世界恐慌による不況で満鉄の営業利益が悪化し、しかも張学良が満鉄と競合する新鉄道の建設を進めていることに危機感を持ち、満州を中国政府から分離させ、日本が直接統治すべきであると考え、そのためには政府の承認などの手続きによらず、謀略によって軍事行動を起こすしかない、と思っていた。石原莞爾の構想では、満州は独立させるのではなく日本が直接統治し、それは中国本土まで拡大してはならない、というものであった。なお、石原はソ連は第1次五カ年計画の途中でまだ極東に進出する余裕はないと判断、一方で日本が満州を支配することによって、将来のアメリカとの世界最終戦争に備えるという、妄想ともいえる戦略を構想していたという。

日本政府の不拡大方針とその挫折

 若槻礼次郎首相のもとで外相を務めていた幣原喜重郎は、関東軍の謀略であることを疑っていたが、自衛のためであるという軍の主張には反論できず、軍事行動は認めざるをえなかった。しかしそれ以上の拡大は認めないという不拡大方針を閣議決定とし、国際世論に配慮して中国側と撤兵を前提とした交渉を開始することとした。しかし、出先の関東軍の行動を追認した軍首脳は、撤兵に反発、南次郎陸軍大臣の辞任をちらつかせて若槻首相を揺さぶった。関東軍は不拡大方針を無視して軍事行動を拡大、10月8日に張学良軍の拠点である錦州を爆撃し、さらに11月には北満州のチチハルまで戦線を広げた。錦州とチチハルは本来の関東軍の防衛範囲を大きく逸脱する出兵であるので、若槻首相、幣原外相はそれを阻止しようとしたが、関東軍は攻撃を強行したため統制できないところに追い込まれ、12月に総辞職、政友会犬養毅内閣に替わった。

諸外国の動き

 満州事変に対してアメリカは強く反発し、1932年1月、フーヴァー大統領は国務長官スティムソンの名で、日本の満州における軍事行動は九カ国条約(中国の主権尊重、機会均等、門戸開放の原則)と不戦条約に違反しているので承認できないという声明(スティムソン=ドクトリン)を発表した。しかし経済制裁などの実力行使は行わず、またイギリスも事態が満州に限られている間は黙認するという態度をとった。両国とも世界恐慌のさなかにあって、アジアに干渉する余裕がなかったことが背景にあった。
 中国政府(蔣介石)は共産党との内戦を優先する(安内攘外)ため、全面的な日本との戦争を避け、もっぱら日本軍の侵略行為を国際連盟規約違反であるとして国際連盟に提訴し、国際世論によって阻止することをめざした。国際連盟では日本も含む常任理事会で中国が提案した撤退勧告が可決されると、日本はなおも自衛行動であること、中国側には治安能力がないこと、などの理由で正当性を主張、調査団を派遣することを提案し、それが実行されることとなった。
 ソヴィエト=ロシアでは1924年にレーニンは死んでいたが、1921年からネップ(新経済政策)が採用されて、経済を立て直し、翌年にはソ連邦が成立していた。この時期にソ連の承認が続き、日本とも1925年1月に日ソ基本条約が締結されていた。ついで1928年からスターリンによる第1次五カ年計画が開始され、満州には力をさけない状況になっていた。そのためスターリンは満州事変勃発に対しては中立不干渉を声明した。なおソ連はまだ国際連盟には加盟していない。
ワシントン体制の崩壊 満州事変で日本が公然と中国大陸への侵略を開始し、それをアメリカ・イギリスが阻止できなかった(しなかった)ことは、第一次世界大戦後のアジアの国際秩序とされていた、ワシントン会議(1921~22年)で成立した九カ国条約を柱とするワシントン体制が、事実上崩壊したことを意味している。それは、ヨーロッパにおけるロカルノ体制が、ヒトラーの登場によって破られていくのと時を同じくしており、ヴェルサイユ体制の両輪が崩れたことを意味していた。  問題は国際連盟を舞台とした交渉に委ねられることになったが、第一次世界大戦後に構築された集団安全保障の仕組みが、理事国という立場である日本が引きおこした行動を、アメリカとソ連が加盟していないという状況の下で、機能させることができるかが問われることとなった。

上海事変とその失敗

 翌1932年1月、関東軍は北満州の中心地ハルビンを占領、同じ1932年1月、海軍を主体とした日本軍は中国本土で上海事変を起こし、戦火を拡大して中国に圧力を加えた。まさにこの1932年2月、国際連盟(すでにドイツは加盟し、理事国となっていたが、ヒトラー政権成立の前であった)は非加盟国のアメリカとソ連も参加してジュネーヴ軍縮会議を開催し、国際連盟は世界大戦の再発を防止すべく(最後の)努力をしていたのだった。日本の満州事変後の動きに国際的関心が強まっているなかで、上海事変を引き起こすという世界の動きから隔絶した日本の侵略行為は、世界的な理解を得られるはずはなかった。こうして中国本土への侵略は、中国軍の抵抗と国際世論の反発によって失敗し、石原莞爾らも満州の直接支配をあきらめ、陸軍首脳の意向を受けて満州に傀儡政権を樹立する策に転換し、満州国を建設して支配領域を確保する方向へと向かった。

満州国の建設

 関東軍首脳は当初は満州を直接統治下におくつもりであったが、国際情勢から行ってそれが困難と判断したか、事変開始直後に独立国家建設の方針に転換した。特務機関長土肥原大佐が動き、清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、1932年3月に満州国を建設した(当初は溥儀は執政となった)。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという五・一五事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、日満議定書を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの国民は関東軍の行為を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎した。

日本の国際連盟脱退

 日本政府は、満州国の建国は満州人の自主的な独立国家の建設であると主張したが、中国は不当な侵略行為であると提訴した。国際連盟リットン調査団を現地に派遣するとともに双方の主張を聞いた上で報告書を提出した。報告書は柳条湖事件は関東軍の謀略であり、日本の主張である自衛行為であるとは認定できないというものであった。従って日本軍には満州からの撤退が勧告された。ただし満州での日本の一定の権益については認め、満州に自主的な国家が建設されることは容認していた。国際連盟に提出された報告書は、1933年2月の国際連盟総会で審議され、満州国の不承認と日本軍の撤退を42ヵ国の賛成、反対1(日本)、棄権1(シャム)で可決した。1933年3月、日本はそれを不服とする日本は国際連盟を脱退、孤立を深めていく。

日中戦争への道

 日本は満州国を傀儡国家として建設し、その資源を獲得するとともに多くの移民を送り込み、国内の経済不況を打開しようとした。しかし領土的欲望はとどまることを知らず、満州国に隣接する地域を含めた経済ブロック建設にむかった。
熱河作戦 国際連盟での審議が終わっていない1933年2月、早くも関東軍は軍事行動を再開、満州国に隣接する熱河省に出兵、さらに万里の長城の山海関をこえて河北省に侵入し、北平(現在の北京)・天津に迫った。蔣介石は共産党との内戦を優先していたため、本格的な抗日戦を避け、1933年5月末に塘沽停戦協定を締結した。
塘沽停戦協定 この協定は停戦と同時に、中国政府は熱河省まで含めて満州国を承認し、日本軍は長城線まで退くとともに中国軍は河北省の大部分から撤兵する、つまり非武装地帯とするという内容であった。これによって満州事変は一応収束され、戦闘行為はなくなったが、日本はこの非武装地帯をさらに実質支配することをめざし、1935年には華北分離工作を進めて中国本土への侵略を進めることとなる。
盧溝橋事件 1931年の満州事変によって日本と中国は、宣戦布告無き戦争状態に入り、一旦停戦が成立したものの、日本軍の侵略行為はなお続いた。それに対して中国で抗日運動が激しくなる中、1937年に北平付近に駐留していた日本軍が軍事行動を起こして盧溝橋事件が勃発、全面的な日中戦争に突入する。さらに1941年には太平洋戦争に戦線が拡大、1945年の日本の敗北までの15年間にわたり戦争が続くことになるので、満州事変からのこれらの戦争を総称して十五年戦争という。

満州事件の歴史的意味

 満州事変は、現地の関東軍の一部幕僚の独断で進められたという側面が強いが、それだけではなく国内の政府・軍中枢内部の同調者の動きがあって初めて可能であり、また天皇・政府・軍首脳が結果的に容認したこともが重要である。議会も政友会・憲政党のいずれも、全体的には「満蒙権益を守れ」という声が大勢だった。また、マスコミや世論も関東軍の行動をむしろ積極的に称賛する方が多かった。国民的な力で戦争への道を止めることはこの時点では困難だった。
 しかし、国際的な反応は、当事国である中国の提訴を受け、国際連盟の加盟国の多くは、日本の侵略行為と見ていた。その結果、国際連盟理事国であった日本がみずから脱退して国際的孤立への道を選び、次いでファシズム国家との提携に傾斜していく。国内では五・一五事件での犬養首相暗殺によって政党政治が終わり、軍部独裁体制へと向かうという重大な転換をもたらすこととなる。歯止めがなくなった軍国主義的路線は、1937年の日中戦争、さらに1941年の太平洋戦争へと続くこととなり、満州事変は「十五年戦争」のはじまりとなった。

日中の関係回復

 満州事変から始まった日本と中国の不正常な関係は、1945年の太平洋戦争の日本での敗戦によってもすぐには解消されず、講和はできなかった。中国で国共内戦が再開され、1949年に中華人民共和国が成立、中華民国政府は台湾に逃れ、1950年6月、朝鮮戦争が勃発するという激動が続いたためもあって、国交回復はなされないままだった。ようやく1972年の田中角栄首相の訪中による日中国交正常化交渉の結果、同年に出された日中共同声明によってであった。従って日中の不幸な戦争状態は日中戦争を挟んで前後40年にわたっていたことになる。
印 刷
印刷画面へ