印刷 | 通常画面に戻る |

タクシン

2001年にタイの首相。実業家から政治家に転身、経済成長政策を進めたが、06年に不正疑惑があって政治不信が深刻となり、軍事クーデタが起こって退陣した。

 タクシン(タクシン=チナワット Thaksin Shinawatra 中国名丘達新)は現代のタイの実業家、政治家。2001年から首相を務めるが、2006年に不正疑惑で国民の不信を買い、9月の軍事クーデタで失脚した。タクシンは警察官僚出身であるが実業家としても有能で、一代でシン・グループという企業集団を作った。その後タイ愛国党を組織、2001年総選挙で勝利して首相となった。その低所得者救済を掲げた経済政策(タイ愛国党とは右翼政党ではなく、タイ共産党系やかつての学生運動家たちが含まれている)や麻薬撲滅運動、アメリカにも一言いう外交姿勢などが国民的な人気を博した。一種のポピュリズムの政治手段を用い、権力の獲得に成功したといえる。
 タイの歴史では1768年にビルマの支配からタイを解放したタークシン王がいるが、このタクシンとの関係はない。

軍事クーデタで退陣

 しかし反面、家族への利益供与や親族企業のインサイダー取引、娘の不正入学疑惑、タイ南部のイスラーム系反政府勢力への強硬姿勢、麻薬撲滅を口実とした人権抑圧、マスコミ統制など批判も多くなった。2006年、タクシン首相のインサイダー取引疑惑が明るみに出ると、反撃して下院を解散し選挙に打って出たが野党が選挙をボイコット。首相は一旦退陣を表明したが居座りをつづけた。それに対して2006年9月19日、軍部が「民主主義を守る」と称してタイ軍事クーデタを決行し、タクシン首相は失脚した。

政治的実業家

 タクシンは、1980年代から増加した政治的実業家の典型であり、またタイで最も裕福であると言われるほとビジネスで成功した人物であったことから、1997年のアジア通貨危機の後遺症から脱却できないタイ経済の立て直しが期待された。<以下、柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.253-266 により構成
 タクシン(正しくはタックシン=チナワット)は1949年、タイ北部のチェンマイで生まれた中国系タイ人で、チナワット家はシルク販売で成功した著名な一族の出身だった。警察学校を出て警察局に入る一方、家業のビジネスを拡大させ、1980年代から政府機関・警察へのコンピューターのリース事業に成功して87年から警察局を辞任してビジネスに専念した。政府の大規模投資計画を警察時代のコネを活用して活用し、衛星通信、移動電話などの通信事業を急成長させた。規制緩和の恩恵で大きな成功を収めたタクシンは政界に進出、1998年に「タイ愛国党」(タイ・ラック・タイ党、直訳すれば「タイ人はタイを愛する」党)を結成、地方の有力議員を引き抜いて党勢を拡大した。

ポピュリズム「タクシノミクス」

 2001年の総選挙では、農民の負債の返済猶予、村落基金の設置、30バーツ医療制度の三本柱を公約に掲げ、小選挙区で400議席中200議席、比例区で100議席中48議席を獲得、対抗する民主党の倍の議席を得て圧勝した。
 タクシンはこのようなポピュリズムで選挙に勝ち、連立政権を組んだが、その政治手法は国家を企業と見立て、首相を最高経営責任者(CEO)としてトップダウンで経済成長を促進させるというものだった。その経済政策は「タクシノミクス」といわれ、「デュアル・トラック(複線)」と称される経済成長と貧困解消を同時に目指すもので、世界のグローバル経済にあわせて自由化、規制緩和を進めながら、食品、自動車、ファッション、ソフトウェア、観光の五部門に重点を置いて国際競争力を高めることを目指した。同時に公約の貧困対策も実施に移し、農民の負債の返済の免除によって購買力を高め、それによって国内市場の拡大、企業活動の活発化ももたらされた。  タクシンのポピュリズムは農村部の圧倒的な支持を受け、2005年選挙でも愛国党が圧勝して政権は2期目に入り、タイの歴史上最初の文民単独政権が成立した。しかしそのトップダウンによる政治運営は次第に権威主義的な面が強くなっていた。タクシンはシンガポールのリー=クアンユーやマレーシアのマハティールらに倣った安定政権を目指したが、次第にその強権的な手法とポピュリズム経済政策の破綻が目立ちはじめ、2006年に反タクシン運動が一気に盛り上がった。

反タクシンの軍部クーデタ

 きっかけはタクシンの親族企業であるシン・コーポレーションが格安航空会社に出資し、その株式を売却して巨額の利益を得たことが発覚、タクシン政権の倫理観の欠如として激しい批判が起こったことだった。2月、タクシンは反発を抑えるため議会を解散、総選挙にでたが野党が反発、選挙ボイコットを実行したため、タイ愛国党一党だけの選挙となり、各地の選挙区で白票の方が上まわるという結果となったため、憲法裁判所が違憲の判定を下した。タクシンは一時首相の座を降りたが、5月に暫定政権として復活、その後は反タクシン派とタクシン派の衝突が各地で起きるなど、不安定な状況が続いた。タイの軍は1991年のクーデタの後の翌年の「五月の暴虐」と言われた事件以来、なりを潜めていたが、軍内部にもタクシン・反タクシンの対立が及びそうな事態を恐れ、ついに2006年9月19日深夜、タクシン首相の外遊中を狙ってクーデタを決行、軍事政権を樹立した。
 この反タクシン・クーデタはタイでは15年ぶりのクーデタであったが、予測された面も強く、大きな混乱もなかった。それにはプミポン国王がクーデタ支持を明確にしたことも大きく、国連総会出席のためタイを離れていたタクシンは帰国できなくなってそのまま亡命した。しかし、タイ国内では、タクシンの経済政策の恩恵を受けた農村に多いタクシン派と、その非民主的的な政治運営や利益誘導型の経済運営に批判的な都市市民に多い反タクシン派との亀裂は深く、赤シャツをまとった前者と黄色のシャツを着た後者とが激しくデモを繰り返すこととなった。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

柿崎一郎
『物語タイの歴史』
2007 中公新書