ベトナム軍のカンボジア侵攻
ベトナム戦争のベトナムが、カンボジアのポル=ポト政権と敵対、1978年末から進行し、翌79年1月、首都プノンペンを制圧し、親ベトナムのヘン=サムリン政権を樹立した。
カンボジアの赤色クメールが、1975年に成立させたポル=ポト政権は、国名を民主カンプチアとし、独自の徹底した共産化を推進した。ポル=ポト派は中国共産党に思想的に近く、ソ連とは対立していたが、隣国のベトナム社会主義共和国はソ連寄りであったため、関係は良くなかった。ベトナムは、75年にベトナム戦争に完全勝利し、意気上がるなか、カンボジアがベトナム国境を侵犯したという口実で1978年末からカンボジアに侵攻を開始、1979年1月に首都プノンペンを制圧、ポル=ポト政権はジャングルに逃れた。
(引用)ベトナム軍とヘン・サムリン軍に追われたポル=ポト軍推定約5万人は1979年春、西部国境の密林を目ざして敗走した。「軍装の食人鬼」と国民に恐れられたポト軍もアメリカとの長期戦を戦い抜いたベトナム軍の前にはなす術がなかった。・・・<丸山庸雄『キーワードで追うカンボジア紛争』1992 梨の木舎 p.68>
中越戦争に飛び火
カンボジアのポル=ポト政権と友好関係にあった中国(華国鋒政権)は、同年2月、ベトナムに侵攻して中越戦争が起こった。しかし文化大革命で疲弊していた中国は間もなく撤退し、ベトナムは中国軍の撃退に成功、ここでも勝利を得ることになった。ヘン=サムリン政権の樹立
ポル=ポト政権に代わってプノンペンに成立したヘン=サムリン政権は、国号をカンボジア人民共和国として、ソ連・ベトナム寄りの政権を樹立、残存するポル=ポト派、王政復活を主張するシハヌーク派、共和派のソン=サン派の三派連立政権との間でのカンボジア内戦は深刻になっていった。ベトナム軍の撤退
ヘン=サムリン政権はカンボジアに駐留するベトナム軍の支援もあり、軍事的には主導権を握ったが、1980年代にソ連、ベトナムの体制が行き詰まっていった。特に1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が成立し、ベトナムも86年から市場経済導入を図るドイモイ路線に転じ、対カンボジア軍事支援を転換させる動きがはじまり、1989年、ベトナム軍はついにカンボジアから撤退した。ヘン=サムリン政権も国号をカンボジア国に改め、社会主義路線からの転換を表明した。ベトナム軍の撤退によってカンボジアは内戦は収束に向かい、91年のカンボジア和平協定が成立することとなる。