ネパール
ヒマラヤ山脈の高地にある小国。インド文明の影響下にありヒンドゥー教徒が多い。王政国家であったが、1995年ごろから毛派が台頭、2008年に王政が廃止され、共和政となった。
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ネパールの歴史
南ネパールのカピラヴァストゥはシャカ(ガウタマ=シッダールタ)のイギリスの保護国へ
インドの植民地化を進めたイギリスとの間で、1814年~16年のグルカ戦争(ネパール=イギリス戦争)を戦って敗れ、領土を割譲し、実質的な保護国となり、グルカ兵と言われるネパール兵をイギリスおよびインドに提供することとなる。グルカ兵はその後、イギリスのインド支配の戦力として重要な役割を担い、勇猛を持って知られるようになる。ネパール王国
1951年、トリブバン国王の立憲君主政となるが、1955年即位したマヘンドラ国王は独裁体制を強め、60年には議会は解散させられ、政党も禁止され、独自の間接民主制であるパンチャーヤット体制が敷かれた。1990年に民主化運動が始まり、ビレンドラ国王も国民主権を謳った新憲法を承認した。91年には複数政党による選挙が行われ、ネパール会議派が第1党となる。毛派の台頭
1995年、王制打倒と人民共和制の樹立を掲げるネパール共産党毛沢東主義派(毛派、マオウイストという)が結成され、翌年から武装闘争を開始し、ネパールは内戦状態となった。毛派の台頭の背景には、長くつづく王政と封建制の下で、農村部の貧困がますます深刻になってきたことがあげられる。王宮での王族殺害 2001年には王家の内紛から宮廷内での王族殺害事件が起き、ギャネンドラが新国王となるが、急速に求心力を失い、毛派が優勢となる。
王政の廃止
2005年、国王が議会・政党を解散させ絶対王政を宣言すると、議会派と毛派が共闘して反国王の連合を形成し、2006年ゼネストを決行して、国王は民政復帰を表明。ネパール会議派が率いる新政権が成立し、毛派との間で和平協定を締結。同年11月に国軍と毛派の内戦が終結した。その間、ヒンドゥー教の国教廃止、その他の民主化が図られ、2008年5月に国王が退位し、ネパールは連邦制の民主共和国となった。 2008年4月の制憲議会選挙で毛派が第一党となり、毛派を中心とする連立政権が誕生。しかし2009年になって毛派出身の大統領とネパール国軍が対立したため連立政権が崩壊、その後も混乱がつづいている。