チェコスロヴァキアの民主化/ビロード革命
1989年、東欧革命の中でチェコスロヴァキアの社会主義政権が倒れ、民主化が実現した。ビロード革命ともいわれる。しかし民主化後、チェコとスロヴァキアの分離要求が表面化し、93年に分離した。
1970~80年代のチェコスロヴァキア
チェコスロヴァキアでは、1948年からチェコスロヴァキア社会主義共和国となり、ソ連の衛星国として共産党一党支配の下に置かれていたが、もともと首都プラハを中心に工業が発達し、市民意識が高かったので、早くから民主化運動が起こっていた。1968年の「プラハの春」がソ連軍などによって弾圧された「チェコ事件」以来、共産党フサーク第一書記の下で「正常化」といわれる社会主義経済、一党独裁体制を続けていた。フサーク第一書記は、1975年、老齢のスヴォボダ大統領の辞任に伴い、大統領も兼ねて国家元首の地位に就いた。しかしこの間、60年代にみられた官僚主義の体制の中での経済停滞と、言論抑圧の中での、国民の無気力、無関心が蔓延するようになった。1977年にはハヴェルらの知識人が「憲章77」を発表したが、直ちに弾圧され、民主化は進まなかった。「憲章77」はその後も人権擁護団体として反政府活動を続けたが秘密警察による監視などが張り巡らされ、市民生活の自由は奪われていた。フサークは1987年にヤケシュと交代するまで書記長を務め、大統領には89年まで留まった。
ペレストロイカの影響
ところが1985年から始まった社会主義の本家であるソ連におけるゴルバチョフ共産党書記長によるグラスノスチとペレストロイカの急速な実行はチェコスロヴァキアの民衆にも勇気を与えた。ドプチェクの復権
1989年1月、「憲章77」は68年のソ連の軍事介入の時に抗議して焼身自殺した大学生の追悼集会を開催したところ、当局は警察で弾圧し、主催者のハヴェルらを逮捕し、2月には煽動罪で実刑判決を下した。それに対する抗議行動が盛り上がる中、約20年ぶりで沈黙を破った「プラハの春」の指導者ドプチェクが、共産党政権に対し、民主化の再評価を要求、またワルシャワ条約機構加盟国に「ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)」の見直しを求める書簡を送った。21年前と違い、この年にはポーランドの民主化が進んで「連帯」が政権をとっており、ハンガリーの民主化も進んで、チェコスロヴァキア共産党政権は孤立していた。ビロード革命
10月29日には約1万による集会がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁の開放の報がとどくと市民・学生の活動は活発となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴェルが大統領に選ばれた。こうして大衆行動によって流血の惨事を回避しながら共産党政権の打倒と民主化を実現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」とも言われている。 → チェコスロヴァキアの連邦解消