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ハンガリー反ソ暴動/ハンガリー事件

1956年、ソ連のスターリン批判後にハンガリーで起こった自由化を求める暴動。ソ連軍によって弾圧され、指導者ナジ=イムレは処刑された。

 ソ連スターリン批判コミンテルンの解散を受け、1956年10月23日ハンガリーで起こった反ソ暴動。ポーランド反ソ暴動とともに東ヨーロッパ社会主義圏を揺るがせたが、ソ連軍の軍事介入で鎮圧された。ハンガリー事件ハンガリー動乱とも言われる。

スターリン批判が契機

 1956年6月に始まったポーランド反ソ暴動での改革と10月の政権交代の成功を見た首都ブダペストの学生・労働者・市民が大規模なデモを起こし、政府はソ連軍に出動を要請したが、暴動は地方に広がり、労働者はゼネストに入った。スターリン主義者の首相が退任し、新たに首相に就任したナジ=イムレは複数政党制の導入などの改革を図り、ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を表明した。

ソ連の介入

 ハンガリーの革新を「反革命」と断定したソ連(フルシチョフ、ブルガーニン首脳部)は、反ソ暴動と位置づけて軍事介入に踏み切り、2000台の戦車でブタペストを制圧するとともにナジを解任しスターリン派のカーダールを据えた。ナジ=イムレはソ連に連行され処刑された。カーダールは改革派を大量処分し、ハンガリー反ソ暴動は終結した。この動乱で数千人が死に、20万人が亡命した。ソ連はハンガリーのワルシャワ条約機構脱退と中立を許せば、ポーランドなど他の東欧諸国に飛び火し、東欧支配が崩れることを恐れたのである。ハンガリー反ソ暴動(およびポーランド反ソ暴動)に対するソ連軍介入は、スターリン死後に始まった「平和共存」に暗雲を投げかけ、米ソ関係は緊張し、それぞれ主導権を狙って核兵器開発競争を再開することとなる。

その後のハンガリー

 1960~80年代のハンガリーはカーダールの長期政権が続くが、その間一定の経済改革が進み、民主化の基盤が作られた。1989年、東欧革命の先陣を切ったハンガリーの民主化ではハンガリー反ソ暴動は再評価され、「国民革命」と言われるようになった。

Episode 消えた「マジック・マジャール」

 ハンガリーはかつてサッカーの強国だった。1954年の第5回ワールドカップ・スイス大会では優勝候補とされ、決勝で西ドイツに敗れた。この時の西ドイツの勝利は「ベルンの奇蹟」と言われているが、ハンガリーにとって決勝リーグの組合せでブラジル、ウルグアイという強豪との連戦する不利があった。ハンガリーのサッカーは戦前から盛んで、「マジック・マジャール」(マジャールはハンガリー人が自らをそういった)と言われる華麗なテクニックとコンビネーションでこの大会まで4年間無敗を続け、52年ヘルシンキオリンピックでは金メダル、53年にはイングランドを史上初めて「聖地」ウェンブリーで破っていた。ところがワールドカップの2年後の1956年にハンガリー動乱が勃発、「マジック・マジャール」は消滅した。主力選手プシュカーシュとコシチェはスペインに亡命、戦力が一変した。その後ハンガリー・サッカーは東京・メキシコ五輪で優勝するが、ミュンヘンの銀を最後に目立った成績を残せなくなり、その栄光の記憶は遠くなってしまった。<千田善『ワールドカップの世界史』2006 みすず書房 p.51-55>

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書籍案内

南塚信吾
『ハンガリーの「第三の道』
岩波ブックレットシリーズ
東欧現代史5
1991 岩波書店