日本軍のフランス領インドシナ進駐
第二次世界大戦中の1940年6月、イギリス軍がダンケルクから撤退、ドイツ軍がパリに入城してフランス軍が敗北したことをうけ、日本軍は援蒋ルートの遮断と、東南アジアへの進出の好機ととらえ、フランス領インドシナへの侵攻をめざした。当初はフランスの親独派ヴィシー政権および現地のフランス軍と協議し平和進駐を取り決めたが、同時期に日独伊軍事同盟が締結されたこともあって陸軍の強硬派は勢いづき、1940年9月、現地軍が独断で武力進駐に踏み切り、フランス軍と交戦しハノイなどを占領した。それは日本軍の南進を警戒するイギリス、アメリカの強く反発をもたらし、日米交渉を困難にした。日本はタイのフランス領インドシナとの国境紛争にも介入し、インドシナでの勢力拡大に努め、さらに1941年6月に独ソ戦が開始されると、日本軍は7月に南部仏印進駐を強行した。それに対してアメリカは日本に対する石油輸出を禁止するなど対抗措置に出て、日米交渉は決裂、同年12月に太平洋戦争突入へとつながった。ベトナムはフランスの植民地支配にかわる日本軍の支配に対して抵抗を開始、1941年5月、ホーチミンらがベトナム独立同盟を結成した。
南進論の採用
1931年の満州事変以来の日中戦争は泥沼の状態に陥り重慶に立てこもる蔣介石政権を追い詰めることができないでいた。陸軍は伝統的に北進論が主流であり、ソ連を仮想敵国として関東軍による満州の防備は最大の兵力を投入していたが、1939年のノモンハン事件でソ連軍の近代装備の前に敗れ頓挫していた。そのため、兵力を満州からインドシナなどの南方に移し、援蔣ルートを遮断することによって日中戦争の停滞を打開し、あわせてフランス・オランダがドイツに敗れた機会に、日本にとって必要な石油、天然ゴム、鉄鉱石、ボーキサイトなどの資源の豊かなその二国の植民地を獲得しようという、南進論が強まった。第二次近衛内閣 南進論はアメリカを主要な敵とすることになるため、陸軍の一部や海軍には否定的な意見も多かったが、1940年6月、ドイツ軍がフランスを占領したことで決定的な転換がなされた。南進論に傾いた陸軍は、アメリカとの対決を避けたい米内光政内閣(海軍出身)にたいし、陸軍大臣の交代を押しつけ、軍部大臣現役武官制によって内閣を倒し、次の第2次近衛内閣に南進論者東条英機を陸軍大臣に送り込んだ。この内閣はフランス領インドシナ進駐と日独伊三国同盟結成に踏み切り、日本を太平洋戦争に向かわせる判断をした。
北部仏印進駐
援蔣ルートを遮断して日中戦争の解決を探っていた日本は、当初はフランス当局との話し合いによって平和進駐を取り決めていたが、同時期に日独伊軍事同盟が締結されたこともあって陸軍の強硬派は1940年9月、独断で武力進駐に踏み切り、フランス軍と交戦しハノイなどを占領した。
フランスの対独降伏
ヨーロッパで1939年9月、第二次世界大戦が始まり、1940年5月にドイツの進撃によりフランスが降伏し、傀儡政権のヴィシー政府ができた。日本はかねてフランスに援蔣ルートの遮断を要求していたので、6月、その実行のために日本軍を進駐させることをフランスのインドシナ総督と交渉を開始した。当初は政府・陸軍ともフランスのインドシナ総督を説得して平和的に進駐することを原則として、西原一策少将を団長とする仏印国境監視団を派遣して交渉にあたらせた。日本側は陸軍の駐留と飛行場の使用などを要求、フランス総督はフランスの主権を認めることを条件にそれに応じる姿勢を示したが、本国のヴィシー政府は総督の姿勢は弱腰であるとして罷免し、総督が交代するなどのため交渉は難航した。平和進駐方針の決定 そのため日本国内で松岡外相と仏駐日大使アンリとの間の交渉に移され、8月30日に合意が成立、フランスはインドシナにおけるフランスの主権を認めることを条件に、臨時的な日本軍の駐留を承認、援蒋ルートの遮断も約束した。この協定によって平和的進駐の準備が進められていたが、細目が決定される前の9月6日、中国・ベトナムの国境にいた日本軍の一部が独断で国境を越え、フランス軍と交戦するという事件が起こった。この独断越境は、参謀本部から現地に派遣されていた富永恭次作戦部長が指示したもので、政府・大本営のすすめる平和進駐方針を無視し、武力進駐を一気に実行させようとしたものだった。
衝突はいったん停止され、西原少将とフランス軍司令官マルタンの間で交渉が再開されたが、武力侵攻をもくろむ富永作戦部長や南支那派遣軍佐藤賢了副参謀長らは駐留部隊の増員、飛行場の増加など過大な要求を突きつけたため交渉は難航した。イギリス・アメリカもこの経緯に注目している状況の中で、政府・大本営は国際法を遵守した平和的進駐の原則を崩すことはできず、西原=マルタンの交渉もようやくまとまり、フランスは平和的進駐を認め、日本軍はフランスが実行を拒否したり遅延させた場合は武力進駐を実行すると通告することになった。
武力進駐の強行 ところが約束の1940年9月23日の午前0時直前、中国国境の第五師団が武装したまま国境をこえたため、フランスの国境守備隊はそれを攻撃し、戦闘が始まった。第五師団は明らかな命令違反であり、撤退命令が出たにもかかわらず戦闘を続け、国境地帯の戦闘は25日まで続き、フランス軍指揮官が降伏して終わった。大本営命令とは異なった武力進駐となった日本軍は、23日にハノイに入城、さらに26日にはハイフォンを爆撃し、フランス軍を沈黙させた。平和進駐に協力して陸軍の物資兵員の輸送船を護衛する予定だった海軍も、この戦闘開始で混乱し、護衛義務を放棄して海南島に引き揚げた。
Episode 「統帥乱れて信を中外に失う」
9月26日、海軍の艦船が海南島に引き揚げるとき、船上には平和進駐交渉を進めていた仏印国境監視団の西原少将らも同船していた。西原少将は船上から東京の参謀本部に次のような電文を打電した。それには次のような言葉があった。「統帥乱れて信を中外に失う。今後の収拾策に関し、小官等必ず一応東京に帰り報告の必要ありと確信す。」
つまり、軍の命令系統が乱れたことによって国際的な信用を失った、として国家間の交渉でまとまった約束を守らず、軍が勝手に行動したことを非難したわけで、具体的には武力進駐を強行した陸軍の強硬派を批判したのだった。たしかに陸軍刑法では「司令官故なく外国と戦端を開きたるときは死刑」と定められており、現地部隊が勝手に戦闘を開始することは固く禁じられていたことであったが、満州事変、ノモンハン事件の場合でも命令違反が行われており、しかもその後の処置は甘く、現地責任者はいったんは罷免されるがその後要職に返り咲いていた。このときの陸軍強硬派の中心人物富永恭次参謀本部作戦部長も命令違反を理由に交代させられたが、後に東条英機首相の下でそのの腹心として陸軍次官にまで出世している。
このときの「統帥乱れて信を中外に失う」という西原一策中将の陸軍中枢に対する批判は世間にもよく知られ、昭和天皇も憂慮したと言われているが、ナチス・ドイツの勝利を疑わない陸軍の戦争への動きを止めることはできなかった。<三國一朗『戦中用語集』1985 岩波新書 p.6-7 などによる>
日本軍、北部仏印進駐の意味
日本軍が北部ベトナムのハノイに軍事進駐したことは、日中戦争開始後、ノモンハン戦争以来の国境侵犯であり、軍事侵攻であった。それは、同時期の日独伊三国同盟締結と共に、日中戦争が太平洋戦争へと転換するうえでの重要なポイントとなる出来事だった。その意義と背景は次のようにまとめられる。援蔣ルートの遮断 援蔣ルートは物資をベトナムのハイフォンに陸揚げして、雲南を経由して重慶に運んでいたので、日本軍の北部仏印進駐で遮断されることになった。これはフランス敗北と親ドイツのヴィシー政府の成立という国際情勢に応じたものであり、日本がドイツと一体化して世界戦略を進める姿勢を明らかにしたことを意味する。中国、アメリカ、イギリスは、日本軍の南進の姿勢を示したことを強く警戒するようになった。
日独伊三国同盟の締結 日本軍の北部仏印進駐の4日後の9月27日、日本政府は日独伊三国同盟に調印した。これによってドイツ・イタリアと枢軸国を形成することとなり、三国のいずれかの国が、三国以外の一国に攻撃された場合は他の二国はただちに政治的・経済的・軍事的に相互協力することを約束した。明らかにこれはアジアにおいてはアメリカを共通の仮想敵国とするものであった。アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告していたが、さらに鉄屑などの資源の対日輸出をストップした。また援蔣ルートはビルマ=ルートで再開した。12月に大統領として三選されたフランクリン=ローズヴェルトは日独伊三国同盟への明確な対抗姿勢を示した。
北部仏印進駐の影響
タイの失地回復 インドシナ半島でイギリスとフランスによって東西から圧迫されて苦境に立っていたタイのピブン政権は、フランスの弱体化を「失地」の回復の好機ととらえ、かつてフランスに割譲したメコン川右岸の返還を求めた。ヴィシー政府が拒否したことでタイ軍は1941年1月、カンボジアに侵攻した。日本はこの時仲介に乗りだし、ヴィシー政府に圧力を加え、泰の要求に応じさせ、タイとの良好な関係を作った。日米関係の悪化 アメリカは、日本がフランス領インドシナに進出することを強く警戒していたが、1940年9月に強行したことで、強い抗議の意志を示した。将来の日米開戦の恐れが出始めたため、近衛内閣も日米関係の修復を謀る必要を認めるようになった。悪化した日米関係の修復のため、アメリカの国務長官ハルと日本の駐米大使野村吉三郎の間で日米交渉が始まったが、アメリカは日本に蒋介石政権の承認(汪兆銘政府の否定)を求め、日本はアメリカに最低でも満州国の確保(アメリカの承認)を要求するなど、両者の見解には隔たりが大きく、妥協点を見いだせずにすぎていった。
南部仏印進駐
日本軍は、1940年9月の北部仏印への進駐に続き、1941年7月、フランス領インドシナのベトナム南部に進駐した。南部仏印進駐はフランスのヴィシー政府も承認したことで日本はその正当性を主張、ゴムなどの資源を得ることをめざしていたが、日本がベトナム全土を事実上支配したことで、他の東南アジアのイギリス・オランダ植民地を脅かすこととなり、アメリカも強く反発、日本への石油輸出禁止の措置に出るなど、日米関係をさらに悪化させた。
独ソ戦の開始との関係 1941年になるとさらに交渉は難しくなっていたが、ヨーロッパでは1941年6月、独ソ戦が開始されるという戦局の大きな転換が起こった。その機会を捉え、日本軍の中には、アメリカとの交渉を打ち切って実力で打開すべきであるという主戦論が台頭することとなった。
その間、政府主導の日米間の戦争の回避のための交渉の一方で、日本軍はアメリカに圧力をかけるべく、フランス領インドシナ連邦の全土制圧にのりだし、ヴィシー政府に対する交渉を強めた。交渉の結果、日本はヴィシー政府と「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣を認めさせ、1941年7月28日、日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に進駐し、さらにカンボジア・ラオス全域に展開した。
ゴムなどの獲得 日本軍はこの進駐はフランスのもつインドシナの宗主権を否定したものではなく、そのフランスの承認を得て行われたもので、侵略ではなく協力関係の構築の成果であると宣伝し、それによって平和的にゴムなどの資源を獲得できたとして、英米の経済封鎖による物資不足にあえぐ国民に対して正当性を宣伝した。政府は1941年の2学期初めに、全国の小学校にゴムマリを配給し、日本軍の南部仏印進駐の恩恵であることをアピールしたのもその一つだった。<アーサー・ビナード『知らなかったぼくらの戦争』2017 小学館 p.12-13 「マリは蹴りたしマリはなし」栗原澪子さんの回想>
アメリカの対日石油輸出禁止
日本軍の南部仏印進駐は援蔣ルートを完全に遮断するだけでなく、イギリス・オランダの植民地資源を直接脅かすこととなった。これを明らかな侵略行為であると捉えたアメリカは、日米交渉の決裂前に日本が軍事行動を起こしたとして硬化し、さらにイギリスはマレー半島、シンガポールなどを脅威にさらされることになるので強く反発した。8月、アメリカは対日石油輸出を全面的に禁止する措置にでて、イギリスも同調し、日本側はそれを、いわゆるABCDラインによる包囲網として宣伝し、その打破という日本の軍事行動の口実とした。太平洋戦争への口火となる その1ヶ月半の後の1941年12月8日、ついに日本軍は真珠湾攻撃およびマレー半島占領作戦に踏み切り、太平洋戦争開戦に至った。この日本の第二次世界大戦への参戦は、同時にアメリカの第二次世界大戦参戦となり、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、ヨーロッパとアジアで別々に始まっていた戦争は、文字どおりの世界戦争へと拡大、変質した。
ベトナム民族運動の動き
フランス領インドシナ連邦は形式的にはフランス(ヴィシー政府)の宗主権は認められ、日本の軍政との二重支配下に置かれることとなった。ベトナムは実質的にはフランスの植民地支配から解放された形になったので、一部の宗教団体などに日本軍に協力する動きはあったが、多くはフランスに代わる新たな軍事支配者としての日本に対する反発を強め、ただちに抵抗運動が起こった。1941年5月、ホー=チ=ミンらの指導するベトナム独立同盟(ベトミン)が結成された。日本軍支配下のベトナム北部では、米が日本に強制移送されたため食糧不足となり、北ベトナム大量餓死事件が起きている。 → ベトナムの独立