グルカ戦争
1814~16年のイギリスによるネパールへの侵略戦争。イギリスはネパールを実質的な保護国とした。
グルカ戦争はネパール戦争、またはネパール=イギリス戦争とも言う、1814~16年のネパール王国グルカ朝とイギリス東インド会社軍の戦争。グルカ Gurukha とはゴルカというのが正しいらしいが、ネパールの王朝で、18世紀末には清朝に朝貢していた。19世紀にヒマラヤ南嶺から南下し、平原部に進出するようになり、イギリスと利害が対立するようになった。
すでに17世紀後半から、インド植民地支配を進めたイギリス東インド会社のベンガル管区と、その北側に接するネパールとの国境紛争が起こった。1814年10月から開始された戦闘で、当初は地勢を生かしたネパール軍がイギリス軍を破ったが、次第にイギリス軍が盛り返し、1816年、サガウリ条約で講和し、ネパールは最西端のガルワール地方を割譲し、南側の平地タライ地方は年額20万ルピーで東インド会社に譲渡した(後に返還される)。これによってネパールは実質的にイギリスの保護国となった(征服されたのではない。より正確には「従属的な友好国」とされた)。イギリスは南インドでは1817年から第三次マラーター戦争を戦い、インド全土への植民地支配を拡張しつつあった。
すでに17世紀後半から、インド植民地支配を進めたイギリス東インド会社のベンガル管区と、その北側に接するネパールとの国境紛争が起こった。1814年10月から開始された戦闘で、当初は地勢を生かしたネパール軍がイギリス軍を破ったが、次第にイギリス軍が盛り返し、1816年、サガウリ条約で講和し、ネパールは最西端のガルワール地方を割譲し、南側の平地タライ地方は年額20万ルピーで東インド会社に譲渡した(後に返還される)。これによってネパールは実質的にイギリスの保護国となった(征服されたのではない。より正確には「従属的な友好国」とされた)。イギリスは南インドでは1817年から第三次マラーター戦争を戦い、インド全土への植民地支配を拡張しつつあった。
グルカ兵
イギリスに従属してからのネパール兵はグルカ兵と言われてイギリス東インド会社の傭兵とされるようになり、1875年のインド大反乱(シパーヒーの乱)ではイギリス側について反乱の鎮圧にあたった。その後も、第一次世界大戦などでグルカ兵はイギリス軍の一員として参加してその勇猛さで知られた。イギリスのシッキム保護領化
グルカ戦争の翌年、1817年には、イギリス東インド会社はネパールの東に隣接するシッキムのラージャ(領主)と条約を結び、事実上の保護国とし、さらに紅茶プランテーションで有名になるダージリンを譲渡させた。