スーダン内戦
エジプト南部のスーダンで1950年代以降、2次にわたって展開された民族対立、宗教対立から起こった内戦。2011年に南スーダンが独立して一旦収束したが、並行して2003年からのダルフール地方を巡る第2次内戦が起こり、多くの犠牲を出したが、2020年、和平合意が成立した。
現在のアフリカ諸国で最大の領土を有するスーダンは、1956年にイギリス植民地支配(正式にはイギリスとエジプトの共同統治)から独立しスーダン共和国となった。北部には首都ハルツームを中心にイスラーム教徒が多数を占めているが、南部の黒人地域では非イスラーム教徒の民族宗教(アニミズム)やキリスト教が根強く、2次にわたる内戦が勃発した。長い対立の結果、2011年7月、南部が南スーダン共和国として独立し、一応の決着がついたが、石油資源の問題、国境の未画定など不安定要素が続いている。
この紛争では推計約30万人が犠牲になった。しかし、2019年、バシル大統領の独裁に対する抗議デモが盛り上がり、続いて起こったクーデタでバシルが新客したことで和平の機運が高まった。国際刑事裁判所(ICC)はダルフールの虐殺に関わったとしてバシルに逮捕状を出しているが、身柄は引き渡されていない。
第2次スーダン内戦
1955~1972年の第1次スーダン内戦に続いて、1983年~2005年まで第2次内戦があった。1983年に北部を基盤とするスーダン政府が、イスラーム化政策を強めたことに反発した南部勢力が反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)を結成し自治権をめぐって武力闘争を開始した。長期化した内戦はいったん鎮静化したかに見えたが、1989年にイスラーム原理主義を掲げる民族イスラーム戦線(NIF)の支持を受けたバシル軍事政権がクーデターで成立し、SPLAとの対決姿勢を強め、再び内戦は激化した。90年代にはスーダンの石油資源に関心を持つアメリカが仲介に動き、カーター元大統領などがスーダンを訪問、次第に和平気運となり、2002年に停戦し、2004年5月に政府とSPLAの間で包括的和平が実現し、停戦監視のため1万人規模の国連平和維持活動(PKO)が展開されることとなった。この長期にわたる内戦で、約200万人が死亡し、400万人が家を失ったと言われる。2011年に南部独立の是非を問う住民投票が行われ、独立支持が多数を占め、2011年7月に南スーダン共和国として独立した。ダルフール紛争への飛び火
ところがスーダン内戦とは別に、スーダン西部の非アラブ系順民地域のダルフール地方で、2003年に政府が支援するアラブ系民兵が黒人住民を虐殺するというダルフール紛争が発生し、深刻な人権問題となった。こちらを第2次スーダン内戦という。この紛争では推計約30万人が犠牲になった。しかし、2019年、バシル大統領の独裁に対する抗議デモが盛り上がり、続いて起こったクーデタでバシルが新客したことで和平の機運が高まった。国際刑事裁判所(ICC)はダルフールの虐殺に関わったとしてバシルに逮捕状を出しているが、身柄は引き渡されていない。
NewS スーダン内戦、和平合意成立か
2020年10月3日、スーダンの暫定政権と複数の反政府勢力の代表が隣国の南スーダンの首都ジュバで和平合意に署名、2003年から始まった「世界最悪の人道危機」と呼ばれたダルフール紛争の終結に向けて歴史的な一歩を踏み出した。合意に署名したのダルフール地方や南コルドファン地方、青ナイル州を拠点とする勢力。合意により反政府勢力の兵士は徐々に暫定政権の治安部隊に合流するという。合意に参加しなかった反政府勢力もあり、暫定政権との戦闘を続けており全面解決にはまだ至っていないが、バシル政権を倒した民主化勢力の目的は平和の実現にあるので、和平合意は確実な一歩となるとも評価できる。<朝日新聞 2020/10/4>