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ドイモイ

「刷新」を意味する、1986年からのベトナムの市場経済導入路線をドイモイという。

 現代のベトナム1986年12月から採用された改革路線のこと。トイ=モイとはベトナム語で「刷新」の意味で、ベトナム社会主義共和国政府が掲げた社会主義一党独裁の下での市場経済導入を中心とした経済再建政策のこと。
 ベトナム戦争後、親ソ連路線をとってカンボジア内戦では親中国のポル=ポト政権を倒すため、1979年1月にカンボジアに侵攻し、反発した中国との間で同年2月、中越戦争がおきるなど、戦時態勢が続き、国民生活を圧迫した。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。この間、急激な社会主義化を避けた多くの南ベトナム人が、国外脱出を図り、ボートピープルとなって国際的な問題となった。
 1986年、親ソ・社会主義強化路線をとっていたレ=ズアン党書記長が死去すると、同1986年12月の党大会で新党書記長グエン=ヴァン=リンは「ドイモイ路線」を宣言し、食糧の増産・消費物資の生産拡大・輸出商品の拡大の三目標を掲げ、社会主義の枠内での市場経済の導入などの経済改革を打ち出した。ドイモイは経済分野にとどまらず、硬直化した官僚組織、教条主義の克服などが課題であった。背景にはソ連にゴルバチョフ政権が登場し、ペレストロイカが進行し、中ソ関係も改善されたことがある。

Episode 日本で経済を学んだ、ドイモイの産みの親

 ドイモイとは、日常使われている生粋の二つのベトナム語、dôi (変える)と moi (新しい)を組み合わせた単語で、ソ連のペレストロイカ(1985年に始まる)より前の1982年頃に新しい意味で使われ始めた。この言葉の産みの親は経済学者のグエン=スアン=オアイン氏であるが、彼は現代のベトナムの激動の中で波瀾万丈の人生を送ってきた。
 1921年、ハノイの裕福な医者の子として生まれた。18歳の1940年、日本軍が北部仏印進駐を行ってハノイに進駐してきた。青年オアインは日本はベトナムの独立を援助してくれると信じ、日本に留学する。国際学友会で日本語を学び、京都の第三高等学校に入学、終戦の年の45年に京都大学経済学部に進学した。終戦直後の混乱のなかで勉強を続け、49年に卒業し、渡米してハーバード大学大学院に進み、54年に博士号を取得、当時ベトナム人で唯一、経済学助教授に就任し、59年からIMFの上級エコノミストとなった。南ベトナム政府の強い要請で帰国し、42歳で中央銀行総裁として通貨改革、財政改革にあたり、首相代行も務めた。ところがベトナム戦争が始まり、75年にサイゴン陥落。南ベトナム政府高官は北ベトナムの共産主義者を畏れ、海外に逃れたが、オアイン氏はサイゴンを離れなかった。オアイン氏は蟄居状態となり、統一ベトナムの政府は南ベトナムに急速な社会主義経済を押しつけ、企業の国営化、農村の集団化を強行した。しかしベトナム軍のカンボジア侵攻中越戦争と続き、国際的にも孤立してベトナム経済は悪化の一途をたどり、富裕層はボートピープルとして脱出していった。
 ようやく中越戦争が終結した1979年から、ベトナム中枢部に改革派があらわれた。その中心の南ベトナム出身のグエン=ヴァン=リンらは、非公式にオアイン氏に接触、深刻な経済危機を打開するため、その経済顧問となることを要請した。それに応えたオアイン氏は、積極的に農村を廻り、生産→流通→分配→消費という経済循環過程が完全に停滞してることに気付き、小規模な改革に着手した。リンとオアインは保守派の抵抗に遭い、幾度も妨害されながら、世論や報道機関に熱心に「新しく変える(ドイモイ)」を徹底して実行することを説いていった。こうして1985年6月、ベトナム共産党中央委員会第8回総会で、リンは政治局員に返り咲き、改革路線に着手し、オアインの経済学者としての能力と経験が全面的に生かされることになった。<坪井善明『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』1994 岩波新書 p.146-160>

ドイモイの開始

 1986年12月、共産党第6回大会でグェン=ヴァン=リンが書記長に選出され、党全体の意思として「ドイモイ」を国家目標として宣言した。この大会でドイモイ政策は次の4点に整理された。<以下、坪井『同上書』などによる>
  1. 「社会主義にいたる過渡期は長期的な歴史過程である」とし、性急な社会主義化が否定された。
  2. 重工業優先を見直し、農業を基本として食糧・食品の増産、生活消費財の生産拡大、輸出の拡大を優先し、投資の6割を集中させる。
  3. 資本主義的経営や個人経営の存在を認め、その有効活用を合法と認める。(つまり中央集権的な計画経済を廃棄し、市場経済を導入する。)
  4. 国際分業、国際経済協力に積極的に参入していく。

ドイモイの試練と成功

 ドイモイ政策による価格・賃金・通貨の全面的な改革は、早くも試練に直面した。地方レベルの実験では制御できたインフレが、全国レベルでは指導者の予測を超えるスピードで進行し、コントロールできなかった。抜き打ち的な通貨ドンの切り替えをデノミと同時に行ったため人々はパニック状態に陥り、通貨ドンに対する不信感が強まった。また、道路や橋などの産業基盤(インフラ)の整備が遅れたため、市場での物資不足が絶対的だった。
 グェン=ヴァン=リン執行部はこのインフレ沈静化に大きな努力を払った。世界銀行の助言を受け入れて金融政策を大幅に改め、紙幣の乱発を止め、金利引き締めて通貨ドンの価値の安定を図った。物資が市場に出回るように生産の奨励と共に「自由化=規制緩和」を進めた。また採算の取れない国営企業や補助金の打ち切りを進め、国家財政の赤字を縮小することに努めた。加えて外国からの投資を増やすため1987年に外国資本の100%出資を認めた。
 これらのドイモイ執行部の「荒療治」は、ソ連のペレストロイカ、東西冷戦の終結という大きな流れと並行して行われた。特に1989年の東欧革命は、それ以前に市場経済導入に踏み切っていたベトナムのドイモイ指導部の方向性の正しさに確信を持たせることとなった。

政治の自由化は封印

 しかし、ソ連と東欧諸国では自由化の嵐が共産党一党体制の崩壊に行き着いた。それに対して、ベトナムの改革開放は、中国と同様、経済体制に留まっており、政党結成の自由、自由選挙による議会などの政治上の自由化は否定されている。政権内部にも、一気に複数政党の承認まで主張するグループもあったが、ドイモイ主流派であるリン書記長はそれらの声を押さえつけている。ベトナムで政治上の自由化が「必要でない」とするのは次のような「歴史的条件」が異なるからであると説明されている。
  1. 東欧諸国はソ連の「赤軍」によって「解放」された地域であるが、ベトナムはホー=チ=ミンの指導の下で独自の党と軍隊の力で革命を進め、独立を勝ち取った。
  2. 東欧諸国のいくつかはかつて複数政党制の経験を持ていたが、ベトナムは農民主体の封建体制から革命によって開放された国であり、歴史的環境が異なる。
  3. 東欧諸国は工業化が進展しており、経済水準が高い。ベトナム国民の要求はまだ経済生活の改善にあり政治の民主化の段階ではない。今政治の自由化を図れば旧南ベトナムの残党である反動派を利するだけである。
  4. ドイモイ政策はペレストロイカより上手に運営されていて、ソ連や東欧のような経済危機や民族問題には無縁である。

1992年憲法

 1991年の第7回党大会ではグエン=ヴァン=リン首相(75歳)が退陣し、ド=ムオイ(74歳)に交代した。翌92年4月の国会では新憲法が採択され、発布された。この憲法改正で86年から討議が重ねられてきたもので、ドイモイ政策を国家の基本法のなかに明文化され、ドイモイ憲法と言われた。80年制定の前憲法がベトナムを「プロレタリア独裁国家」と規定した文を削除し、「人民の、人民による、人民のための国家」というリンカーン的な表現に替えられた。また政府と党の権限を明確に区別し党政治局は国家の基本的な事項に関して目標を設定し、戦略を提示する大方針を任務年、内閣は党政治局の目標提示と助言に従い、国家計画、経済計画、国家予算、外交路線などの政策を策定するとされた。国会は内閣から提示された重要案件を審議し、採択されたものは法制化され内閣に回される。否決されたものは政治局に戻され再検討される。国会議員が法案を作成することも可能とされた。国会議員選挙法も同時に制定され、立候補は党員以外の一般人でも可能になったが、選挙区の共産党の推薦リストに記載される必要がある。
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書籍案内

坪井善明
『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』
1994 岩波新書