ガウタマ=シッダールタ/ブッダ/釈迦
仏教の始祖、ブッダ(仏陀)の本名。一般には釈迦と言われる。ブッダは「悟りをひらいた人」を意味する尊称。活動時期は、前500年前後とする説と前400年前後とする説がある。
仏教の始祖であるガウタマ=シッダールタ(またはゴータマ=シッダッタ)はブッダ の本名。一般に、釈迦(シャカ)または釈迦牟尼(シャカ族の聖者の意味、略して釈尊とも言う)と言われるのは、シャーキヤ族の出身であったからである。なお、1世紀ごろインド北西部を支配したイラン系のシャカ人(またはサカ人、サカ朝)があるが、シャーキャ族とは関係がない。またブッダ(仏陀)とは名前ではなく「悟りをひらいた人」を意味する称号。
つまり、ブッダ → ブツ → フト → ホト → ホトケ と変化し、日本では「仏」をホトケと訓読するようになったわけですが、「ケ」がもともと美称だったとすると、様をつける必要は無いのでしょうね。
ブッダと同時代のインドで、同じくカースト制度を批判する新しい宗教であるジャイナ教を創始したヴァルダマーナもいた。また、人類史で見れば、紀元前500年前後から、インドにおけるブッダと並んで、孔子・ゾロアスター・ソクラテスなどが各文明圏に登場してくる。彼らの登場を人間が神話時代から自らの精神を解放する大きな飛躍となった時代として枢軸時代と呼んでいる。
仏滅年代の諸説 ブッダは仏弟子たちに、「わたくしは29歳で善を求めて出家した。出家してから50余年となった」と述べた後に、静かに入滅した。なので、亡くなったのは80歳をやや過ぎていたことが分かる。インドの暦(太陽暦)で11月の満月の夜であったと伝えられが、中国では2月15日と伝えられており、日本でもその日とされている。しかしその入滅、つまり仏滅の正確な年は分かっていない。今までもさまざまな説が出されているが、整理すると次のようになる。
教科書では、2022年刊の山川出版小説世界史(世界史探求)では、前563頃~前483頃(諸説あり)としており、用語集では従来通り、両説併記である。ただし、一般向けの『もう一度読む山川世界史用語事典』では、併記では無く、前463~前383頃とあるのみである。まだまだ仏滅の年代には前483年説と前383説という百年の開きがある二説があるとということになっている。
29歳で家出 彼は小国ながら国王スッドーダナ(浄飯王)の王子として生まれ、母はまもなく亡くなって養母に育てられたとはいえ、裕福で安楽な生活を送った。つまりクシャトリヤ階級に生まれたということができる。16歳でヤショーダラーと結婚、男の子ラーフラをもうけた。しかし20歳を迎えたころか、ある日城外に出て、最初に老人に会い、次に病人、さらに死人を見て、生・老・病・死(四苦)に深く悩むようになった。これは「四門出遊の物語」といわれている。ガウタマ=シッダールタはある夜、密かに宮殿を抜け出し愛馬カンタカに乗って城下を離れた。29歳で家族を捨て、修行僧(沙門)となったのだった。
苦行を捨てる 彼はガンジス川の河畔で二人の修行僧に従い、自らもさまざまな苦行を試みた。息をまったくとめてしまう止息法、一日に一粒の米しか許されない断食、片足で立ち続ける行、太陽を見続ける行など、6年にわたって苦行を続けたが、そこからは悟りを得ることはできず、意識朦朧として幻想に悩まされるようになった。心身ともに衰弱した彼は、山林を出て小川で身体を洗っていると、スジャータという娘がさしだしたヨーグルトを飲んで救われ、極端な苦行は無意味であると知ってそれをすっぱりとやめた。ブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り21日目に悟りを開いた。菩提樹(アシュヴァッタ)とはイチジクの一種であるが、現在もその地に2代目、3代目とも言われる樹が生きており、ガウタマ=シッダールタが悟りを開いたところとして記念の仏塔も建てられ仏教徒の巡礼地の一つとなっている。
転法輪 ガウタマ=シッダールタは苦行を続けるかつての仲間に、自分のさとりを説くのは困難と感じていた。その仲間も彼を修行の脱落者と軽蔑したが、その威容に打たれて説法を請い、ベナレス(ヴァラナシ)の近郊サールナートの鹿野園で初めての説法が行われた。こうして「転法輪」といわれる説法が始まり、彼はさとりをひらいた人と言う意味でブッダ(仏陀)といわれるようになって仏教が成立した。さらにその説法を聞いて弟子となり、出家して仏弟子となるものも増え、最初の仏教教団が生まれた。その中にはバラモンも含まれており、故郷のシャカ族では異母弟のナンダ(難陀)、実子のラーフラ、いとこのアーナンダ(阿難)などが出家して僧(ビク)となった。仏弟子に女性がいたかどうかは確実ではないが、経典には養母やかつての妻ヤショーダラーらも尼僧(ビクニ)となったと伝えている。
祇園精舎 マガダ国の国王ビンビサーラはブッダに帰依し、首都ラージャガハ(王舎城)の竹林精舎を寄進した。マガダ国と対立していたコーサラ国の国王パセーナディも熱心な信徒となり、その首都サーヴァッティー(シュラーヴァスティー、舎衛城)の長者スダッタは土地をブッダに寄進し、そこは祇園精舎と言われた。祇園精舎には5世紀初めに中国から法顕が訪れ、その美しい庭園を記録しているが、7世紀前半に玄奘が訪れた時はすでに建物は壊され礎石だけだった。19世紀末にイギリス人によって発掘され、2万坪に達する広さがあったことが実測された。
ブッダが活動したところは、ガンジス川中流域東のブッダガヤ、王舎城、パトナ、クシナガラから、西のベナレス(と近郊のサールナート)、舎衛城、コーサンビーに及ぶ範囲で、多くの史跡(仏跡)が残され、仏教徒の巡礼地となっている。 → マウリヤ朝の地図を参照。
ブッダの伝記は、水野弘元『釈尊の生涯』1985 春秋社、中村元『ブッダ伝』2015 角川ソフィア文庫、三枝充悳『インド仏教思想史』2013 講談社学術文庫などを参照。
その名前
現行の世界史教科書ではガウタマ=シッダールタと表記するのが一般的であるが、それ以外にもさまざまな呼び方、表記の仕方があるので整理しておこう。まずガウタマ Gautama (ゴータマとされることが多い)は姓であり、シッダールタ Siddhartha (シッダッタとされることもある)は名にあたる。ネパールに本拠を置いたシャカ Sakya 族の出身であったので釈迦とし、それに尊称として聖者の意味である muni をつけ、中国では釈迦牟尼と呼ばれ、釈尊とも訳された。ブッダ Buddha とはさとりをひらいた人、覚者の意味で固有名詞ではない。中国では仏陀と音写されたが、この名称が中国に伝わるまでに語尾の音が脱落したために、たんに仏とも記し、それが浮屠などと音写された例もある。それが日本に入り、美称の接尾語「ケ」をともなって「ホトケ」と称されるようになった。その他、世尊、如来など、多くの異名がある。<三枝充悳『インド仏教思想史』2013 講談社学術文庫 p.29-30 などによる>つまり、ブッダ → ブツ → フト → ホト → ホトケ と変化し、日本では「仏」をホトケと訓読するようになったわけですが、「ケ」がもともと美称だったとすると、様をつける必要は無いのでしょうね。
ブッダの生存年代
ブッダの生存していた実年代については、前563年~前483年説と、百年の差がある前463~前383年説などがある。前者は南伝、後者は北伝の資料によるが、現在では後者が有力になっている。<三枝充悳『仏教入門』、村上重良『世界宗教事典』などを参照>ブッダと同時代のインドで、同じくカースト制度を批判する新しい宗教であるジャイナ教を創始したヴァルダマーナもいた。また、人類史で見れば、紀元前500年前後から、インドにおけるブッダと並んで、孔子・ゾロアスター・ソクラテスなどが各文明圏に登場してくる。彼らの登場を人間が神話時代から自らの精神を解放する大きな飛躍となった時代として枢軸時代と呼んでいる。
仏滅年代の諸説 ブッダは仏弟子たちに、「わたくしは29歳で善を求めて出家した。出家してから50余年となった」と述べた後に、静かに入滅した。なので、亡くなったのは80歳をやや過ぎていたことが分かる。インドの暦(太陽暦)で11月の満月の夜であったと伝えられが、中国では2月15日と伝えられており、日本でもその日とされている。しかしその入滅、つまり仏滅の正確な年は分かっていない。今までもさまざまな説が出されているが、整理すると次のようになる。
- 南伝に基づく、11世紀頃からの伝説では、仏滅を紀元前544年とする。これをもとに1956年にスリランカで仏滅2500年祭が行われた。しかしこの年代は他の文化現象と合わず、いまは学問的にはとりあげられない。
- セイロン(スリランカ)の『島史』『大史』にもとづいて、パーリ仏教の権威ガイガーが仏滅を前483年とした。それは中国の『衆聖点記』の説、つまり仏滅後に律蔵が結集されたとき第一点を打ちはじめ、毎年の安居(夏期休養時)ごとに点を打ち、その点が975点に達したとき中国に伝わったが、それは『歴代三宝記』によると西暦490年だったので、仏滅は前485年となるという説とほぼ合致する。日本ではこの前485説にもとづいて、1934年に仏誕2500年祭が行われた。
- 仏教学の宇井伯寿博士は、北伝仏教の資料に「仏滅後116年にアショカ王即位」の記事があることから、アショカ王即位年を前271として、仏滅を前386年と提唱した。中村元博士はさらにギリシア資料を確かめ、アショカ王即位を前268年として、入滅の年を前383年と修正した。現在ではこのいずれかであろうと考えられている。そうするとブッダの生存年代は前463頃~前383年となる。
教科書では、2022年刊の山川出版小説世界史(世界史探求)では、前563頃~前483頃(諸説あり)としており、用語集では従来通り、両説併記である。ただし、一般向けの『もう一度読む山川世界史用語事典』では、併記では無く、前463~前383頃とあるのみである。まだまだ仏滅の年代には前483年説と前383説という百年の開きがある二説があるとということになっている。
ブッダの生涯
古代のインドで、シャーキヤ族の小国カピラ王国の王子として生まれた。ブッダの生誕地、カピラ国の都カピラヴァストゥー郊外のルンビニー園に、後にアショーカ王が建てた塔と石柱が19世紀末に発見された。ガウタマ=シッダールタには、母親マーヤー夫人の脇腹から生まれたとか、生まれた直後に立って七歩あるき「天上天下唯我独尊」と唱えたなどといわれているが、これらは後に造られた物語に過ぎない。29歳で家出 彼は小国ながら国王スッドーダナ(浄飯王)の王子として生まれ、母はまもなく亡くなって養母に育てられたとはいえ、裕福で安楽な生活を送った。つまりクシャトリヤ階級に生まれたということができる。16歳でヤショーダラーと結婚、男の子ラーフラをもうけた。しかし20歳を迎えたころか、ある日城外に出て、最初に老人に会い、次に病人、さらに死人を見て、生・老・病・死(四苦)に深く悩むようになった。これは「四門出遊の物語」といわれている。ガウタマ=シッダールタはある夜、密かに宮殿を抜け出し愛馬カンタカに乗って城下を離れた。29歳で家族を捨て、修行僧(沙門)となったのだった。
苦行を捨てる 彼はガンジス川の河畔で二人の修行僧に従い、自らもさまざまな苦行を試みた。息をまったくとめてしまう止息法、一日に一粒の米しか許されない断食、片足で立ち続ける行、太陽を見続ける行など、6年にわたって苦行を続けたが、そこからは悟りを得ることはできず、意識朦朧として幻想に悩まされるようになった。心身ともに衰弱した彼は、山林を出て小川で身体を洗っていると、スジャータという娘がさしだしたヨーグルトを飲んで救われ、極端な苦行は無意味であると知ってそれをすっぱりとやめた。ブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り21日目に悟りを開いた。菩提樹(アシュヴァッタ)とはイチジクの一種であるが、現在もその地に2代目、3代目とも言われる樹が生きており、ガウタマ=シッダールタが悟りを開いたところとして記念の仏塔も建てられ仏教徒の巡礼地の一つとなっている。
転法輪 ガウタマ=シッダールタは苦行を続けるかつての仲間に、自分のさとりを説くのは困難と感じていた。その仲間も彼を修行の脱落者と軽蔑したが、その威容に打たれて説法を請い、ベナレス(ヴァラナシ)の近郊サールナートの鹿野園で初めての説法が行われた。こうして「転法輪」といわれる説法が始まり、彼はさとりをひらいた人と言う意味でブッダ(仏陀)といわれるようになって仏教が成立した。さらにその説法を聞いて弟子となり、出家して仏弟子となるものも増え、最初の仏教教団が生まれた。その中にはバラモンも含まれており、故郷のシャカ族では異母弟のナンダ(難陀)、実子のラーフラ、いとこのアーナンダ(阿難)などが出家して僧(ビク)となった。仏弟子に女性がいたかどうかは確実ではないが、経典には養母やかつての妻ヤショーダラーらも尼僧(ビクニ)となったと伝えている。
祇園精舎 マガダ国の国王ビンビサーラはブッダに帰依し、首都ラージャガハ(王舎城)の竹林精舎を寄進した。マガダ国と対立していたコーサラ国の国王パセーナディも熱心な信徒となり、その首都サーヴァッティー(シュラーヴァスティー、舎衛城)の長者スダッタは土地をブッダに寄進し、そこは祇園精舎と言われた。祇園精舎には5世紀初めに中国から法顕が訪れ、その美しい庭園を記録しているが、7世紀前半に玄奘が訪れた時はすでに建物は壊され礎石だけだった。19世紀末にイギリス人によって発掘され、2万坪に達する広さがあったことが実測された。
ブッダが活動したところは、ガンジス川中流域東のブッダガヤ、王舎城、パトナ、クシナガラから、西のベナレス(と近郊のサールナート)、舎衛城、コーサンビーに及ぶ範囲で、多くの史跡(仏跡)が残され、仏教徒の巡礼地となっている。 → マウリヤ朝の地図を参照。
ブッダの伝記は、水野弘元『釈尊の生涯』1985 春秋社、中村元『ブッダ伝』2015 角川ソフィア文庫、三枝充悳『インド仏教思想史』2013 講談社学術文庫などを参照。