金泳三/キムヨンサム
1993年、韓国で32年ぶりの文民大統領となった。民主化政策を進め、新自由主義経済政策を採ったが、経済成長にかげりが生じた。
キムヨンサム。韓国の民主派政治家。第14代大統領(1993~98)。32年ぶりに実現した文民大統領であった。同じ民主派でもライバル金大中が保守的民主派で全羅南北道を基盤としていたのに対して、金泳三は革新的民主主義を唱え、慶尚南道(釜山中心)を基盤としていた。この二人に金鐘泌(忠清道が基盤)を加えて、「三金」といわれた。
1992年の大統領選挙に当選して、朴正煕-全斗煥-盧泰愚と続いた軍人出身大統領に代わり、32年ぶりの文民出身の大統領となった。金泳三大統領の下で軍の政治関与の制限など、民主化が進み全斗煥・盧泰愚の二人の軍人大統領の在任中の不正と人権抑圧が法的に断罪され、二人とも有罪となった。北朝鮮との関係では93年に北朝鮮がNPTを脱退して核開発疑惑が強まり、94年には北朝鮮の「瀬戸際外交」(核戦争も辞さない姿勢で相手の妥協を引き出す手法)によって緊張が高まった。金泳三は南北対話を模索したが、同年7月に金日成が急死したため頓挫した。
1992年の大統領選挙に当選して、朴正煕-全斗煥-盧泰愚と続いた軍人出身大統領に代わり、32年ぶりの文民出身の大統領となった。金泳三大統領の下で軍の政治関与の制限など、民主化が進み全斗煥・盧泰愚の二人の軍人大統領の在任中の不正と人権抑圧が法的に断罪され、二人とも有罪となった。北朝鮮との関係では93年に北朝鮮がNPTを脱退して核開発疑惑が強まり、94年には北朝鮮の「瀬戸際外交」(核戦争も辞さない姿勢で相手の妥協を引き出す手法)によって緊張が高まった。金泳三は南北対話を模索したが、同年7月に金日成が急死したため頓挫した。
韓国版新自由主義経済
韓国経済は1970~80年代の経済成長を続け、95年には国民所得を1万ドルの大台に乗せ、96年にはOECD(先進国クラブといわれている)に加盟した。金泳三政権は周辺を新自由主義的なエコノミストで固め、経済繁栄を背景に、「無限競争の時代」に突入したと宣言し、グローバル経済に対応した国際競争力を強める戦略をとった。93年のウルグアイ=ラウンド交渉妥結により米を含む例外なき関税化を受け入れ、WTO発足(95年)に対応して農産物の大幅な市場開放措置をとった。また国際競争力を付けるためと称する合理化や労働基本権の制限(解雇権の拡大、臨時雇用の拡大など)を許す労働法の改正を強行した。これらは農民と労働者の激しい反対運動を呼び起こした。韓国でのアジア経済危機
1997年、タイのバーツの暴落に始まるアジア通貨危機が韓国にも波及し、経済は危機を迎えた。金泳三政権の「世界化」プロジェクトは「先進国への無理な背伸び」であり、強引な金融自由化におどらされたこと、財閥大企業の古い体質が対応しきれなかったことなどが傷口を拡げ、韓国経済の成長率はマイナス5.8ポイント(前年比10ポイント以上の下落)、失業率8.6%という激しい経済危機となった。政府はIMFの融資を決定したが、解決の見通しを立てられず、12月の大統領選挙で当選した金大中がその処理に当たることになった。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.183-186>