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タイ軍事クーデタ

第二次大戦後、タイでは立憲君主政のもとでの議会政治は安定せず、政権が軍によって倒されるという軍事クーデタがくりかえされた。また国王がその後の政治対立を調停するという機能を果たした。最近では2006年にタクシン政権が倒され、その後も政治不安が続いている。

タイのクーデタ

 タイではクーデタは珍しい現象ではない。戦後に限っても成功したクーデタは11回、噂や計画は毎年あり「クーデタは年中行事の一つ」とさえ言われている。クーデタが繰り返されるのは「タイ政治の悪循環」のためである。「クーデタを実施した軍は、憲法・国家・政党をまず否定し、権力を掌握するが、政治状況あ平常に復帰すると暫定議会を設置し、新しい憲法の準備にかかる。・・・新しい恒久憲法が公布されると、それにもとづいて総選挙を実施し、議会の復活と政党の政治参加を認める(「手続き民主主義」の容認)。しかし、議会政治を足かせと感じるや、軍は「共産主義の脅威」や「政党政治の腐敗」を理由に、再びクーデタを断行する。」この悪循環の中で、クーデタであれ新憲法の制定であれ、国王の承認が不可欠であることと、政治的指導者には社会的公正(タイのことばで「タム」(仏法のダルマに当たる)の実現が要請されるというのが「タイ式民主主義」の特徴である。タイの国民統合や政治をみていく上で決定的に大事なのは国王・宗教・民族の三つを原則とする国是(タイの横三色の国旗の紺は国王、白は宗教、赤は国民を象徴している)である。<末廣昭『タイ 開発と民主主義』1993  岩波新書 p.11-12,p.28>

戦後のタイ軍事クーデタ

 戦後のタイピブン政権、サリット政権の軍事クーデタ以後、軍事政権の登場→憲法制定→政党政治の復活→政治権力の腐敗→軍によるクーデタ→軍事政権の登場、という悪循環が何度も繰り返されて、場合によっては市民集会やデモに軍が発砲して犠牲者が出るという痛ましい事件も相次いでいる。サリット政権以後の主な権力権力と、クーデタ及び民衆弾圧事件にはには次のようなものがあった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 などにより構成> → 現代のタイ

タノーム=プラパート政権

 1963~73年 サリット政権を引き継いだタノーム首相・プラパート副首相コンビが、開発独裁政策を推進。ベトナム戦争の深刻化に対応して反共軍事組織として1967年ASEANを結成。60年代、開発独裁のもとで外国資本・外国商品が流入、特に日本商品が増大し、国産製品が圧迫されたことから、1972年、反日運動=日貨排斥(日本製品不買)運動が起こった。70年代、ベトナム反戦運動の影響もあって学生運動が激しくなる。

10月14日事件

 1973年 権力中枢の不正蓄財が明るみに出て、反政府運動が激化し、国王が特別声明を発してタノーム首相ら辞任、国外に逃亡した。さらに10月14日、抗議に集まった学生・市民に対し軍が発砲して多数が死傷(血の日曜日事件)。民衆運動で民主化が進み、労働運動、学生運動、武装闘争方針をとるタイ国共産党の活動が活発となる。1975年、ベトナム戦争終結後、ベトナム、ラオス、カンボジアに社会主義政権が生まれたことに影響され、民主化の要求が強まったが、軍部・右翼保守派も危機感を増した。

10月6日事件

 1976年10月6日 タマサート大学で行われた学生演劇で王室に対する不敬があったとして、右翼が武装して大学を襲撃し発砲、死者46名・逮捕2000名(実際は死者100名以上、行方不明100人以上)という惨劇が起こった(血の水曜日事件)。それを機に、民主化の進展を警戒した軍部がクーデタを決行して内閣を倒した。その後も、幾つかの内閣が軍によって倒されるという事態が続いた。

プレーム政権

 1980~88年 プレームは軍人出身だが、政権にテクノクラートを配して調整型の政治を行い、国王権威を最高に利用した。サリットの「タイ式民主主義」と議会制民主主義の均衡を謀りながら、経済成長に成功し、NIEsに近づけることに成功した。反政府武装闘争を続けたタイ共産党に対しても弾圧ではなく対話による説得にとつとめ、共産党勢力の投降も相次ぎ、この時期にほぼ消滅した。この時期にはクーデタ計画が二回ほど表面化したが、いずれも事前に食い止められ失敗した。しかし、民選首相の声が強まる中、1988年に行われた総選挙に敗れて退陣した。

チャーチャーイ政権

 1988~91年 タイ民族党党首。1976年の血の水曜日事件直後に成立したが短命だったセーニー内閣に次いで、12年ぶりの文民首相となった。ソ連のペレストロイカ、中国の改革開放、ベトナムのドイモイなどのへの転換が進み、隣国カンボジア情勢も安定したことを受け、「インドシナを戦場から市場へ」と提唱した。一族や実業人で内閣を組織、国営企業の民営化をIT関連を中心に急激な経済成長を実現したが、国民から「ビュッフェ内閣」とか「金権内閣」などと非難されるようになった。

1991年軍部クーデタ

 1991年2月23日、金権内閣打倒を掲げる軍人が決行。国民もクーデタを暗黙のうちに支持した。チャーチャーイ内閣は倒れたが、軍は表面にはでず、アーナンが暫定内閣を組閣した。アーナンは外交官出身で民間企業の副社長からタイ工業会議所の会長を務めた人物で、実務家内閣を唱え自由主義的な経済政策を進めて国民の支持を受けた。しかし課題の憲法改正では軍人の首相就任を認めるかどうかで民主派と保守派の対立が起こり、1992年3月の総選挙では過半数を制した政党がなく、連立内閣が作られ、第1党の正義団結党は軍が主導する政党で、首相となったのが国会議員ではないスチンダー陸軍司令官であったので(就任にあたって退任したが)、軍を批判する民主派は強く反発した。

1992年 5月の流血事件

 5月14日 スチンダー司令官の総理就任に対し、軍人内閣に反対した市民が集会を開いた。たちあがったのは都市中間層で「携帯電話を持った市民」といわれた。ところが、軍が市民集会に向かって発砲、死者40人、負傷者600人という惨劇となって「5月の惨劇」とか「5月の暴虐」と言われた。実際の被害者はもっと多かったとも言われる。事態収拾に乗り出したプミポン国王がスチンダーを辞任させた。このとき、スチンダーが国王の前で跪拝する姿が全世界にながされ、タイにおける国王の調停が絶対であることが強く印象づけられた。

経済危機と憲法改正

 その後、穏健な民主党の党首チュアン内閣、次いでタイ民族党の党首バンハーン内閣という文民による政党内閣が続いたが、政党政治家は利権と結びついて汚職などの不正事件が相次いだ。1990年代以来の経済成長は続いていたが、規制緩和と金融自由化によって外国からの資金が無制限に流入するようになり、その資金を当てにした過剰な土地投機や開発計画の乱立が続いた結果、1997年7月2日にタイの通貨バーツの為替相場が暴落、アジア通貨危機が起こって、タイは一気に経済危機が深刻になった。このときは軍人出身の新希望党党首チャワリット内閣であったが、経済政策失敗の責任を問われて辞任し、再びチュアンが首相となった。その結果、それまでまとまらなかった憲法改正も、民主的な議会政治の確立が急務であるとの思惑が一致し、同年7月に成立した。これはタイ史上最も民主的な憲法であったので「人民のための憲法」と言われた。

タクシン政権と06年クーデタ

 タイの経済危機はチュアン内閣がIMFの支援と強力な指導を受け入れることで回復することに成功したが、雇用や株価の回復が不十分であったことから国民の不満が残り、その不満に答えて登場したのがタイ愛国党を率いる警察官僚出身の実業家タクシンであった。タクシンは経済成長と同時に低所得者救済を進めることなどを掲げて国民的な人気を集め、2001年の大統領選挙に当選し政権を獲得した。それはポピュリズムの政治とみられたが、一族の不正な蓄財などが明るみに出たことによって反タクシンの勢力も強まっていった。2006年9月19日、タクシン首相が国連総会に出席して留守の間に軍がクーデタを断行。ソンティ司令官が実権を握り、暫定首相として元軍人でスラユットが就任した。プミポン国王はクーデタ支持を表明。政府は愛国党に解散命令を出した。タクシンは非常事態宣言を出して対抗しようとしたが、裁判所はその無効を判決し、彼自身がタイに戻れない状態になっている。アメリカなど各国は戒厳令を早く解除し完全な民政への移行を勧告した。しかし、これもタイ「名物」の軍事クーデタという感じで、国民は冷静に受け止めていた。

タクシン派、反タクシン派の衝突

 2007年には民政に移管し、タクシン自身は国外追放が解けなかったので国外にいたがタクシン派が勝ち、タクシン派の内閣が出来た。ところが反タクシン派がしめる憲法裁判所が不正選挙を理由に首相を失職させるという司法クーデタが起こった。その後も同様な対立が続き、2009年~10年からはタクシン派の赤シャツを着た民衆(タクシン支持派は農村の貧困層が多い)と反タクシン派(都市の中間層に多い)の黄色シャツが街頭で衝突をくり返し、国際空港も麻痺するという事態が連日世界に報じられ、タイは混乱の度合いを増していった。

2014年の軍部クーデタ

 それまで事態を静観していた軍部が2014年5月22日にクーデタを実行、インラック元首相(タクシン元首相の妹)など政治家を拘束、憲法と議会を停止し、プラユット陸軍大将が軍事政権を樹立した。厳しい人権制限、報道管制が敷かれた軍政が続く中、2016年国王ラーマ9世(プミポン国王)が死去し、新国王ラーマ10世が即位した。新国王は新憲法の署名を拒否したり、海外生活が長く愛人問題があったりして国民的支持が今ひとつのようである。

2020年 コロナ禍の中の民衆蜂起

 そのような中、コロナ禍にさらされる中、2020年10月に若者の中から軍政反対のデモが起き、大きくなり始めている。彼らの要求には王室改革も含まれており、これまでのような「軍事クーデタ→軍政→民衆の蜂起→国王の仲裁による秩序回復」を繰り返してきたタイの軍事クーデタの歴史が変化するかもしれず、注目される。<2020/11/22記>
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末廣昭
『タイ 開発と民主主義』
1993 岩波新書

柿崎一郎
『物語タイの歴史』
2007 中公新書