ハンガリーの民主化
1989年1月、社会主義体制下のハンガリーで政党活動の自由が認められるなどの改革が始まり、同年の東欧革命の端緒となった。ハンガリーは同年10月社会主義を放棄し、ハンガリー共和国となった。
1960~80年代のハンガリーで長期政権を維持していたカーダールは健康上の理由から1988年にようやく辞任した。後任の書記長にはグロースが就任、同時にカーダールのもとで市場経済導入を試行錯誤していたニエルシュ、政治改革に熱心なポジュガイ、ハーヴァード留学経験のある若い経済学者ネーメトなど改革派が政治局入り、首相はネーメトが務めることになった。グロースは古いタイプの党官僚であったが、三人の改革派に取り込まれ、1989年1月から大胆な民主化に向けての改革が行われた。これは一連の東欧革命の先頭を切るものであり、また「一発の銃声も聞かれず、一滴の血も流されず」平和な手段で実現された。
これを知った東独国民はハンガリーを経由して西ドイツに亡命しようと多数が押し寄せ、夏までに20万人規模となった。首相ネーメトは密かに西ドイツのコール首相を訪ね、難民の受け入れの了解を取り、9月10日正式に東独難民のオーストリアへの出国を認めた。その日東ドイツでは反体制グループ「新フォーラム」が結成され、意志決定能力を欠いた東独のホネカー政権に対する反政府運動を開始、それがベルリンの壁の開放と、東独消滅の引き金となった。このハンガリーの積極的な国境開放は、ハンガリーが西側諸国に入ることを強くアピールするためのものであった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波書店 p.77-83>
ナジ=イムレらの復権
改革はまず、1956年のハンガリー反ソ暴動の再評価という歴史の見直しから始まり、ポジュガイらの主張により、それは暴動ではなく、「大衆蜂起」でありソ連の圧力に対する自立と民主主義を求める革命運動であったと再評価され、反逆者として処刑されたナジ=イムレを革命の指導者として復権を認め、国家英雄として再埋葬が行われた。ハンガリー改革の内容
1989年1月、まず政党活動の自由を認める結社法と集会の自由を認める集会法が国会で成立し、社会主義国では初めて、一党独裁制が否定されて、政党活動の自由が保障された。さらに憲法から「党の指導性」は削除され、「法治国家」の理念のもと、大統領・議会・行政府の独立した権限を保障することが決定された。さらに10月には社会主義労働者党はスターリン主義に起源を持つ政党であったと自己批判して、党名を社会党に変更した。さらにハンガリー反ソ暴動で大衆デモが発生した10月23日を国家の記念日とし、その日、国会前のコシュート広場で数万の市民が集まり、新国家ハンガリー共和国(ハンガリー語ではマジャール共和国)の設立がスールシュ臨時国家元首によって宣言された。ハンガリー・オーストリア国境の開放
1989年の東欧革命の号砲となったのは、5月に始まったハンガリーによる、オーストリア国境の開放だった。これはハンガリー首相のネーメトが密かにオーストリア側と交渉を進めた結果であった。「5月2日、両国国境350kmに沿って1960年代に張り巡らされた鉄条網と警報装置を年末までに撤去すべく、・・・国境警備隊による解体作業が始まった。東独=チェコスロヴァキア=ハンガリーの西部国境に沿って東西欧州を分け隔ててきた鉄のカーテンに初めて風穴があいたのである。」これを知った東独国民はハンガリーを経由して西ドイツに亡命しようと多数が押し寄せ、夏までに20万人規模となった。首相ネーメトは密かに西ドイツのコール首相を訪ね、難民の受け入れの了解を取り、9月10日正式に東独難民のオーストリアへの出国を認めた。その日東ドイツでは反体制グループ「新フォーラム」が結成され、意志決定能力を欠いた東独のホネカー政権に対する反政府運動を開始、それがベルリンの壁の開放と、東独消滅の引き金となった。このハンガリーの積極的な国境開放は、ハンガリーが西側諸国に入ることを強くアピールするためのものであった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波書店 p.77-83>