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アチェ紛争/アチェ独立運動

現代インドネシアにおいてスマトラ島北部アチェ州の分離独立運動。1976年以降激化し、スハルト政権によって弾圧される。2003年に再び激化したが04年の津波被害を受け、05年に和解が成立、アチェ州に大幅な自治が付与された。

アチェ州 GoogleMap

 インドネシア共和国を構成するスマトラ島の最北部アチェ地方は、かつてアチェ王国が繁栄し、東南アジア島嶼部において最初にイスラーム化した地域であるという独自の歴史と文化を有しており、ジャワ人中心のインドネシアに対する対抗心があった。また、オランダ植民地支配に対してアチェ戦争といわれた抵抗を続けた経験もあった。<水本達也『インドネシアー多民族国家という宿命』2006 中公新書/岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 などにより構成>
 1949年、オランダからのインドネシア独立戦争が始まったとき、アチェもそれに協力し、独立後は一つの州とすることが約束されていたが、スカルノの統治するインドネシア共和国はその約束を守らず、北スマトラ州に併合してしまった。それに対してまず、1953年にアチェは独立したイスラーム法に基づくイスラーム共和国の樹立を目指して武力蜂起した。この「ダルル・イスラーム運動」といわれた分離独立運動は、1959年に政府がアチェを特別州とし、宗教や教育の自治権を与えることで収束した。しかし、アチェ紛争は、インドネシア共和国にとって、東部の東ティモールとともに内部に抱えた分離独立運動として長く続き、解決は21世紀にずれこむこととなった。

スハルト政権下の分離独立運動

 1965年の九・三〇事件を転換点としてスカルノに代わりスハルトが政権を握ると、経済開発最優先の開発独裁のもとで、アチェの石油や天然ガスなど豊富な資源(それらは日本向けの輸出にあてられた)の利益を中央政府が吸い上げるようになり、アチェの不満が再び爆発し、分離独立運動が再燃した。
 1976年12月にハッサン・ディ・ティロを指導者とする自由アチェ運動(GAM)が組織された。ハッサン・ディ・ティロはアチェ王国スルタンの末裔を自称し、「アチェ・スマトラ国」独立を宣言し武力闘争が開始された。GAMはゲリラ戦を展開してインドネシア国軍と戦い、闘争は長期化し、1989年、スハルト大統領はアチェを軍事作戦地域に指定し徹底的な弾圧を行った。その弾圧は一般住民にも及び、拷問、公開処刑、財産没収などの強硬手段はかえって住民の激しい反発を受けた。

アチェ分離独立運動の展開

 1998年にスハルト政権が倒れた後も戦闘は続いたが、次第に収束に向かい、軍事作戦地域指定は解除されるとともに、アチェへの大幅な自治権の付与、石油と天然ガスを除く資源収入の80%は地元に還元することなどの宥和政策が採用された。
 2002年には同じくインドネシアからの分離独立を要求していた東ティモールが住民投票を実施した上で独立を実現させた。アチェでは国軍による苛酷な軍事作戦が続いていたが、アチェ紛争の解決は国際問題化し、アメリカ・日本・EUが仲介に動いた。2002年12月9日、インドネシアのメガワティ大統領(スカルノの娘)と自由アチェ運動はジュネーヴで和平協定に合意した。

大津波と和平実現

 しかし、早くも2003年に国軍はGAMが武装解除に応じず依然として独立のための蜂起を準備していると非難、大統領も国軍に推されて非常事態宣言を出して再び戦闘が激化した。この戦闘では国軍側の発表では死者が一般住民を含めて2000人以上、身柄を拘束されたもの約3000人に達した。
 ところが翌2004年12月26日スマトラ沖地震による津波で死者13万、行方不明3万7千という甚大な被害を受けた。これを機に講和の機運が高まり、ユドヨノ大統領も和平を進め、フィンランド前大統領アファティサーリの調停によって2005年8月15日、ヘルシンキでインドネシア政府と自由アチェ運動の間で和解が成立、アチェは独立要求を取り下げる代わりに、それまで北スマトラ州であったものを独自のアチェ州とすることで収束した。アファティサーリはアチェ和平実現への貢献によって、2008年のノーベル平和賞を受賞した。
 2002年の和平合意が失敗したのに対して、2005年の交渉が成功した背景には、大津波という自然災害からの復興が最優先されたこと、ユドヨノ大統領の並々ならぬ意欲(02年交渉でも交渉役を務めながら失敗した経験を生かした)、国軍も交渉の場に参加させたこと、自由アチェ運動でも指導者ハッサン・ディ・ティロは存命だが高齢であり、戦闘員も高齢化が進んでいたこと、そして今までの交渉と違って両者が直接顔を合わせ、英語ではなくアチェ語で会話したことなどであった。<水本達也『インドネシアー多民族国家という宿命』2006 中公新書 p.156-160>
 また合意の前提として、自由アチェ運動がアチェ独立の要求を取り下げたこと、合意後の政体について、GAMの「自治政府」と政府の「特別自治州」という対立した用語を用いず、「統一国家と憲法の枠内で問題解決に取り組む」としたうえで「アチェを拠点とする地方政党」の設立を認めた。これはインドネシア政府にとっても大きな譲歩を意味していた。同年12月EUとASEANの将兵によって編制された和平監視団が見守る中、GAMは武装解除をおこない、国軍は増派部隊を完全撤退させた。
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書籍案内

水本達也
『インドネシア
多民族国家という宿命』
2006 中公新書

岩崎育夫
『入門東南アジア近現代史』
2017 講談社現代新書