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ペレストロイカ

1986年から始まった、ソ連のゴルバチョフ政権が進めた多方面の「改革」を総称した言い方。硬直した社会主義体制を見直し、情報公開・政治改革・新思考外交など大胆な転換を図った。しかし経済・政治での自由化・民主化は困難に直面し、1991年のソ連解体にいたった。

 ソ連のゴルバチョフ政権が掲げ、1986年2月から始まった改革。当初は社会主義経済の停滞を打破するための市場経済導入を柱とした経済改革を意味し、「上からの改革」として始まったが、すぐに複数候補者選挙制などの政治改革にまで広がり、さらにグラスノスチ(情報公開)や歴史の見直しなど全面的な改革を開始した。
 それは、スターリン体制から続く、ソ連の硬直した政治と社会を脱却することをめざしたが、社会主義体制そのものを否定するものではなく、その生き残りを図ろうとしたものであった。

ペレストロイカの意味

 ロシア語のペレ=「再」の意味の接頭語と、ストロイカ=「建築」を併せたことばで、「立て直す」という意味。英語で言えば、re-structure つまりリストラにあたる。

ペレストロイカの内容

 1985年3月に書記長に就任したゴルバチョフは改革派を登用する人事を進め、86年2月の第27回ソヴィエト大会で、「ペレストロイカ」の課題を提示した。それはソ連の現状を「発達した社会主義」と規定して礼讃し、問題そのものの存在を認めようとしなかったこれまでの公式見解を否定し、停滞と混乱を認め、計画経済を絶対視する硬直した社会体制の見直しも図ろうとするものであった。この段階では市場経済の導入を目指す「上からの」経済改革にとどまっており、社会主義そのものを否定するものではなかった。
 翌1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故はソ連の政治社会体制の矛盾を一気に明らかにし、また核抑止論に依拠する従来の外交戦略に大きな警鐘となった。特に既得権益に固執する共産党官僚制度の抵抗があったので、ゴルバチョフの改革は政治改革に踏み込まざるを得なくなり、「グラスノスチ」(情報公開)とともに選挙での複数候補者制度の導入が進められた(ソ連では党や国家機構、学術団体のいずれにおいても建前は民主的な選挙で議員や委員を選ぶことになっていたが、実際は事前に調整された単独候補のみが立候補するかたちであり、選挙は儀式化していた。)

ペレストロイカの進展

 このようなペレストロイカの進展に対しては、急進派(例えばモスクワ市書記エリツィンなど)は不十分だと批判し、保守派の党幹部や軍上層部は危機感を抱いて反対した。ゴルバチョフの改革も当初は「上からの改革」という面が強かったが、次第にその意図を越えて非共産党員の市民大衆が支持し、次第に「下からの改革」の様相を呈してきた。
ゴルバチョフ大統領  1989年3月には初めて複数立候補制によって人民代議員選挙が行われ、5月に第1回人民代議員大会が開催された。ペレストロイカのの政治改革はついに90年には共産党一党支配の否定大統領制の導入まで進み、ゴルバチョフが人民代議員大会で初代ソ連大統領に選出された。

問題点

 しかし、肝腎の経済改革は計画経済を完全に廃止するものではなく、市場経済の導入も一部にとどまったため、かえって混乱し、物不足からインフレが進行し、89年頃から物価上昇が市民生活を直撃、ペレストロイカ経済政策の失敗ととらえられるようになり、民衆の不満が強くなった。

影響

 ペレストロイカ時代、ゴルバチョフはそれまでのソ連の公式指針であった制限主権論を放棄して、「新思考外交」を掲げて東欧諸国への統制も停止してした。それは東欧諸国が一気に社会主義を放棄する東欧革命をもたらしたのみならず、バルト三国などソ連邦を構成する諸国、諸民族の分離独立運動も誘発した。こうして連邦制の維持か、各国の分離独立かが大きな焦点となってきた。

結末

 このような共産党権力の否定、ソ連邦解体の動きに共産党保守派は危機感を募らせ、1991年8月の保守派クーデターはゴルバチョフを監禁した。保守派は共産党の指導性と連邦制の維持を図ったが、エリツィンのロシア共和国政府に指導されたモスクワ市民が立ち上がってクーデターに反対したため、その企てはあっけなく失敗した。こうしてソ連共産党の消滅とソ連邦の崩壊という誰も予想しなかった急激な変化が生じ、改革運動の実験はロシア共和国のエリツィンに移り、ゴルバチョフのペレストロイカ時代は終わりを告げた。
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